第8話 クリィムと石鹸

薄暗くなってきたな、と思うとすぐに西の空が真っ赤になった。先ほどまで外で聞こえていた子どもたちの声も消えている。帰宅して早々に友達の家に遊びに行った双子は夕食の時間だというのにまだ帰って来ない。ちょっと見てきます、とハルに言って、りょう子は戸を開けた。


「!」


 まさかすぐ目の前に人がいるとは想像していなかった。前のめりになっていたせいで、頭を思い切りぶつけた。「うっ」と相手のくぐもった声が降りてきた。


「お前ら、ちゃんと前見て歩けってあれほど……」


 胸を押さえながら文句を言ったのは晄だった。りょう子は焦って「すみません!」と飛びのいた。


「ああ……、双子かと思った」


 晄はそう言って、飛びのいた拍子に土間に尻餅をついた凌子に手を差し伸べた。


「大丈夫か」


 手? 意味がわからずりょう子は目の前の手をまじまじと見た。これ、どうするの?


「……立たないのか?」


 片眉を上げ、呆れたような顔の晄がりょう子の腕を掴んだ。その瞬間、全身が総毛立った。


「いや!」


 腕を振り払う。すぐにはっと我に返った。


(助けてくれようとしたのに、なんてこと)

 

恐る恐る見上げると、晄は無表情のままりょう子を見下ろしている。


「ただいまーっ、どうしたの二人とも」

「晄ちゃん、りょう子ちゃんいじめたんじゃないでしょうね、許さないよ!」

「うるさい」


 絡んでくる双子を追い払い、晄はさっさと家に入って行く。謝るタイミングを失ってしまったりょう子は、玄関から庭に出て、井戸で手を洗った。


(どうしよう、ただでさえあまりいい雰囲気じゃないのに、さらに気まずい状態になってしまった……)


どうしてうまくやれないのだろう。また昨日のように冷たい目で見られる。これも記憶がないからだろうか。それとも自分はもともとこういう人間なのだろうか?


 気の利いたことも言えず、ろくに笑えず、おどおどして――。


ポンプから出てくる水を眺めながらぼんやりしていると、探しに来てくれた双子が笑顔で手を引いてくれた。――何ともない。


 ずっと、男性だけ、触れられると恐怖感が湧くのだ。何故かはわからない。


 食事の間、チラチラと晄の顔色を盗み見たが、変わらず無表情のまま、双子のかしましい会話をスルーしている。機嫌が窺えない。一人になるのを見計らって、謝りに行った方がいいだろうか。けれど特別怒っている風にも見えないし、何より、話しかけてまた無視されるのが辛い。


 だから仕事を終えて帰宅した華夜子が夕飯の席に加わると、少し雰囲気が柔らかくなってホッとした。りょう子にも昼間何をしていたの? と質問してくれたり、そういう心遣いは接客を生業としているだけあってか、とても自然でさりげない。


 自分もこんな風に出来たらいいのだけど、とりょう子は心の中でため息を吐いた。


 夕食が済んで部屋に戻ろうとすると、「りょう子ちゃん」と華夜子に呼び止められた。「これ、使ってちょうだい」


「え……」


 手に乗せられたのは、丸く白い陶器の容器だ。蓋には薔薇の絵が描かれている。


「クリィムよ。こうやって手に塗るの。潤いが出るから乾燥を防げるし、あかぎれも治りやすくなるわ」


 説明しながら華夜子がクリィムを塗ってくれる。滑らかな手つき。細く美しい指に見惚れていると、微かに薔薇の香りがした。


「す、すみません、私の指、ザラザラで……」


「謝ることじゃないわ。目黒でもよくお手伝いしていたそうじゃない。誰でも出来ることじゃないわ。それから手を洗う回数が多いって野田さんから昨日聞いて。女の子だし気になるかと思って、今日買ってきたの」


「そんな、勿体ない……」


「いいのよ。――さ、これくらい塗り込めば大丈夫。お顔や躰にも使えるから、なくなったら言って頂戴ね」


 なんて素敵な方なんだろう。りょう子は感動しながら部屋に戻って行く華夜子の後姿を見送った。綺麗な柄の着物を着こなし、ちょっとした所作や仕草にとても品がある。話し方や対応も落ち着いていて、こういう女性に、誰でもなりたいと思うはずだ。


 そして自分のことをちゃんと見ていてくれた野田夫妻のことを思いだして胸が熱くなった。周りは優しい人たちばかりで、自分はこんなにも恵まれている。ちょっと人とうまくいかないからって、すぐ落ち込むのはお門違いというものだ。


 離れに戻るため庭を歩いて行くと、自室の窓の桟のところに、何かが置かれているのが目に入った。双子がオモチャを置き忘れたのかと近寄り、手に取った。四角い、手の平サイズの箱だ。暗くてよく見えないので部屋に持ち帰って電気を点ける。


「あ、坊ちゃま石鹸だ」

「ひゃっ」


 すぐ脇からの声に仰天して、変な声を出してしまった。双子が左右からりょう子の手元を覗き込んでいる。


「これ、最近発売されたばかりですごい人気なんだよね。とっても肌にいいって」

「しっとりして、肌荒れに効くとか」


「あ、これは……」

 私のじゃないわ、と言おうとしたが。


「あっ、しかも美生堂のクリィムまで持ってる!」

「りょう子ちゃん! どれだけ流行に敏感なの?」


 クリィムの方に喰いつかれてしまい、説明すると「いいなー」「今度私たちもねだってみよう」と言い合いながら部屋に帰って行った。


(肌にいい石鹸か……)


 丸坊主の男の子の顔がデザインされている箱。何故あんなところに置いてあったのだろう。


双子のものでもないらしい。華夜子なら、クリィムと一緒にくれるはずだ。ハルさんがあんなところに置くことはないだろうし……。


「えぇ……?」


 最後に残った候補があまりにもあり得なくて、思わず疑問の声が口から出た。だけど。


 自分の手をじっと見る。あかぎれだらけの、ガサガサの手。この石鹸なら手に優しく、まだマシになるから使えということなのだろうか。


 しばらく考え込んだが、答えが出るわけもない。上手いんだか下手なんだかよくわからないイラストの坊ちゃまを眺める。無表情の下で悪巧みでも考えているのか、今にも舌を出すのではないかと想像させる、どことなく愛嬌のある顔。


明日の朝使ってみよう、と思った。少し楽しみだった。

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