第9話 石鹸をくれた人は?
「おはよう」
寝間着姿の晄が声をかけてきたのは、まだ空は薄暗く、東の空がうっすらとオレンジ色に染まり出している早朝だった。
「おはよう……ございます」
「寒いね」
晄は両腕を袖に入れながら、肩をすぼめた。
(この人、自分が不思議な人間だって気づいているのかしら……)
無表情で近寄りがたい空気を身に纏っているのかと思えば、今みたいに親しげに近寄って来たり。不思議というか……不審だ。
「あの……櫛崎様」
「晄でいいよ」
本当に呼んでいいのか。今はいいけど、何時間後には睨まれやしないだろうか。
「晄……様。昨夜、窓に石鹸を置いてくださったのは晄様でしょうか」
ちょうど今から井戸で、石鹸を試そうとしていたところだ。手に持った坊ちゃまの顔を見せながら問うと、
「ん? いいや?」
あっけらかんと否定され、拍子抜けしてしまった。
(あれ? じゃあ誰が……?)
「僕じゃないけど……?」
ここで黙っているのも気が退けた。自分は男性に触れられるとどういうわけか拒否反応が起ってその部分を必要以上に洗ってしまう。そのため手がいつも荒れていて、それに気づいた晄が窓に置いておいてくれたのかと勘違いしてしまったことを話した。
「ですから昨日、ぶつかった後、助けてくれようと手を引いてくださったのに拒否してしまって……失礼をしました。お許しください」
「ん? 全然。いいよ」
他人事のようなあっけらかんとした言い方。
「それよりそれ見せて。面白いイラストだね」
くれたのが晄じゃないなら勝手に使っていいものか迷ったが、その晄はさっさと箱から石鹸を出してしまった。
(仕方ない、持ち主が現れたらちゃんと買って返すことにして……)
昨夜双子に教えて貰った効能を教えると、「ふぅん、僕も使ってみようかな」と興味津々だ。なんとなく二人で石鹸を泡立たせながら使用感について呑気に話し合っていると、
「何してるんだ」
突然、背後から男性の声がした。仰天して思わず晄にしがみつく。すぐに我に返って慌てて離れると、晄は「今手に石鹸ついてるからちょうど良かったね」とけたけた笑った。思いがけない表情にドキリとする。
(もしかしてこの人……)
ある考えが脳裏に浮かんだが、背後の男性にすぐ気を取られて消えた。
「ごめん、驚かせてしまった」
日が大分上がり、明るくなってきた空を背に、一人のすらっとした青年が立っていた。人懐っこそうな、優しげな目元。品よくセットされた、ふわふわの髪。身に纏った白いシャツとグレーのズボンの素材はいかにも上質で、高貴な雰囲気が漂っている。
「おや、おはよう、虎ちゃん」
手を流し終えた晄が右手を上げる。呼ばれた当人は渋い顔をして、
「虎ちゃんと言うな。――新しく入った子?」とりょう子に向き直った。りょう子が頷くと、
「僕は當間虎之助(とうまとらのすけ)と言います。こいつの友人で、たまにこうやって遊びに来るんです。よろしくね」
手を差し出されおどおどしていると、晄が助け舟を出した。
「ダメだよ虎ちゃん。りょう子ちゃんは男性に触れないんだ」
「え、そうなの」
ぱっと虎之助は手を引いた。「何か男性で嫌な事でもあったのかな」
「そういうこと、気を遣わずに聞いてしまうあたり、華族の坊ちゃんだよね」
「坊ちゃん関係ないだろ。性格だよ」
「りょう子ちゃん、虎ちゃんは當間伯爵家の嫡男だから何不自由なく育てられているんだ。だから人の機微に疎いんだけど、悪気があるわけじゃないから」
「いえ、そんな……大丈夫です」りょう子は慌てて手を振った。「あの、私昨年の関東大震災の際、記憶を失くしたようで……それ以前のこと、何も覚えていないんです。でも何故か男性に触れなくて……すみません」
「謝ることじゃない。そうかぁ、記憶喪失……本当に何も憶えていないの?」
改めて聞かれて、ようく自分の記憶を辿ってみた。地震で崩れた家々のがれきの山。すすけた匂い。道端に放置されている無数の遺体。それが今の、一番古い記憶。それ以前のことは、いくら考えてもわからない。地震が起こった当時、自分がどこにいて、何をしていたのかも。
「よほど地震の体験がショックだったんだろうね。で、気づいたら自分の名前以外忘れてしまっていたってわけだ」
「いえ……りょう子という名も、自分のものか自信はありません。ただ、こういう名前に憶えがある、というだけで……もしかしたら、違う人の名かもしれません」
晄と虎之助は顔を見合わせた。そこへ、
「おはよう虎ちゃん!」
「今日のお菓子はどこ?」
朝から元気いっぱいの双子が虎之助を見つけて飛びついた。虎之助は慣れた様子で、縁側の上に置いてある箱を「あそこだよ」と指差した。
「あっ! あれは小松堂のクッキーね!」
「しかも詰め合わせ! 虎ちゃん今日も男前!」
「ちゃんとお礼を言いなさい」
晄が窘めると、「ありがとー!」と大きな二重奏が早朝の庭に響き渡った。
「りょう子ちゃんも一緒に食べようね」
「その前に華夜子さんに見せてくる!」
足音うるさく母屋に駆けて行く双子を微笑ましく見送り、虎之助は「そういえば」と思い出したように言った。
「さっき来がけに『咲楽(さくら)屋』という新しい店を見つけたよ。何時に開くのかな。八丁目あたりだったけど、後で行ってみないか」
「僕はいいよ」欠伸をしながら晄が言う。「人混みは苦手なんだ。そろそろ眠くなってきたし」
「わかった」あっさりと虎之助は引き下がる。「りょう子ちゃん、今日予定はない?」
「あ……はい。朝食の後お掃除を手伝ってからは、ないです」
「じゃあ一緒に行こう」
断る理由がなく頷いたが、こんな身なりのいい男の人と二人きりで出かけていいのだろうか。自分はともかく、虎之助に変な噂は立たないだろうか、と思案していると、晄が「行っておいで」と耳打ちした。
「何か気に入ったものがあれば、買って貰えばいいよ」
「えっ、そんなこと……」
その時、奇妙なことが起きた。
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