その三
その日は、以前から建築していた家が竣工し、引き渡しも終え、そのせいで開放感があったのだろう、庄吉が、天ぷらを喰いにいかないか、と云いだした。
ずいぶん帰宅時間も早いし、こんなことを云いだすのもめずらしいことではある。おさとは、先日の喧嘩をわびるつもりもあるのかもしれない、という気がした。
なんでも、家族で入れる、うまそうな(他人からの受け売りらしい)、店が両国のほうにあるのだそうだ。
太助には、ちょっと遠いんじゃないかと、おさとは心配したが、太助も、ぜったいいく、と云ってきかないし、それじゃぁ、ということで、家族三人で食べにいくことにした。
政造も誘おうとしたが、長屋にはおらず、庄吉が云うには、もう呑みにでもいったんだろう、ということだった。
日はまだ明るく、今からいけば、暮れ六ツか六ツ半(午後六時から七時)には帰ってくることができそうだ。
ともすれば走りだそうとする太助の首根っこをつかむようにして、神田川まで出、和泉橋を渡り終えるところだった。
柳原通りの向こう側を、東から西へと、ちょっと異様な風体の男が歩いてきた。でっぷりと肥えた体で背をまるめ、口は半開き、髪がほつれてボサボサとしている中年の男だった。大人なら、そんな人もいるだろう、でおわるところだが、子供はそれでおわらなかった。
「あ、変なのがいる、変人だ」
突如、男にむけて大声で云い放つ太助に、
「ばかっ」
おさとがたしなめるより、庄吉の手が飛ぶほうが、はやかった。
頬をひっぱたかれ、よろけた太助は、なにが起きたかわからない顔で父をみかえし、通りすぎる人々も、なにごとかと、足をとめた。
「てめえ、なんてことを云いやがるっ」
庄吉は云いながら、ふたたび太助の頬を、ぶった。
「この、大馬鹿やろうがっ」
さらに振り上げた庄吉の右腕が、ぱっとつかまれた。
「いけねえ、
さきほどの、異様な雰囲気の男だった。
「放してくだせえ、旦那」
「いや、だめだ兄さん」
「こりゃあ、しつけなんだ」
「それでもいけねえよ」
男に向けた目を、庄吉は太助に向けなおし、おい、と叫ぶように云った。
「おい、聞いたか、太助。お前が悪口をいった人が、お前をかばってくれてるじゃねえか。こんなやさしい人にむかって、お前はなんて云った」
太助は、こらえきれなくなって、ついに泣きだした。
「泣くんじゃねえ。泣いたって、ゆるされねえことだってあらあ」
男に腕をつかまれたまま、庄吉は続けた。
「いいか、太助。人をみたら泥棒と思えって、云うがな、あれは人をうたがうことを知らない優しい人を、
云いながら、また腹が立ってきたのか、太助を殴ろうと庄吉はもがいたが、男がしっかりと腕をつかんで放さなかった。
「兄さん、もういいよ、俺はもう気にしてねえからよ」
「旦那、放してくんなせえ。俺はこいつを、人を見た目だけで決めつけて、心ないことを云うような、そんな、軽薄な人間に育てたくねえんだ」
「わかった、わかったよ、兄さん」男は、太助をみて、やさしい声音で続けた、「坊、お前ももうわかったな。うん、そうか、わかったな。もう人の悪口は云うんじゃないぞ」
太助は泣きながら、こくりこくりと頷いた。
それを見た庄吉は、気持ちがおさまったのか、肩の力を抜いた。同時に男も、庄吉の腕をつかんでいた手を放した。
数瞬の間、沈黙が場を支配した。音もせず、人も動かず、風もやみ、時間がとまったようにおさとは感じた。
「旦那、うちのガキが、すいやせんでした」
庄吉が、男にむかって頭をさげた。
「いいよ、本当にいいんだから」
男が照れたようにいうと、なりゆきを見守っていた周りの人たちも歩きだし、おさとの耳に音がもどってきた。
「けえるぞ」といいながら、庄吉は橋を北へ帰っていった。
おさとは、ずっと、なにもできずに、一連のできごとを、ただ見ているしかなかったが、庄吉が帰るぞと云った言葉で、我に返った。
「もうしわけありませんでした」
おさとも、男に頭をさげ、まだ引きつったように泣きつづける太助の手をとり、庄吉のあとを追った。
橋の中ほどまできたとき、振り向いてみたら、男は、まだ橋のたもとにたって、こちらを見ていた。男は、気まずいような、もうしわけないような、そんな顔をしていた。
おさとはもう一度頭をさげた。
それから数日は、しんみょうな顔でいた太助だったが、いつの間にかけろりとして、隣の源太と、おもてで遊んでいる。子供の気持ちのきりかえのはやさを、おさとはうらやましいと思った。大人になってから、何かあると根にもって、ぐずぐずと思い悩むことが多くなってきた気がする。
庄吉が、五日ほどたって、また天ぷらを喰いに行こうと云いだした。今度は、完全に、おさとと太助をなだめるのが目的のようだ。こういう、人を傷つけておいて、そのまま放っておけないところが、庄吉の人のよさのあらわれであり、憎めないところでもあった。
両国のその天ぷら屋は、「ご家族歓迎」などという珍しい売り文句で客を集めており、入ってみるとなるほど、どの小座敷ももう、家族連れでほとんどいっぱいで、おさとたちは、ひとつだけあいていた小座敷にあがることができた。
味は、まずまず、といったところだった。料理人の腕は良さそうだが、料理の単価を押さえるためか、材料が粗悪、というほどではないが、いまいち良くない。だが、庄吉や太助は、うまいうまい、と云いながら食べている。それほど、おさとはおいしいとは思わなかった。妙に味付けが濃い気がして胸やけもした。男と女では、味覚が違うのかしら、などと思ったりもする。
店をでると、もう、日が沈みかけており、藍色の空のなかで、ただ西の空だけが燃えるように赤く染まっていた。
すこし歩くと、太助が、
「疲れた……」
と云いだしたので、庄吉がおぶってやることになった。
両国橋から柳原通りと、家路をいそぐ人々が足早におさとたちを追い抜いたり、すれ違ったりしたが、それでも
「父ちゃん」
太助が話はじめた。うん、とうなずく庄吉に、
「父ちゃん、見ろよ、星がきれいだぜ」
などと、妙に感傷的なことを云いだした。
「ああ、ありゃぁ、一番星だな」
「そうか、あれが噂に聞く一番星か。きれいだな」
「宵の明星とも云うな」
「しゃれたことしってるな、父ちゃん」
おさとは、ちょっと失笑しそうになったが、ふたりの甘いひとときを邪魔しては悪いと思い、こらえた。
太助は、庄吉の背にゆられながら、いつのまにか気持ちよさそうに寝息をたてはじめた。
左手には神田川が静かに流れ、対岸の喧騒をかき消してくれているような気がした。
「さっき、お前わらったろ」
庄吉がいった。
「え、そうかしら」
「ああ、一番星の話のときだ」
「ええ、そうね」
おさとは、云おうかどうか迷ったが、言葉がのどまで出かかり、こらえておけなくなった。
「あの星ね、一番星じゃないわよ。一番星はあっち」
とおさとは東の空を指さした。その先には月のとなりで大きくまたたく星があった。
庄吉は鼻じらんだ顔で、おさとを振り返って、
「いいじゃねえか、今夜最初にみつけたんだから、こっちのが一番星だ」
「はいはい、そうね、そうしましょうね」
その時、一匹の猫が、三人の前を横切り、立ち止まると、じっとこちらを見つめてきた。あの時の「しま」とそっくりな模様をした猫だった。おさとは思わず立ちどまり、猫をみつめた。宵闇のなかに、目だけが赤く光ってみえた。
風が、すっと吹き抜けた。猫はその風に運ばれるように去っていった。
「ねえ」
歩きだしながら、おさとは庄吉に話しかけた。
「あのときの、猫のこと、覚えてる」
「あのとき……」
考え顔になった庄吉に、おさとは、昔、庄吉が猫を
「ああ、あのときか」
庄吉は、ちゃんと覚えていたようだ。
「そういえば、こっちをじっとみてる、うっとうしいガキがいたな。あれ、お前だったのか」
「うっとうしいは、ないでしょ。あの猫、あたし可愛がっていたんだから」
「そうか、そうだったのか。なんで今まで云わなかったんだ」
「なんで、って、そうね。だって……」
云われてみれば、その通りだった。なぜ今まで話さなかったんだろう。なんとなく話そびれた、としか云いようがなかった。おさとは困って、
「ねえ、猫があたしたちの縁を取り持ってくれたみたいよね」ちょっと話をずらした。
「へっ、そんなお
「あら、わからないわよ。庄吉さん、おさとさん、ありがとう、仲良くしてね、って」
くすり、と庄吉が、鼻で笑った。
「猫じゃないかもしれないけど、猫をねんごろに弔ったわたしたちへのご褒美に、神様か仏様がとりもってくれたのじゃないかしら。今日から、お前たちは猫夫婦だ、って」
庄吉は、たまらず吹き出した。
「猫夫婦じゃ、猫の夫婦のことじゃねえか」
「あら、そうね。でもいいじゃない、猫夫婦。神様仏様に感謝しないとね」
「神様仏様か」
庄吉は急に考え深そうな顔つきになって云った。
「神様や仏様がいるんなら、もうちょっと俺たちを幸せにしてくれてもいいんじゃねえか。平気で人を踏みつけにしたり、用がなくなったら簡単に切り捨てたり、そんな奴らばかりが、幸せそうにくらしてやがる。俺たちや隣の栄太さんとこみたいに、汗水たらして、一所懸命働いてる人間は、いつまでたっても幸せになれねえ。そんな不公平な神様や仏様ならいらねえよ」
ずっと、胸の深奥に秘めていた思いが、思わず口から漏れでた、といった感じだった。庄吉は、普段、茫洋としているようにみえても、かつて他人の欲望によって自分の人生を狂わされた人間であった。そんな人間の、心の奥にしまいこんでいた言葉なのかもしれない。おさとも、前の嫁ぎ先で切り捨てられたくちだが、そこまで深く物事を考えるにはいたらなかった。ただ、漠然とした不快感に身をさいなまれただけだった。
おさとは、かえす言葉が見つからず、ただ、庄吉と歩いた。さっきまで、庄吉の後ろを歩いていたはずなのに、いつのまにか、並ぶように歩いていた。
ふたりは、そのまましばらく歩いた。家が近づき、ふと人波がとぎれたとき、庄吉が、
「あの頃みたいに、変わり者のままでいられたら、楽だったろうな」
考えながら、という感じで話だした。あの頃、というのは、猫を弔ったころのことだろうか。
「昔みたく、いつも眉間にシワをよせて、すれちがう人たちとは目をあわさず、人からはうろんなものでも見るような目で見られながら、ひとりの世界に生きていられたら楽だったんだ。でも」
庄吉は、そこで少し間をおいて、
「でも、お前がいてくれたからだ」
ふりしぼるような声で云った。
「お前がいてくれたから、俺も少しは、周りの人たちと笑って話せるようになったんだ」
そうか、とおさとは思った。隣のおまちさんに、この人がむける笑顔は、いやらしいものではなかった。いやらしく見えたのは、あたしが嫉妬していたからだ、と気づいた。おまちさんに、親切にしているように見えたのも、庄吉なりに、周囲に溶け込もうとがんばっていたのだ。おさとの心がゆがんでいたから、見るものもゆがんで見えたのだ。
「お前や太助がいなけりゃ、俺はいつまでも、無口で愛想なしで、世間から嫌われる人間のままだったんだ」
おさとは、だんだん顔が上気してくるのを感じた。
「あら、あんた、自分が愛想がよくなったつもりなの」
おさとは照れくさくなって、庄吉をからかってごまかそうとした。
「なんだと」
「いつも眉間にシワをよせて、口をへの字にまげていて、たまに笑っても、にっそりと笑うだけで、そんなの愛想がいいとは云わないわ。それにいつも、むっつり、しかめっ面で。もうちょっと、あたしを見習いなさいな。あたしみたく、いつも笑顔をたやさず、おだやかにしていなきゃ」
「こいつ、ちょっと褒めてやったら調子にのりやがって」
「あんたのその物いいじゃ……」
云おうとして、もう言葉にならなかった。
――お前がいてくれたから……。
という言葉が耳にこだました。横を向いたおさとの頬をつたって、涙が流れ落ちた。温かい涙だと思った。
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