第10話 病んでいない人間などいない
晄が唐突に目を閉じ、躰がぐらりと揺れたのだ。数秒後、目を開けた晄は何度か瞬きをして、周りに視線を素早く巡らせた。目の前にいるりょう子を認めると、眉間にわずかに皺が寄った。
明らかに目つきが違う。
「今何時?」
先ほどより、少し低く、固い声。
「もうすぐ七時かな」
何も気づいてなさそうな虎之助が答える。晄はすい、とりょう子の脇を抜けて、無言のまま自室へ帰って行った。
「もうすぐ朝食だね、今日は何かな?」
急激な態度の変化に気を取られているりょう子に、虎之助は呑気に話しかける。「しょっちゅう日曜の早朝から晄に会いに来るものだから、ハルさんはいつも僕の分の朝食も用意してくれるんだ」
「そう、ですか」
また戻ってしまった。自分を嫌っている晄だ。あの不機嫌な目つき。自分は何かしたのだろうか? やはり記憶喪失という得体の知れない子どもが家に来たことが鬱陶しいのだろうか。
「どうしたの?」
急に沈んだりょう子の顔を、虎之助が覗きこんだ。
「やっぱり……気持ち悪いですよね、記憶喪失の人間なんて……」
「いいや? 強いショックから自分を守るための自衛本能は、なんら悪いことじゃない。まして気持ち悪いだなんて」
あっさりと笑顔のまま返され、りょう子は目をパチクリさせた。そんなことを言ってくれる人は今までいなかった。周りの大人たちは同情してか、腫物に触るように気を遣ってくれたが、記憶を失ったことを肯定してはくれなかったから。
早く思い出してお家に帰らなきゃね、りょう子ちゃんは繊細過ぎたんだね。と言われるたびに、弱い自分に罪悪感を覚えるようになっていったから。
「……ありがとうございます。心の病気だって、お医者様に言われて……。治したいけど方法がわからなくて、焦るけど、うまくいかなくて。でも今のお言葉で、なんだかほっとしました」
「この時代、病んでいない人間なんて稀だよ」
虎之助は双子のはしゃぐ声のする母家の方へ、目を向けた。「あの双子だって、二人一緒にいないと何も出来ない。依存し合って生きている。晄一だって、自分の心を守るために人格を変えている。皆、症状が違うだけで病んでいるのさ」
「あっ」
思わず声を上げてしまった。やっぱりそうだったんだ……!「二重人格という……ことですか?」
「そうだよ。晄一と、晄。全然違うよね、顔つきも、立ち振る舞いも、雰囲気もね」
虎之助が言うには、元々の人格が『晄一』――本名――で、新たに出てきた人格が『晄』らしい。
ということは初対面のときは『晄』で、その日の晩話しかけてきたのは『晄一』で、翌朝無視をしたり、夕方ぶつかったのは『晄』で、今朝は『晄一』だったということか。
「まぁ、誰も気づいてないと思うよ。日中学校へ行って生活しているのは、ほぼ『晄』だしね。『晄一』は、晄が寝ているときに気まぐれに起きてきて、ふらついているだけだから。華夜子さんの前には現れないし、双子は――さっきみたいに現れていても、違いに気づかないだろうね。こっちの反応などお構いなしだし」
「でも、『晄一』様が、本当の人格なんですよね?」
それにしては活動する時間が、少なすぎやしないだろうか。
「そうだよ、大概『晄』に任せている。何故なら『晄一』は、面倒事は苦手なんだ。楽しいことをしているときにだけ、ひょこっと顔を出す。そういうとき、『晄』はたいてい興味がないから、さっさと変わってくれるらしい」
笑い話でもしているかのような虎之助も、大分変っていると思う。
「反対に、『晄一』が興味を失ったり眠くなると、『晄』が目を覚ます。すると急に不機嫌になったみたいに見える。でも気にすることじゃない。ただ無愛想なだけだから」
そうだろうか? 『晄一』と『晄』。性格の違いはもちろんあるだろうけれど、『晄』の自分にたいする態度は、無愛想なだけとは思えない。華夜子や双子やハルさんにたいするそれとは全然違うからだ。
(むしろ嫌っているような……)
けれど初対面のときからああなのだから、心当たりがあるはずもない。
考えに耽っていると、虎之助と目が合って、ふとした疑問を口にした。
「――病んでいない人間は稀だとおっしゃいましたけど、當間様は稀な方なのですか?」
一瞬、虚を突かれた顔をした虎之助だったが、「切り込んだ質問をしてくれるね」とすぐに笑いだした。
「す、すみません! 失礼を……」
「いいんだよ。はっきり物言う子は嫌いじゃない。僕も同じさ。病んでいる。――同性しか愛せないんだ」
口をぽかんと開けたままのりょう子に、「そろそろ朝食の時間だ。母屋に行こう」と変わらぬ口調のまま、虎之助は続けた。
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