猫夫婦

優木悠

その一

 夜だというのに、長屋の外で蝉が、じじじ、と低い音で鳴いている。蝉の声がやむと、部屋のなかに静寂な時が流れた。

 隣の六畳間では、夫の庄吉が肘枕で寝転がっていた。行燈の灯明りのなかで黒々と浮き上がっている、夫のそんな怠惰な姿を見ていると、ときどき無性に尻を蹴りとばしてやりたくなってくる。

 は、そのむらむらとわきあがる衝動をおさえながら、着物をつくろう手を動かしつづけた。

 ――この子もいつか、ああなるのかしら。

 と横で寝息をたてている、息子の太助をみつめながら思った。

 夫の庄吉は、無口で、愛想というものを母親の胎内に置いてきてしまったんじゃないかというくらい愛嬌のない男だった。それでも、江戸の大工らしく普請場では威勢がいいのに、家に帰ると人が変わったようにだらしがなくなる男だった。

 の気持ちを逆なでするように、庄吉はあくびをし、尻を掻いている。

「寝るんなら、布団をしいて寝てくださいな」

 風の吹きこまない長屋の蒸し暑さも手伝って、いらだちをかくさずが云うと、庄吉はしぶしぶながらも立ち上がり、ゆったりとした動きで枕屏風をずらし、布団だしてをしいた。自分のだけでなく、ちゃんとのも太助のもしき、それも畳のへりにあわせてまっすぐにならべる。几帳面なのはよいにしても、が小言を云わないと動かないのが癇にさわる。

「たあ坊もちゃんと寝かしてちょうだい」

 と続けて命令するように云うと、おいたあ坊、寝ちまってるのか、しょうがねえな、などとぼやきながらも、太助を抱き上げて布団まではこんでいった。


 八年前、は前の嫁ぎ先から離縁され、いささか気鬱ぎみになって、実家の長屋の部屋からほとんど出ず、引きこもっていた。

 は十八のときに、薬種屋のひとり息子に見初められるかたちで(実際には、間に立った者の方便だったが)、嫁にいった。姑は口うるさかったものの、商売は順調だったし、夫との仲も悪くはなかった。三年ちかく夫婦生活を続けても、子供ができなかったのが離縁の直接の原因ではあったが、姑も陰険だったし、夫は姑に頭が上がらず、が小言を云われていてもかばいもしなかった。だから、離縁を切り出されたとき、こんな家こちらから願い下げだ、と思いつつも、やはり切り捨てられた不快感は拭いされなかった。

 いつまでもかび臭い長屋に引きこもっていたら、身体にもかびが生えそうだ、なんとかしなければ、などと思いつつも、鬱々とした気持ちがうまく切りかわらず、半年ほどもぐずぐずしていた。父は、が子供の時分に他界しており、母が女手ひとつでを育ててくれた。三年前に娘を送り出し、肩の荷をおろしたと思っていたのに、ふたたび面倒をみなくてはならなくなった母の心境を思うと、自分が情けなくなってくる。のではあるが、気力がまったくわかないものは、どうしようもない。そう自身に言い訳しながら、母に甘えていた。

 そんなある日のことだった。同じ長屋の世話焼き婆さんが、表で母と声高に話しているのが聞こえてきた。

「道であっても挨拶もしないような変人なんだけどね、あの子もいつまでもああしててもしょうがないでしょ、よかったら間にたつよ」

 縁談話を持ってきたな、面倒な話だ、ありがた迷惑だ、と思いつつも耳をすませて聞いていると、縁談の相手は、隣の神田相生町の大工の息子で、よりも八つほど年上らしい。

 ――あの人のことではないかしら。

 の胸に、ふいに去来するものがあった。


 昔、それより十年ほど前のこと、が十歳のときのことである。そのころ、長屋の周辺をうろつく野良猫がいて、母からは汚いから近づくんじゃないと忠告されていたものの、はその猫の体毛の灰色に黒縞の模様から、

「しま」

 と呼んでかわいがっていた。

 だが、ある日、その猫が匕首あいくちのようなもので刺されて死んでいた。死骸は通りの真ん中に、うちすてられるようにころがっていて、道行く人々が汚いものを見るように避けて通り、はやるせない気持ちで猫をながめていた。そんななか、ひとりの大工見習いとみえる半纏姿の青年が、なんの躊躇もなく猫に近寄っていった。周りの不審がるような目も気にせず、おもむろに骸を手ぬぐいでつつむと、神田川のほうへ向かって立ち去ってしまった。

 なにをするのかと不安になり、は青年のあとを小走りについていった。

 青年は神田川沿いの火除け地までいくと、手近に落ちていた棒切れで穴をほり、骸を埋めてやると、手を合わせておがんだ。立ち去りぎわ、の横を通りすぎるとき、

 ――ひでえことをしやがる、ひでえことをしやがる……。

 とつぶやいていたのが、鮮烈に心に残っていた。


 ながながとはてなく続いている婆さんの話をきくにつけ、やはりあのときの人にちがいない、という確信めいたものが、の心の中にわきあがってきた。

 はなにかに弾かれたように立ち上がると、建て付けのわるい長屋の戸を勢いよく引きあけ、驚いてふり向いた婆さんに、その人が今どこで働いているか聞き、そのまま長屋を飛び出した。

 教えられた普請場にいき、なにげに通りすぎるようにうかがってみると、なかから怒声が響いてきた。若い大工と年配の大工が、喧嘩をしていた。

 驚くよりさきに、

 ――ああ、やっぱりあの人だ。

 とは思った。あの時、猫を弔ってくれた青年だ。は立ちつくして、青年と老人が口論するのをながめていた。

「ねえさん、なんか用かい」

 呆然とした顔で立っているを不審がってか、近くで作業をしていた左官の男が、声をかけていた。夢想から現実に引きもどされ、一瞬言葉がでなかったが、すぐに、

「いえ、大きな声がしたもんですから」

 動揺しつつ、ごまかした。

「ああ、あれね。あの親子、いつものことだよ」

 その左官は隣の左官と目を見合わせ、くすくすと笑っていた。云うとおり、いつものことなのだろう、慣れっこになっているようだった。

 若い大工が叫んだ。

「大事な道具をこんなところに置くんじゃねえ、ふんづけたらどうすんだ、くそじじい」

「だれがくそじじいだ。てめえが気をつけてよけやがれ」

「よける、よけねえの話じゃねえ、使ったものはちゃんとかたづけろってんだ」

「細かいことをぐちぐちいうな、江戸の大工だろ、お前」

「江戸だろうが大坂だろうが関係ねえ。大切な商売道具だろ、大切にあつかえってんだ」

 は、まだ口喧嘩しているふたりの声を耳に、左官たちに軽く会釈をして立ち去った。

 ――やっぱりあの人だった、間違いない。

 どこか見えないところに別の大工の男がいたかもしれない、などという思考は毛頭なく、は、あの青年が婆さんのいう縁談相手だと完全に思い込んでいたのであるが、もちろん結果として、の直感は当たっていた。

 は、今までふさぎこんでいた気分が、急に晴れたような心持ちになり、軒昂な足どりで家に向かって歩いた。

 長屋に帰ったはその足で世話焼き婆さんの長屋の戸をたたき、

「おばさん、わたし、縁談を受けるわ。話をすすめてちょうだい」

 勢い込んでいうを、婆さんは

「ほんとにいいのかい、そうかい、あんたがそう云うんなら……」

 あっけにとられた面持ちで答えたものだった。


 が嫁ぐ数年前までは、義父の政造は小さいながらも評判のいい大工で、一家は表店に住み、金がありあまっていたわけではないが、それなりの苦しくない生活をおくっていた。だが、ある時、たちの悪い金貸しから借金をしてしまった。善良だと思って、気軽に金を借りたのに、急に豹変した、というものだったらしい。どうも、政造一家と親交のあった大工が、政造家の仕事を横取りしようと、裏で画策したものらしかった。

 ――もう、夜逃げか、一家離散か……。

 というところまで一家は追い詰められた。が、つきあいのあった同業の富六が借金を肩代わりしてくれ、助かることができた。

 富六は神田界隈だけでなく、江戸中いたるところから普請の注文が入るほどの大手の大工で、今は、政造一家は富六から仕事を請け負うかたちで、大工を続けている。もちろん、借金は消えたわけではなく、富六に少しずつではあるが返済を続けているので、金銭に余裕もなくなり、表店を引き払って裏店の長屋住まいとなってしまった。

 が嫁いだときには、住んでいた長屋の向かいに、新しい部屋を借りてくれ、その時はまだ健在だった姑と四人で、食事だけいっしょにとっていた。

 庄吉は、あの時、が普請場でみた威勢はどこへやら、話かけてもろくに返事もしない無口な男で、当初が思い描いていた想像とは若干違っていたが、やはりどこか他人に対するやさしさのようなものは、ことごとに感じられた。それに、口数が多いと、他人からよく言われるとは、われ鍋にとじ蓋で、意外と相性がいいのかもしれないという感じもした。

 なにより、三人ともの前歴を知ったうえでなにも云わずに受け入れてくれたし、姑も以前の嫁ぎ先と違って細かいことはいわないし、舅は不器用ながらもを気遣かってくれていたし、この家族のはしばしから感じられる温かみのようなものに、心が救われるような気がしていた。もっとも、庄吉には、神経質で些細なことを気にするところがあったが……。

 そして、二年がたち、太助が生まれたが、反対に姑が寝ついてしまい、も懸命に看病したが、半年ほどで亡くなってしまった。その一年ほど前から病がちで、寝たり起きたりの生活ではあったが、待ち望んでいた孫の顔を見ることができたことで、どこか安堵してしまったのかもしれない。


 それから、さらに、六年がたち、ふと気がつけば、亭主のこのていたらくである。

 ――結婚なんてものは、三年もてば五年もつ、五年もてば十年もつもんだ

 と誰かが云っていた。

 ――そう、最初の結婚は三年もたなかった。

 庄吉とは、八年になる。十年目はむかえられるだろうか。指で目頭をおさえ、疲れた目をほぐしながら、はそんなことを考えた。

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