2.ファラオ、自室でモフモフする


「ふわぁ、今日はもう疲れたわ」


「お疲れ様、アルシノエ」


 椅子の背にぐったりもたれて大あくび。アヌビスはそんな私をねぎらって扇で風を送ってくれた。


ケアトの農閑期こそファラオは忙しくなるもんねー」


「そうよ、 放っておけば民が一日中畑に出る季節とは違うんだから」


 毎年、豊穣ほうじょうの星ソティスの朝出とともに聖河ナイルの増水が始まって、我が『黒土国ケメト』には大いなる恵がもたらされるわ。


 たっぷり四ヶ月続く増水は、川上から養分豊富な黒土を運んでくれる。そのおかげで砂漠の真ん中に埋もれた我が国でも麦が育つというわけ。


 “黒土国ケメト聖河ナイルのたまもの”と言われる由縁ゆえんね。


 水が引くと季節はペレト。暑さが多少やわらいだこの時期に、民は麦の種まきを始める。そして四ヶ月後の乾季シェムウが刈り入れ時。


 ケアトペレト乾季シェムウ。この三つの季節が巡ると、また新しいケアト

 これが我が“黒土国ケメト”の一年よ。


 頭の中でこのケアトのお仕事を整理しながら、私は机上の手鏡に手を伸ばして――


 あぁ!? どうしましょう! 

 

 自分の顔と向き合って、とんでもないことに気づいてしまったわ。


「やだぁ! さっきあんな近くにティズカール様がいらっしゃったのに、私ったら化粧すらしてなかったじゃない!!」


 いつも公務でお顔を合わせるときは化粧も衣服も完ッ璧に整えてるのにっ!!


「うぅ髪もボサボサじゃん……。それでさアヌ、聞いて。今日の神官たちの奏上そうじょうを聞いているとね、ケアトの始まりまでに用意することになっていた舟の数がそろってないっていうのよ。あれ、絶対に予算を横領おうりょうしてるわ。徹底的に調べてやらなきゃ」


 アヌは肩をすくめる。


「アルシノエってよく二つのことを同時に考えられるよな。それにしてもすんごい怖い顔になってるけど大丈夫か? それじゃうちの冥界神とうちゃんみたいだぜ」


「だってぇ、こんな情けない姿をティズカール様に見られたかと思うと……」


「え、そっち? 神官の横領の話は?」


 ふんっ、今この自室にいる時くらいは国のことよりティズカール様のことを考えていたっていいじゃない。


 私はあらためて手鏡の中の自分と目を合わせる。


 “黒土国ケメト”人の誇りである赤銅しゃくどう色の肌には、毎日念入りに百合油リリノンを塗り込んでいるんだけど……うん、大丈夫、今日もちゃんとツヤと潤いを保ってるわね。

 美しく日焼けしながら肌を傷めないのは大変な難事業なのよ。


 ふわふわと豊かな黒髪も、手ぐしを入れれば肩先できちんと整う。

 目は大きい方だと思うし、瞳の色は“天上のターコイズ”なんて大げさに褒めてもらえる。


 うん、容姿は悪くないと思うの。背は……ちょっと低いけど。


「ウヌウヌ〜! 今日もお願い!」


 背後に呼びかけると、寝台の下から小さな影がぴょこんぴょこんと二つ現れた。


 そしてその影――白兎と黒兎が私の胸に飛び込んでくる。


「あぁ〜モフモフ気持ちいぃぃ! 癒されるぅ!」


 二匹を抱きしめその体に顔をうずめて、私はもっふもふの肌ざわりを堪能たんのうした。あぁ、このやわらかなさわりごこち……たまらないわ〜。

 やっぱり寝る前のモフモフは欠かせない、モフモフは命のみなもとよ!


 ひとしきり顔をスリスリすると、二匹の体がするりと実体をなくした。

 えぇ、もう人型に戻っちゃうの!?


 ふわふわとただようモヤの中から現れたのは、私より少し歳上に見える二人の男女。


「アルシノエ、今日も疲れているわねぇ」


 黒い兎の耳をぴょこぴょこ動かして、色っぽい唇に指を添えるのが黒兎女神のウヌト。


 彼女って全身から色気がムンムンなのよね……どうやったらあんなに胸が大きくなるのかしら……。

 くるくるの黒髪を長く伸ばしているのも、とっても素敵。


 この暑苦しい国で髪を伸ばすのは神様の特権なのよね。人間だったら髪がうざったくてしようがないもの。


「さ、はやく寝台に横になって。寝る前のお手入れは僕たちに任せてね」


 白い兎の耳をそよがせているのが、タレ目の白兎神のウヌヌ。いかにも気の弱そうな顔つきで、肌も白くて体も薄い。


 こちらはくるくるの黒髪を短くしているんだけど、その頭はまるで鳥の巣……いや、失礼ね、やめましょ。


 二人は夫婦の神様。名前がややこしいし、いつも二人一緒だから、私はまとめてウヌウヌって呼ぶことにしてる。


 ウヌウヌは、私の身の回りの世話をしてくれる神様なの。


 普通はファラオといえど神様にそんなことさせないんだけどね。先代――つまり私のパパも、身の回りのことは人間の従者にまかせていたもの。


 でも、兎夫婦がやりたいって言ってくれるから、私はその言葉に甘えることにしてる。


 私って、歴代のファラオの中でも、特に神様に好かれる体質なんですって。


 寝台にうつ伏せになると、まずは白兎神ウヌヌが体をほぐしてくれる。あーかたくなった肩と背中が楽になるわぁ。

 その間に黒兎女神ウヌトが爪のお手入れ。甘皮まで綺麗にしてくれる、丁寧な仕事ぶりよ。


 最後に黒兎女神ウヌトが香油を全身に塗って、その百合の優しい香りに包まれると私はだんだん眠くなってくる。


「アルシノエ、今日の香りはどう? 実は新しく調合したものなのだけど」


「あ、やっぱり? いつもと少し違うなぁと思ってた……」


 眠気をこらえながらモニョモニョと答える。そして、つい本音を言ったのが大失敗だった。


「でも前の方が香りが強くて好きだったかなぁ……」


 ガタン、と大きな音がして、ウヌウヌが床に転がった。二人そろって青ざめている。


「そ……そんな!!」


「わたしたち、な、なんてことを……!!」


「あ、ウヌウヌ、違うのよ、別に今日のも嫌いじゃ……」


 ぴーんと耳をたて白目をむいた二人は、私の話なんて全ッ然聞いてくれない。


 あぁ私ったら余計なことを言ったわ。この夫婦、とっても気の良い神様なんだけど、ちょっとのことで自己嫌悪大会を始めちゃうのよね……。


「ウヌヌ、どうしましょう!? 私たちアルシノエになんてひどいことを!!」


「あぁ、ウヌト、こうなったら僕たち死してわびるしか……!!」


「いや、私怒ってないのよ。今日の百合油リリノンも大好きよ、だから……」


 訂正もむなしく、二人は手を取り合ってガタガタ震え始めた。見た目はチグハグな二人なのに、性格はそっくり。


「ウヌト、僕たちはしょせん兎だ。こうなったらこの肉体ごと鍋に飛び込んで……」


「そうねウヌヌ、グツグツ煮込んでもらいましょう……きっと美味しいスープになって、せめてものおわびになるはずよ」


「あぁ、僕たち冥界でも会えるだろうか!?」


「もちろんよあなた! 鍋の中でも、そして肉体を失っても、私たちの霊魂はずっと一緒よ!!」


「ちょっとやめー! やめなさーい!!」


 抱き合って涙ぐむ二人にわりこんで、私は夫婦を正気に戻した。


「勝手にスープになるんじゃない! それよりも私は肌のお手入れをしてほしいの、それだけだから!」


 でもとか、やっぱりとかモジモジする二人を、アヌも一緒になだめてくれた。


「そうだよ、お前らがスープになったら誰がズボラなアルシノエの世話をするんだよ。お前らにしかできない仕事だろう」


「アヌビス様……」


 ウヌウヌは今度は感嘆の涙をにじませてる。


 人間の見た目年齢でいえば、兎夫婦はアヌビスよりもずいぶん歳上に見えるのだけど、神々の中の序列は全くの逆なのよね。

 アヌはこう見えて偉大な神様なのよ。


 さりげなく私のことズボラとか言っちゃうところはクソガキって感じだけど……。


 こうしてアヌのとりなしもあって、やっとお手入れが再開された。


 百合の香りに包まれながら、私は今日の出来事を振り返る。


 いったいどうしてティズカール様は突然忍んでいらっしゃったのかしら。

 あぁ、でもそのおかげで、あんなに近くでお顔を拝見できたんだわ……。


 愛する夫君のオリーブ色の瞳を思い出すと、頬がほてってしまう。お言葉も誠意があって……ちょっと強引だったけど、そういうところもかっこよかったわ。


 うん、やっぱり素敵すぎる。さすが私が見初みそめたお方!


 ふわぁ〜……ティズカール様も、今ごろお休みになられているのかしら……。


 もしかしたら、私と同じように神様と一緒にご寝所にいらっしゃるのかも。


 ティズカール様の婿入むこいりの時に、ある神様が彼の守護者をかってくれたの。


 私はその神様ですらうらやましく思いながら、ゆるやかに眠りの世界にうもれていく。


「……いいなぁメジェド神は、毎日ティズカール様と一緒で……」



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