その二

 庄吉の家では、先祖代々、お昼には食事を作って、普請場まで持っていくのがならわしになっており、政造と庄吉だけでなく、同じ普請場で働く雇いの大工や左官などの職人たちに茶をくばったりもしなくてはいけなかった。

 息子の太助も近くの普請場にはいっしょにつれていくのが常だった。

 太助は六歳になり、生意気盛りなのだろうか、ことあるごとに親に反抗したり、生意気な口をきいたりする。や庄吉がたしなめることもあったが、そういう場合には、祖父の政造にすがりつくなど、要領がいいというか、少々こすずるさも覚えてきたようだ。一度、しっかりと叱っておかなくては、と思うのだが、なかなかそんな機会もなく、今日まできてしまった。

「おいら、もう子供じゃねえやい、着物くらい自分で着れらあ」「たあ坊じゃあねえ、太助ってんだ、息子の名前ぐらいちゃんと云えってんだい」

 そして、父と祖父が口喧嘩しているのを目にすると、ため息まじりに、

「おいら、ああはなりたくねえや」

 などと、あきれたように云うのが、口癖のようになっている。

 今日は神田川を渡って小泉町の普請場まで行き、弁当を届けたが、太助は普請場に残ると云ってきかず、政造も、

 ――大工の子は普請場でいきかたを学ぶもんだ。

 とどこかで聞いたようなことをいうものだから、普請場においてきた。

 せっかくなので、はちょっと羽をのばそうという気になり、ちょうど太助の着物も小さくなってきたことでもあり、柳原で古着でも物色することにした。通りは人でにぎわっていて、ただでさえ暑い日なのに、人いきれでむせかえるようだった。

 これはあの子には、まだ大きいかしら。でもすぐに身体が大きくなるし。こっちのは、大きさはちょうどみたいだけど、色が派手だわ。

 そんなふうに、しばらく古着屋を冷やかし、そろそろ適当な着物でも買おうかと思っていると、通りの向こうから、懐かしい、それでいて、一生会いたくなかった人が歩いてき、気付かないふりをしようとしたが、時すでに遅く、相手と目があってしまった。

「あら、さんじゃありませんか。お元気そうねえ」

 前の姑のが近寄ってきた。その後ろには、昔からのとりまきだった傘屋と小間物屋のおかみがくっついていた。

 なにか避ける方法はないかしら。こんな時、元の姑のことはどう呼べばいいのかしら。などとあらぬ方向へ思考がとび、自分でも錯乱しているのを感じつつ、

「お義母さんもお元気そうで」

 と返すのが精一杯だった。

「あなたに、お義母さんと呼ばれる筋合いじゃないんですけどね」

 元姑のやせた顔のうすい唇が、蔑むようにゆがみ、出っ歯ぎみの前歯が隙間からのぞいた。

 ――ほら、来た。昔さんざん不快にさせられた、あげ足とりだ。

 は心中の不快さを、にさとらせないように、意識を顔に集め、がんばって微笑んだ。

 は、話をつづけた。「息子は再婚したら、すぐに子がで来たのよ。あなたは。そう、よかったわね。嫁は気立てもいいし、器量もいいし、仕事もてきぱきこなすし、まったくいい人が来てくれたものだわ。それでね、あなたが出て行ってから、商売もうまく回りはじめてね、今度、日本橋へ店を移すことになったのよ」

 は聞いているうちに、顔が引きつってくるのを感じた。それでも微笑みは崩さないようにしていたので、さぞ、異様な微笑みになっていることだろう。なにか云いかえしてやりたいが、普段おしゃべりだの、無駄口がおおいのと周囲から指摘されるほどのなのに、こんな肝心な時にかぎって、なぜか頭が真っ白になって、言葉が出てこない。

 ――俺は、人と世間話とか雑談とか、そんなのをしようとすると頭がまっしろになっちまうんだ。

 かつて、庄吉が云っていた言葉が頭をかすめた。

 ――わたしも、庄吉さんのこと、笑えないわ。

 の言葉を、必死に聞き流すようにしていたが、最後の言葉だけが、心にとどいた。とどいてしまった。

「それで、あなたは今、お幸せかしら」

 あきらかに自分の幸福を誇示する気持ちのふくまれた言葉だった。は、とっさに返事ができなかった。

「ええ……」

 なんとかしぼりだして、かすれた声音でこたえた。もう我慢の限界だ、と思った。

「それでは、失礼します。どうぞお元気で」

 は逃げるように、立ち去った。

 そのの後ろ姿に向かって、がなにかささやくと、お供のふたりから、嘲弄するような笑い声がわきあがった。

 のにぎりしめた手がふるえていた。

 怒ってはいけない。人の悪口をいうことでしか、日頃の憂さを晴らすことができない、憐れな人たちなんだ。怒ってはいけない。

 は怒りを握りつぶすように、さらに強く、手を握りしめた。

 ――あなたは今、お幸せかしら。

 のひと言が、頭から離れなかった。

 あの時、わたしは、すぐに返答をかえせなかった。なぜだろう、幸せかどうかなんて考えたことがなかったからかしら。今のわたしが幸せじゃないのかしら。

 帰る道すがら、ずっと自分自身に対して問いつづけた。考えても答えはでず、ただ、の顔が頭のなかで嘲笑するだけだった。

 ふと気づくと、もう長屋の木戸だった。太助の着物を買い忘れたことすら、頭になかった。

 このまま家に帰る気にはなれず、足がもときた道をもどりはじめた。隣町の実家にいって、母に愚痴をきいてもらおう、という気になっていた。


 夕飯の仕度をしていると、庄吉と太助が帰ってきた。庄吉は帰るなり、部屋に自堕落な姿で寝転んで鼻毛を抜いているし、太助は隣に住む同じ歳の源太と路地を走りまわっている。

 愚痴を聞いてもらいにいった母は、ダメだった。

 ――隣町に住んでいるのに、たまに帰ってきたと思ったら、愚痴しかいわないのかい。ああ、わたしゃ、孫の顔がみたいねぇ。たあ坊、わたしの顔を覚えているかね。

 などと、かえって愚痴を聞かされるはめになってしまった。

 外で遊んでいる太助たちの声が、癇にさわった。そのいらだちが、そのまま声になって、

「たあ坊、いつまでも遊んでないで、父ちゃんとお風呂にいってきな」

 なかば怒鳴りつけるように、云った。

「いやだい、まだ源ちゃんと遊んでるんだ」

「なまいってんじゃないの。ちょっと、父ちゃん、ぐだぐだしてる暇があったら、たあ坊をお風呂に連れていってよ」

「ちっ、しょうがねえな」

 しぶしぶ庄吉は立ち上がり、「手ぬぐいは」と低い声できいた。

「知らないわよ、その辺にあるでしょ。あ、いけない、干したまんまだわ」

「しょがねえな」

 庄吉は手ぬぐいを物干しからとってくると、遊んでいる太助に声をかけた。

「おい、たあ坊、風呂にいくぞ」

「いやだ、おいらまだ遊びたりねえんだ」

「うるせい、親に逆らうんじゃねえ」

 云うと庄吉はおもむろに太助を肩車に持ち上げた。

 たちまち太助がうれしそうにケタケタ笑い出した。

「あぶねえよ、父ちゃん」

「頭、気をつけろよ」

「じゃあね、源ちゃん、また明日」

「うん、太助ちゃん、またね」

「あ、まちな源坊、いっしょに風呂にいくか」

「うん、いく」

 よし、と庄吉はうなずき、隣の家をのぞくと、

さん、源坊を風呂に連れてってやるよ、いいかな」

「ああ、悪いね庄吉さん」

「いいってことよ。栄さんは、まだけえらねえのかい」

「ああ、どこほっつき歩いてんだろうね、あの唐変木」

 一連のやりとりを、は野菜をきざみながら、聞いていた。しだいに、きざみかたが荒々しくなっていくのが、自分でもわかる。

 ――まったく、外面だけは、いいんだから。

 は、色白の、ちょっと裏長屋には似合わない美人だった。十人並みの顔だの、愛嬌だけがとりえだ、などと云われて育ったからすると、長屋の男たちから、夫も子もいるにもかかわらず、ちやほやともてはやされるに嫉妬を感じずにはいられない。あの朴念仁の庄吉ですら、には鼻の下をのばすのだから、なおさらだった。

 庄吉の、よその女にむける、その笑顔の半分でもいいから、にむけて欲しいと思う。

 あなたは幸せかしら、と聞いたときの、勝ち誇ったような元姑の顔が、唐突に頭に浮かんだ。

 ――こんなバタバタとした毎日で、幸せもなにもないわ。

 借金の返済におわれ、生意気な子供にふりまわされ、愛想のない夫にいらだちながら、一日がすぎる。

 あのまま、口うるさい姑に堪え、前夫と離縁せずにいたら、いつか子供もでき、金に困ることもなく、安穏な暮らしがおくれたかもしれない。

 しらず、包丁を投げだし、は上がり框に腰をおろすと、頭にかぶった手ぬぐいをむしりとり、土間にたたきつけた。


 夕食を食べおわり、政造が向かいの長屋へ帰ると、は繕い物、太助は手習い、そして、庄吉は肘枕で寝転び瓦版を読みはじめた。

 だまって繕い物をしていると、どうしても昼間のことが思い出され、頭のなかで虫がのたうつような不快感につつまれてきた。

 太助をふとみると、習字をしているとばかり思っていたのに、犬だか馬だかなんだかわからない絵を描いていた。

「ちょっとなに描いてるんだい」

「え、馬だよ」

「そんなこと云ってんじゃないよ。習字をしなって云ってんだ」

 太助は知らんぷりをきめこんで、自称馬の絵を描きつづけている。

「ゆうことききな」

 ぴしり、と太助の筆を持つ手をたたいたが、思っていたより力が入っていたようで、筆が飛んで、壁にあたって転がった。

「うるせえな、静かにしねえか」

 庄吉がものうくつぶやいた、瞬間、のつもりつもった憤懣が爆発した。

「あんたが、太助をちゃんと叱らないから、ゆうこときかなくなったんじゃないの」

 匕首で刺すような云いかただったが、庄吉は意に介さず、

「へっ、おめえが甘やかすからだろうが」

「冗談じゃないよ、あんた。さんに鼻の下のばす暇があったら、太助の面倒をみろっていってんだ」

「誰が鼻の下をのばしてるってんだ。太助の面倒だって、ちゃんとみてるだろうが」

「今日だって、わたしが云わなきゃ、太助を風呂屋にも連れていこうとしなかったじゃないか」

「毎日仕事で疲れてんだ。しょうがねえだろ」

「あたしだって疲れてるんだよ」

「家のなかで一日中ぐうたらしてるくせに、なに云ってやがる」

「なんだって、もういっぺん云ってみな」

 の頭のなかで、なにかがぷつりと音をたてて切れた感じがあった。の声が怒声に変わり、

「誰がぐうたらしてるってんだい。食事だって、洗濯だって、掃除だって、毎日やってるだろ。弁当だって、毎日普請場まで持っていってやってんだろうが」

「それが働くうちにはいるか」

 庄吉も怒鳴り声に変わった。

「なっ」

「働くってのは、ちゃんと銭を稼いで働いたことになるんだ」

「ふざけんじゃないよ。あたしがどれだけ一日中汗水たらして」

「うるせえっ」

「あんた、あたしをなんだと思ってんだい。あたしが働いたぶん、あんたが給金だしたらどうだい」

「えらそうなこと云うんじゃねえ」

「あんた、そうやって、いつもあたしを女中かはしためみたいに見てるんだ。あたしはあんたの女房だよ。もうちょっと、気をつかってよっ」は、自分が金切り声をあげている姿を、天井からもうひとりの自分がみているような感覚になった。「あんたみたいな、むっつりして、しかめっ面した男、始終いっしょにいたら、気がつまるのよっ」

「だまりやがれっ」

 庄吉がの頬をぶった。はよろめきながらも、きっ、と庄吉をにらみ、反射的に、も手をあげた。その時、

「はいはい、そこまでだ」

 同じ長屋のという、でっぷり肥えた中年女が立っていて、の手をにぎって、とめた。気がつくと、いつのまにか戸口が開いてい、長屋の連中がみんな集まってのぞいていた。長屋のどこかで、ほとんど毎日夫婦喧嘩をしているから、みな慣れっこになっていて、喧嘩をとめるのも手慣れたものだった。夫婦がお互い、ある程度吐き出した頃合いを見計らって、誰かがとめに入る。だが今回は殴り合いになりそうだったので、あわてて間に割って入った、という格好だった。

「ふたりとも、なんだい、子供の前で。たあ坊がおびえてるじゃないか」

 は庄吉をにらみ、

「庄吉さん、女を殴るなんて、ろくでなしのすることだよ」

 さらにはたたみかけるように、

さんも、男なんて云ったってききゃあしないんだから、適当にあしらっておきなさいな」

 さ、おわりだ、おわりだ、といいながらが出ていくと、長屋の連中も芝居見物がおわったような態度で、自分たちの家に帰っていった。

 と入れかわりに、政造が入ってきて、

「たあ坊、今日は、じいちゃんの家にくるか。いっしょに寝ような」

 太助の手を引いて連れていった。

 去りぎわ、ふりかえった太助の、おびえてうるんだ目が、ひどくの心につきささった。

 ふたりとも、気勢をそがれたような気分になり、は、もうふて寝をしてしまおうと、布団をしきだした。

「あんたはそっちっ」

 四畳の部屋を、あごで指していった。

「てめえが、そっちで……」

「つべこべ云うんじゃないよっ」

 は、力まかせに庄吉の布団を四畳間に放り投げると、庄吉をおしだし、着物を脱いで布団に入った。

「亭主をなんだと思ってんだ」

 吐き捨てるように庄吉が云うのが聞こえ、また頭に血がのぼりかけたが、夜着をかぶってこらえた。

 目の裏に、元の姑のの顔が浮かんでき、つぎに鼻の下をのばした庄吉の顔が浮かび、おびえた目の太助の顔が浮かんだ。すべての心象が、胸をえぐるようであり、締めつけるようでもあった。

 の固く閉じた目から涙があふれてきて、とまらなくなった。声をださないようにこらえていたが、しだいに嗚咽になり、そして、身体ぜんたいが震えだした。流れでる涙の冷たさが、や庄吉の心の冷たさのように感じた。

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