その四
ここ数日ふったりやんだりの天気がつづいていたが、今日は、ぬけるような晴天が広がっていた。陽射しは強く、まだ夏の暑さを感じられたが、空気は澄んで快く、夏のおわりを予感させる陽気だった。
新しい普請場は、浅草の西仲町にあった。太助を連れていって、両国にいった帰りのようにくたびれられても困るので、母か、長屋のだれかにあずけようかと思っていたのだが、太助はまた、きかん気をだして、ついていくと云いだしたので、しかたなく連れてきていた。今のところ、ぐずりだすこともなく、おさとにくっついてきている。
太助は、庄吉に怒られてからというもの、表面上はもとの生意気な子供にもどったようにみえても、心のどこかが多少変化したとみえ、わがままや生意気ぐちを云うのを、思いとどまるようなことが、まれにではあるが、あった。
――このまま、少しおとなしくなってくれると、いいのに。
おさとは思いながら、片手で太助の手を引き、もう一方の手で弁当を持ち、普請場を目指した。
――つぎの普請が無事に終われば、借金を返す
そう云って、うれしそうに微笑んだ庄吉の顔が、おさとにはまぶしく感じられた。
帰りにでも、どこかでお参りして、普請の無事をお願いしてこようかな、とおさとは思った。こんなときは、お寺にお参りするのだろうか、神社のほうがよいのだろうか、などと、たわいないことで迷ってみたりもした。
普請場が見えてくると、おさとの手を振り払って、太助が足早に歩き出した。
あんまり走るんじゃないよ、と声をかけながら、あいたその手を、お腹の上に持っていって、さすった。
どうやら、ふたりめの子がやどったらしい。
今朝、少し食べたものをもどしてしまい、どうやらつわりのような気がした。そういえば、月のものも来ていないし、まず、間違いないだろう、と思った。
すべての事柄が、ちょっとよい方向に進みはじめた、という感触を感じていた。
――このまま、すべてのことが、うまく運んでくれるといい。
と、おさとは心の底から願うのだった。
――あなたは今、お幸せかしら。
もとの姑の放ったひとことに、今なら胸を張って云える。
――ええ、幸せです。
生意気な息子には手を焼くし、夫は無口で愛想がないし、長屋は汚くても隣近所は人情にあふれているし、わたしは幸せです。
普請場に到着すると、庄吉と政吉がまた怒鳴りあっていた。
「もたもた、やってんじゃねえ、もうろくじじい」
「だれがもうろくしてんだ」
「だったら、もっと、しっかり柱を運べ」
「年寄りは大切にあつかえ。足腰よわってきてんだからよ」
「だったら普請場にくるな。とっとと隠居しやがれ」
「馬鹿にするんじゃねえや。え、どんなもんだ、馬鹿野郎」
「あ、ちゃんと立てろ。なにやってやがんだ」
「うるせえ、ちゃんとやってんだろうが、だまってろい」
それを立って見ていた太助の口から、吐息がもれた。
「おいら、ああはなりたくねえや」
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