好きな人

「上野!」


 周囲の人達が藤川の声に反応する。その中で一人だけこっちを向かない男子がいた。氷山高校の制服を身にまとう男子。たぶん、上野だ。


「ちょっと話があるんだけど」


 藤川はそう告げると、上野の肩に触れようとする。


「きゃっ」


 瞬間、上野は藤川を突き飛ばすとそのまま駅方面に走っていった。


「大丈夫か? 藤川」

「……追って」

「え。でも、今は藤川が」

「いいから追って!」

「わ、わかった」


 必死の形相で訴えかけてくる藤川に押され、俺は上野の後を追った。上野は駅近くの細道に入っていく。その後ろ姿を必死に追いかける。


「上野君。ま、待てって」


 声をかけるも聞こえていないのか、上野は振り向きもしない。必死に逃げ続けている。


「くそー。普段から運動しておくべきだった」


 運動が苦手な俺は、徐々に疲労で重くなる足に苦戦していた。瞳に映る上野の姿を見失わないように、必死になって足を動かす。

 それでも、少しずつ上野との距離が近くなった気がした。上野も運動が苦手なのかもしれない。そして、高架下の公園に入った上野はようやくその足を止めた。


「ど、どうして。はあ。はあ。追いかけてくるんだ」


 上野は膝に手を置いて呼吸を整えている。俺も上野と同様、呼吸を整えてから問いに答えた。


「逃げるってことは。はあ。はあ。心当たりがあると思うんだけど」

「ぼ、僕は、何も……何も知らない」

「知らないわけあるかー!」

「ぐはっ」


 叫びながら走ってきた藤川が、上野の脇腹に膝蹴りをくらわす。たまらず上野は地面にうずくまった。目の前で繰り広げられたおぞましい光景を、俺は見ていられなかった。


「はあ。はあ……」


 藤川は息を切らしながらも、その場に悠然と屹立していた。決して膝に手を置かないところは、流石テニス部所属だなと思う。

 地面にうずくまったままの上野を見下ろしながら、藤川は話し始めた。


「あんた、私の財布盗んだでしょ。わかってるんだから。返しなさい」


 そう言い放った藤川に対して、上野は顔を上げて藤川を見る。目元には涙がにじんでいた。


「ど、どうして僕が盗んだってわかったの? 藤川さん」

「は? あんた、新聞部の未来予報も知らないの」

「し、知ってるよ。でも、予報なんてまだ出てないはずじゃ……」

「先週の木曜日に氷山通信が掲載されたでしょ。そこで財布を盗まれる予報が出たの。そして私の財布が盗まれた。だから、あんたが犯人。わかる? この泥棒」


 藤川に泥棒呼ばわりされた上野は相当ショックだったのか、それとも痛みが再発したのか目元に溜まっていた涙が頬を伝っていた。


「ちょっと、藤川。流石に暴力は駄目だって」

「駄目じゃない。男ならしゃんとしてなきゃ駄目でしょ。このヘタレ野郎」


 口がどんどん悪くなる藤川を止めるのは、俺には不可能だった。止めようとすると、飛び火をくらう可能性がある。

 俺は、上野の近くまで歩みよった。


「上野君……だよね。二組の秋山です。質問なんだけど、新聞部の予言を知らなかったのは何故? 校内はもはや新聞部の話題で持ち切りだよね。当然、未来予報が発表されたんだから気づかないはずがないと俺は思うんだけど」


 これだけ氷山高校の生徒の注目を集めていることなのに、発表されたのを知らなかったと言った上野。知る手段はいくらでもあったはずなのに。

 上野は俺に視線を向け、ゆっくりと立ち上がった。


「だって、僕は先週の木、金と学校を休んだから」

「休んだ……ってどうして?」

「それは……」


 上野は答えたくないのか、中々話そうとせずにもじもじしている。


「あーもう。さっさと答えろ。この泥棒め」

「お、落ち着けって。藤川」


 うきーと猿のように騒ぐ藤川をなだめつつ、上野の回答を待つ。そして、何か決心したのか上野の表情が引き締まった。その姿に思わず一歩後ずさりしてしまう。そんな上野は俺と藤川を一瞥すると、茜色に染まる空を見上げながら答えた。


「藤川さんに振られたショックで休んだのさ」

「ふざけるな!」

「早く財布返せ!」

「ご、ごめんなさーい」


 上野の告白は、俺や藤川の怒りを上昇させるには十分だった。上野は鞄から財布を出すと、すぐさまそれを藤川に渡す。


「それで。私に振られたから、財布を盗んだってことで間違いないかしら」

「……はい」


 上野は地べたに正座させられていた。見るにたえがたい光景だけど、これは上野が蒔いた種なのだから仕方ない。藤川は上野のことを、獣を見る目で眺めている。


「はっきり言わせてもらうけど、私はあんたのそういうところが好きじゃないの。振られたから財布を盗む? ふざけるんじゃないわよ。そんなの全然男らしくない」

「そ、それじゃ、藤川さんはどんな男性が好きなんですか?」

「そ、それは……」


 藤川の頬が赤く染まった。上野の問いに虚を突かれたのか、口をもごもご動かしている。そんな藤川を見るなり、上野は立ち上がると藤川に向かって言った。


「ほら。藤川さんには、理想の男性と言える人はまだいないんですよ。だったら、僕みたいに真っ直ぐに好きって言ってくれる人と付き合えばいいんだ」

「おい。今のは――」


 パンッ!


 俺が上野の言葉を否定するよりも早く、藤川の平手打ちが上野にとんでいた。状況を理解できないのか、上野は素っ頓狂な顔を晒している。


「……ふざけるな。ふざけるな。あんたに私の何がわかるんだ。あんたの物差しで私の気持ちを量ってほしくない。本当に、最低」


 目尻に涙を溜めながら藤川は大声で上野に言い放つ。瞬間、電車が通過したため張り上げた声も少し聞こえない部分があった。それでも、藤川の言いたいことは俺にも十分伝わってくる。


「私は、あんたみたいな男性は絶対に好きにならない。私が、私が好きな男性は……」


 俯いた藤川は震えていた。しきりに腕をさすっている。言葉にするのが怖いのかもしれない。それでも藤川は腕をさするのをやめると、顔を上げて上野に視線を向けた。


「いつも明るくて、ふざけていて、人に頼ってばかりだけど、ここぞと言う時に助けてくれる。そんな気を使える男性が好きなんだ。あんたとは正反対の男性が好きなんだ」


 藤川は思いの丈を言い放つと、そのまま公園から出ていった。上野は言い返す言葉もないのか、ただ地面を見つめ続けている。


「どうして財布を盗んだんだよ」

「…………」

「本当に藤川のことが好きだったのか?」

「…………」

「本当に好きな人なら自分に振り向いてくれなくても、その人の幸せを願うのが普通じゃないのか」

「うるさい!」


 ようやく口を開いた上野は立ち上がると、俺に視線を向けると言い放った。


「モテたことのない奴の気持ちがお前にわかるのか?」

「えっ?」


 上野の言葉に虚を突かれた。モテたことのないって、俺だってモテたことがない。今まで告白されたことは一度もないし、女子と話すのだって少し不慣れなところがある。モテない奴の気持ちはわかってるつもりだった。


「ちょ、ちょっと上野く――」

「うわああああああ!」


 突然大声を出した上野は、走り出すとそのまま公園から出ていった。

 今までうるさかった二人がいなくなり、静寂が公園内を包み込む。吹き込む風が妙に冷たく感じる。

 上野の叫びが心にこびりついている気がした。モテたことのない奴の気持ち。それは、女子と話したことがない人を指すのだろうか。今の俺は新一という大切な親友が近くにいて、その周りの人達とも仲良くやれていると思う。でも、それは新一の力が大きい。藤川や東條さんといった異性と話すようになったのも、自発的に行動したからではなくて新一の近くにいたから。今の状況は本当に俺が求めていたものなのだろうか。

 中学生の頃はずっと一人だった。

 周りのことを気にせずに自分のことばかり考えていた。

 そんな俺の態度が皆との間に大きな壁を作っていた。

 上野もずっと一人だったのかもしれない。

 誰かに悩みを打ち明けることができたら。

 自分の気持ちの整理をつけてくれる、大切な友達がいたら。

 今日みたいな結果にはならなかったのかもしれない。

 未来が変わっていたのかもしれない。

 公園を出て駅に向かう。いつの間にか日は沈みかけ、夜の帳が下り始めていた。

 今までの未来予報は生徒が楽しむものだった。でも、未来予報は良いことばかりではないとはっきりした。今日みたいに、誰かしら傷つく人が出るのだから。これからの未来予報には、より配慮が必要になってくるのかもしれない。

 そんなことを思いながら、街灯に明かりが灯り始めた夜道を、俺はゆっくりと歩きだした。




「昨日はありがとう」


 次の日。学校に着くと藤川が話しかけてきた。


「うん。でも、俺は何もしてないよ。藤川が一人でやりとげたことでしょ?」

「うーん……たしかにそうだね」


 昨日の藤川はとても勇ましかった。今まで素直になれなかった自分を否定するような、それくらい清々しい発言だった。


「それにしても。秋山、体力なさすぎ。少ししか走ってないのに、あれだけ息切れして」

「いや、けっこうな距離走ったから。藤川が体力ありすぎなんだよ」

「どうだ。運動部をなめるなよ」


 そう言いつつ藤川はテニスの素振りをしてみせる。笑顔の藤川はどこか吹っ切れたみたいだった。


「おはよう。大輔」


 声のする方に視線を向けると、新一が片手を挙げながらこっちに近づいてきた。


「おはよう」

「なあ、昨日は上手くいったか?」


 そう言うと、俺の肩に手を回してくる。


「上手くって何だよ?」

「俺に隠そうとしても無駄だぜ。昨日のメッセージだよ」

「ああ。そのことか。上手くいったよ」

「そっか。やったな」


 新一は満面の笑みを見せている。藤川から聞いたのだろうか。妙に察しがいい気がする。


「さ、佐藤」


 藤川が新一を呼んだ。腕をさすっている。


「ん? 何?」

「その……」


 以前の藤川なら、このまま黙り込んでいた。ただ、今日は様子が違った。目の前の藤川は俯かず、新一から視線を逸らさなかった。


「昨日は、あ、ありがとう」

「ありがとうって……俺、何かしたっけ?」

「葵から聞いた。私のこと、その……心配してくれたって」


 真っ直ぐな視線に感化されたのか、新一は俺と肩を組んでいた手をほどくと、藤川と正面から向き合った。


「そりゃ、生徒会長だし。生徒の笑顔が枯れるようなことは、避けないといけないからな」

「公約通りだね」

「おう。笑顔が咲き乱れる学校生活。大切だぜ!」


 新一は笑顔で当然のように語る。どれだけ大きなことを口にしているのか、新一はたぶんわかっていない。それでも、新一が言うと本当に実現できるように感じてしまうのは何故だろう。


「笑顔が咲き乱れるためにも、今後の未来予報には注意しないといけないな」


 新一の肩に俺は手を置いた。


「まあ、当然だな。まずは早く藤川の問題を解決しないと」

「お前、何言ってるんだ? 藤川の問題はもう解決したぞ」

「えっ。マジで?」


 新一は俺の言うことが信じられないらしく、藤川の方に視線を向ける。


「うん。昨日、秋山と二人で解決しちゃった」


 財布も戻ってきたよと言って、藤川は自分の財布を新一に見せびらかす。


「おい。大輔!」

「な、何だよ」

「まさか、昨日のメッセージって……」

「東條さんから。藤川が部活を早退したって連絡があって。もしかしたら一人で犯人探しするんじゃないかなって思ってさ」

「そのことだったのか」


 新一は頭を抱えて膝から崩れ落ちた。大袈裟なリアクションに、クラスメイトの視線が向けられる。


「お前はいったい何と勘違いしてたんだ?」

「そりゃ、大輔が女子と帰ると思ったんだよ。だから気をつかって先に帰ってやったのに」

「いらないお節介だったな。勘違いをした新一が悪い」

「いや、あれだけ真剣に訴えてきたんだぜ」

「そりゃ新一がいたら、とある人が冷静でいられなかったから……」

「何のことかな? 秋山君」


 視線を藤川に向けると、顔は笑っているも明らかに怒っていた。笑顔が怖い。


「と、とりあえず財布事件は無事に解決。暫くしたら、新聞部からも発表があるんじゃないか」


 藤川をなだめつつ、話しの転換を促す。


「それもそうだな。ここからは俺達の仕事だ」

「俺達じゃなくて新一の仕事な。俺を巻き込むな」

「っとか言って、いつも助けてくれるくせに」

「……うるさい」

「いてっ」


 新一の頭をひっぱたく。その光景を見ていた藤川が笑い出した。


「本当に二人は良いコンビだよね。二人なら未来予報についても解決してくれそう」

「当然だ。大輔がいてくれれば鬼に金棒」

「俺はお前の道具じゃない。それだけは肝に銘じておけ」


 こんな言い合いができるのも、すべては新一がいたから。

 口では偉そうなことを言ってるけど、新一に助けられたことが何度あったか。

 だからこそ、俺はこうして新一に付き合っているのかもしれない。

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