女王陛下は一途な恋心《きもち》をかくしたいっ!!

風乃あむり

第1章 ファラオの暑い夏

1.ファラオ、夫にせまられる

 ファラオに即位して一年ちょっと。私、アルシノエはかつてない窮地に立たされていた。


「だから、たまには私とお話しする時間をもうけていただけないでしょうか」


 私の目の前、息がかかるほどの距離で、凛々しい瞳に見つめられている。

 ここは宮殿の自室。その石壁に追いつめられ、私はちっとも身動きがとれない。


 そう、私、夫にせまられているのよ。


 隣国から婿むこにとった彼は、褐色の肌に短い黒髪の二十三歳。熟し切る前のオリーブみたいな明るい瞳が、私をまっすぐ見つめている。


 その瞳に熱をこめながら、彼はささやくように懇願する。


「ただ顔を合わせていただくだけでいいのです」


 ふいと顔を逸らし、私はそれに抵抗する。


「……こ、このような無礼を働くやからと話すことなどありませぬっ」


 ええ、勝手に女の部屋に忍び込んだ男に対しての言葉としては申し分ないはずよ。


 すげない返答に彼は小さなため息をもらす。するとそのぬくい吐息が鼻にかかって……


 ああああ、もうっ!! やめてーー!


 近い、近すぎますっ! お顔が近すぎますっ!!


 ああ違うの、決してイヤなわけじゃないのよ。そう、どちらかというと――嬉しすぎるのよっ!!


「どうしてそのように私をこばまれるのです? 私たちは太陽神ラーにも認められた正式な夫婦ではございませんか」


 えぇどうしましょう、その憂えた表情も素敵……。だめよ、私の心臓、はやく落ち着きなさい! そんなにドンドコ胸の扉を叩いたら、彼に聞こえちゃうじゃない!!


 実は私、夫とこんな風に真正面から顔を合わせるのは初めてなの。


 間近で見る我が夫、ティズカール様。


 濃い眉にくっきりとした目もとの、穏やかながらに精悍せいかんなお顔付きで、見つめるだけでヨダレが垂れそうな……って、私ったらナニを考えているのかしら!?


 ――ふぅ。落ち着きましょう、私。お黙りなさい、本当の私。


 きりと視線を尖らせて、私は冷たく言い放った。


ファラオたるわたくしの部屋に勝手に忍びこむなど、たとえ夫といえど罪に問われますわよ」


 うぅ我ながら内心と発言の落差がひどいわ。


 さすが十八歳にして稀代きたいの名君と褒めそやされる私。この手の駆け引きはお手の物ね。自分で自分を褒めちゃうわよ。


 きっと彼は心をくじかれて、私から離れていくのでしょう。


 正直、悲しい。すっごく寂しい。でも仕方がないのよ。これはティズカール様ご自身のためなんだから。


 そう思って覚悟を決めていたのに。

 えぇ、どういうことかしら!? 離れるどころか、彼のお顔がよりいっそう近づいてくるんですけど!?


 もう、今日のティズカール様、大胆すぎない!?


「陛下はこのようにしないと顔も合わせていただけない。せめて今だけでも目を合わせてお話ください」


 無理、無理、だから無理なんだってー! さすがの私も目を合わせちゃったらそのたくましいお胸に飛び込んでしま……ってだからナニを考えてるのよ私ったら!!


「ティズカール殿……人を呼びますよ!!」


「かまいません。夫婦で睦みあってなにがおかしいのです?」


 む、む、む、睦みあうってナニー!?


「アルシノエ様……私は普通の夫婦になりたいだけなのです」


 え、待って? 今、私の名前呼んでくださったの? いつも陛下としか言わないのに??


「な……なれなれしく名前でよぶなど、どこまで無礼なのです?」


「では陛下。せめてたまには私とお顔を合わせてくださいませ。少し語らうだけでも良いのです」


 ふふふ、ご存知ないのね? 私は毎日こっそりあなた様のご尊顔を拝みにうかがってますけどね! そんなこと絶対言えないけど!!


 それにしても、はやく離れてー! このままだと本音がもれてしまいますっ!!


ああ、いっそ大好きだと言ってしまいたい……そのたくましいお胸に飛び込んで、それでそれで……。


いやいやダメよアルシノエ! そんなことをしてはティズカール様が危険だわっ!!


頭の中は大混乱。理性が本能に敗北するまさにその一瞬前。


「わんっ!! わんわん!!!!」


やっと助け舟が差し出されたの。


 激しく威嚇いかくする鳴き声に驚いて、ティズカール様が顔を上げる。


「わん!わん!」


 鳴き声の主は、奥の寝室から現れた。


 全身真っ黒な短毛に覆われた犬。耳が兎のようにピンと立ち、細い尻尾がユラユラ揺れている。その体長は仔馬ほど。


 白い牙を見せ、いかにも獰猛どうもうに唸るその黒犬を、私はピシリと指し示した。


「ティズカール殿、御覧なさい! アヌビス神もお怒りです」


「うぅぅぅぅわんっ!」


 婿殿の濃い眉が情けなく下がる。(え、そのお顔も本当に素敵)そして彼は小さなため息とともに静かに数歩下がり、黒犬アヌビスに向けて深く一礼した。


「申し訳ございません。『神の牧人まきびと』たる陛下に、多くの無礼を働きましたこと、深くおびいたします」


「わん」


「アヌビス神も私も寛大です。そのことを幸運にお思いなさい」


 今度はピシャリと木の扉を指差した。


「ティズカール殿、今宵こよいはもうお下がりなさい。話があるならば従者を通すこと。それが礼儀というものです」


「……承知いたしました」


 今度は私に向けて一礼し、彼は部屋から去っていった。大きな背中が少し丸い。


 ぎぃと音を立てて扉が閉まった。廊下を去る音が聞こえて、それが完全に消えてしまうのを確認。


はぁ、なんとか助かったわ。ふにゃりと肩の力が抜けた。


 そして忠犬を振り返る。


「アヌぅぅぅぅ、ありがとう!!」


 勢いよく黒犬神アヌビスに飛びつくと、やわらかい毛並みが気持ちいい。うぅふかふか〜! 安心するぅ!!


 ところがその体はすぐに厚みと重さをなくしてしまう。ついでに実体もなくしてかすみのようになると、その中から黒髪を逆立てた少年が現れた。あぁ、もう少しあの毛並みを味わっていたかったのにぃ……。


 彼は床に座りこんだ私をあきれて見下ろしている。


「おいアルシノエ、助けてほしいならそう言えよ。俺、出て行くべきかちょっと迷ったぜ」


「はぁ!? どう見ても助けを求めてたでしょ!?」


「うそだな、けっこう嬉しそうだった」


「ぎくぅ!」


 くりくりと丸い目で私をからかう少年は、冥界めいかいの王オシリス神の息子、闇をつかさどるアヌビス神。


 普段は黒犬の姿なんだけど、私と話すときには人型になるの。


「人型」といっても、ただの人間と間違えられることがないように、耳と尻尾だけは黒犬のままなんだけどね。


「しかし、婿殿も気の毒だねぇ。一生懸命良い夫婦になろうとしているのに、妻にあんな風に拒絶されて」


 アヌはトコトコと寝室に戻る。気軽に私の寝台に腰掛け、足を揺らして楽しそうにしている。


「ホント気の毒、まさか毎朝毎晩とうの妻にのぞき見されてるとも知らずに」


「だってしようがないでしょう! あと一年は親しくお話できないんだから!!」


「だからってのぞきは良くないぜ」


 私が少しくらい怒っても、アヌは全然気にしない。寝台の亜麻布をいじりながらクスクス笑う。


「婿殿がこの寝台でお休みになるまであと一年か〜」


「ちょっ……エッチなこと言わないでよ!」


「えーエッチなことなんて言ってないけどー」


 アヌのとぼけた顔はいかにも無垢むくな少年のものだけど、私は決してだまされないわ。


 だって十歳くらいの子どもに見えてもアヌは神様だもの。長い長い年月を生きて、今は私に寄り添っているだけのこと。


 一番身近な神様だから、私もつい友だちみたいに話しちゃうんだけどね。


 寝台に腰掛けたまま、アヌは窓の外を眺める。風を受けて細い耳がかすかに揺れた。


 布張りを外した窓からは、ただ静かな星空が見える。方角は東。やがて空が白み始めれば、そこに豊穣ほうじょうの星ソティスが昇るの。


 季節はケアト。今年も聖河ナイルの増水が始まる。


「次のケアトに、弟が南に婿入りする。それまでは私とティズカール様が睦まじい仲であることを悟られるわけにはいかないのよ」


 東の空をにらみつけ、私は決意を新たにした。


 私にはファラオの位を争った双子の弟がいる。継承権争いに敗れ、私を強く憎む彼は、私のお気に入りをなんでも奪い取っていく。


 だから私は、愛しい婿殿への気持ちを隠しとおさねばならないの。彼を弟から守るために。


 アヌはまたニヤリと笑った。


「そもそも君たち、まだ睦まじくはないけどね」


「うっ、うるさい!」


「はーそれにしてもあと一年か〜」


 黒髪のあどけない少年は、にっこりと私にむかって微笑んだ。


「アルシノエは、それまで自分の気持ちをおさえられるかな〜」

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