第3話

遊部 絶 3


人類と地球の不幸を指し示すように、月は赤かった。赤い月は古来より不幸の象徴とされてきた。こんなにも綺麗なのに。地球上の誰もが目を凝らさずとも見える大きく明るい紅の満月だった。一日中続いた戦闘で舞い上がった砂塵が月を赤く見せているだけなのかもしれないが。

そんな中、血の繋がっていない姉妹は瓦礫だらけの街を歩いていた。その道は歩き難く、鉄臭い香りが漂っていた。

「綺麗なんだけどなー」

「全くだZE 宇宙人さえいなけりゃ、だけれども」

荒涼とした世界を歩く姉妹。

仁たちが研究所を出て敵との交戦に向かったが、この姉妹は歩きながらその後を追っていた。たわいもない会話を続けながら、散歩、と呼べるペースで。

火呂が一瞬で消されたという悲しさと絶望とで進める足が重かったこともあるのだが、2人は口には出さなかった。

「静か…だね」

そう、とても静かだった。まるで何かを意図的に消しているような、不自然な静けさだった。

「どうなんだろうな……」

妹に不安を与えたくはない。緋音は精一杯の笑みを浮かべて叫んだ。

「宇宙人なんかと戦ってられるか!俺は家に帰るZE!」

「フラグ乙(笑)」

笑いあった。静寂の中に響く笑い声。妹にツッコミの合いの手を入れようと手を伸ばした。彼女を軽く小突く為に。


突如、目の前の空間がグニャりと歪んだ。

妹の目の前の空間が歪み、緑色の肌の男が、どこからともなく現れ笑った。

常に意識を集中して、敵の接近に備えていた"つもり"だった。

緊張と恐怖が入り混じる緊迫した一瞬の時間、妹を小突く為に伸ばした手に渾身の力を込める。能力の使用は間に合いそうになかった。

直後、緋音の顔の左側が、左腕が、左胸が、音もなく消し飛んだ。


強く突き飛ばされた涙音は、何が起こったのかも分からずに地面に転げた。

多少疑問を抱きつつも、強く小突きすぎだ、と緋音に文句を言おうと顔を上げた。

「ねぇ、ちょっと……!」

しかし、そこには望んでいた現実は存在しなかった。

「あかね…?」

地面に転がる緋音の身体。緋音の身体は上半身の左側が無くなっていた。流れ出る血液が、心の中の何かを抉る。

緋音は動かなかった。

緑色の肌の宇宙人の足元に、緋音は寝転がっていた。

理解したくなかった。

頭が、考えることを放棄したがっていた。

「この地球人はあかねというのか…」

緋音の目の前に立っている緑色の男は笑った。

「あかねは今!俺が殺した…」

くくくっと男は笑い続けている。

涙音の脳はまだ機能していなかった。

ただただ目の前の現実を見たくないと、見てみぬふりをした。

「本当はお前を消し去り、その後ゆっくりと楽しむ予定だったが…まぁ、お前でも楽しめそうだな」

男は、残っていた緋音の頭を踏みつけた。何度も何度も。ドスドスと踏みつける度に、リズムよくビチャビチャと赤い血液が更に溢れ出る。地面を赤く染める池はどんどん広がっていった。

どくん、と涙音の心音が、いつも以上の大きさで唸った。

「その、足を…」

どくん、と心音が強くなる。

「その足を…」

どくん、という音は、正確には心臓の音ではなかった。

心が、怒りで膨れ上がる音だった。

「その足を、どけろぉぉおぉぉぉおおおッッ!!」

涙音は腕を、上から下へ振るった。

無意識に、だ。

空に、裂け目が走る。

「あー、そうだ思い出した。確か地上の戦闘で、描いた絵を実際に創り出して戦う、涙音とかいう能力者だったな…」

そして、あっけなく退場したのは、お前の姉だったかなぁ?と、男はおどけるように言った。

「殺す」

直後、空間の裂け目から大量の剣が飛び出し、雨のように降り注いだ。

「報告によれば、絵を描かないと戦えないらしいが、どうやら違うみたいだなぁ…」

頭上に迫る剣に対して、宇宙人は両の手を突き出す。

「まぁ、俺とは相性最悪だけどなぁ!」

男の肌に触れた途端、大量の剣が一瞬で消えた。

「必ず殺す…殺す!」

自ら召喚した剣は、雨となって自らをも傷つけていた。消えた剣、自らを傷つけていく剣を気にすることなく、涙音は駆け出しながら左手で空間を払って大量のモリを召喚した。

「だから、無駄だって言ってんだろぉ!」

指先でモリの先端をつつくと、モリは消滅した。

「ほらほらほらぁ!」

宇宙人は両手の指先を交互に使い、全てのモリを消し去った。

「あぁ…盛り上がってるとこ悪いんだけどさぁ…」

宇宙人は笑う。

「俺は触れた段階で、消すことが可能ッ、なんだぁ…ぜ!!」

宇宙人の周りの空間が歪み、宇宙人は消えた。

涙音が身構える。

「今度は、こっちの番だァアァア!」

佳恵の左腕が、消し飛んだ。

「ぐ…ギャァァアアアアああああああッ!!」

肘から先を失った涙音は瞬間的な反応で地面に倒れていた。

「まだ、右腕が…」

腕を振ろうとした涙音の右腕を、宇宙人の足が踏んでいた。

「人間にも、俺らみたいに骨があるらしいな…」

ボキィッと音が響き、骨が砕かれた。

「ぎぃ、ああああああああッ!!!」

涙音は腕を振ろうとするが、骨が砕けた右腕に痛みが走る。

「どうだぁ…んん?これで、大好きな絵は描けなくなった訳だなぁ…」

涙音は泣いていた。

痛みが理由ではない。

悲しみだ。

緋音を殺したこの男を、この手で殺すことのできないことへの、悲しさ。

そして怒りだ。

何もできない自分に腹がたち、目から涙が溢れる。

もう涙音には、何もできなかった。

「さて、地球のメスがどうなっているのか、味見させてもらおうかな…」

助けて、緋音……。

涙音の体から、力が抜けた。



妹を渾身の力で突き飛ばした。

その直後、視界の左側が真っ暗になり、床に転がっていた。

……?

体が動かない。

主観視点のゲームなんかで、主人公が死んだ時に見る光景とそっくりだった。

ああ…俺は死んだのか。

わずかながらも、緋音の意識は残っていた。必死に目を動かして、宇宙人と涙音が対峙していることがわかった。

ちくしょう、今助ける…ぜ。

手をのばそうにも、左腕は消し飛んで使えなかったし、残っていた右腕にも力がはいらなかった。

視界も、流れ出る自分の血液で赤く染まっていた。

ゆっくりと緋音の思考は真っ暗な闇に広がっていった。

何もない何も聞こえない何も触れない。

緋音はいままでに感じたことのない、安心感に包まれていた。

このまま、眠りについてもいいかな…。

そう、緋音が思った時である。

助けて…、と涙音の声がした。

涙音?!と、緋音は暗闇の中で目を開く。

しかし、体に力が入らない。動けない。

そして。頭に、自分でも涙音でもない別の声が聞こえてきた。

今動き出したら、永遠にやすらぎを得られませんよ、と。

緋音は即答した。

「やすらぎだぁ!?大事な妹を助けられないのに、やすらぎなんてあるかァァァァアアアアア!」

緋音の死体から溢れ出ていた血液が、ピタッと止まった。

代わりに地面を赤く染めていた血液が集まり、緋音の足りない部分を補っていった。

ゆっくりと、緋音が立ち上がった。

顔をあげる。

緋音の補われた部分は、人の形としては不完全な血液の集合体に変化していた。

一瞬でいい。

あいつを、殺せれば。

右目には力強い血のような緋色が、

無くなった左目の部分には、赤い光が浮かび上がった。

「さぁて、どこから味見するか…グパーラは内臓がウマイと言っていたが…」

涙音の服を脱がそうと、宇宙人は手をのばす。

ガシッ、と緋音の歪んだ左腕が、宇宙人の腕を掴んだ。

「オレの妹に触れるな」

緋音は宇宙人を腕ごと、近くの壁に叩き付けた。

「えっ…お前死んだんじゃ…!」

「妹の悲鳴を子守唄にして永眠するだなんて、眠れなさすぎるぜ」

宇宙人の声を遮った緋音は、その足を進めた。

いや、進めようとした。

「?」

突如、足から力が抜けて膝をついてしまった。辛うじて体勢を保とうと地面についた左手は、形が崩れ始めていた。ポタポタと結合させた血液が滴って地面を染めていく。

「くくくっ、なるほど?」

宇宙人の嘲笑が聞こえた瞬間だった。緋音の身体は彼に蹴り飛ばされていた。

瓦礫の山に派手にぶつかった多佳子は、大事な妹から十数メートル離されていた。

「不完全すぎる覚醒だな」

覚醒……?

霞む世界で聞き取った宇宙人の声は笑っていた。宇宙人は動けない涙音に近づいていく。

緋音は無言で身体を起こした。血液の結合は失われ始めている。左目もほぼ見えない。

何かがとてつもなく怖かった。


涙音ぃぃぃいいッ!!


涙音に向かって地面を蹴る。

もはや、今の叫び声さえ声としては自分でも聞き取れなかった。獣の咆哮のようで。

凄まじいスピードで過ぎ行く景色の中、まだ残る右手を伸ばした。

あの子の側に一秒でも多くいたいから。あの子を守りたいから。あの子を独りにしたくはない。側にいたい。ずっと。叶うのなら、ずっと。遊部が誰もいなくなってしまう予感が頭をよぎる。

顔の左側を、左腕を、左胸を消し飛ばされ血で補った身体。しかし、緋音自身の身体は能力の変化についていけなかった。自らの血液を操る第二の能力。その高度な能力に身体は耐え切れず、崩壊を始めていた。

右手を精一杯伸ばす。妹との十数メートルの距離が、もう二度とあの子に触れられない気がして。

緑色のアイツは動かなかった。

せめて、死ぬ前に、

妹の肌に触れたい。


「残念だったなァ」


宇宙人の無慈悲な嘲笑う声が聞こえて、緋音の身体に拳が突き刺さった。アイツが寸前まで動かなかったのは、俺を涙音の目の前で殺すため。冷静だったなら簡単に気づけただろう。

「ッあ……」

伸ばした手は届かない。

宇宙人の拳は胸から背中に突き抜けていて、もはや移動することは叶わなかった。血液で補った箇所は形すら保てなくなっていき地面に滴り落ちていく。

あと十数センチ。必死に伸ばした右手は、あの子の目の前で止まる。

一番守りたかった存在。

声も、手も、届かない。

涙で滲む視界に、妹の泣きそうな顔が見えた。


ごめんね……



最期の視界に、あの宇宙人が映らなかった事だけが唯一の救いかもしれない。緋音の身体は一瞬で、風船が割れる瞬間のように壊れて消えてしまった。もはや、あの宇宙人の能力で身体が消えたのか、自分で壊れてしまったのかさえも判断はつかない。

私の身体に触れることすらも出来ずに。その僅かな血飛沫さえも、私に触れることはできなかった。その最期の小さな声も、私には届かなかった。

最期、なんて言ったの?ねぇ?

このミドリムシの笑い声のせいでよく聞こえなかったよ。

大昔に、守ってあげる、だなんて言ってたの誰よ……

怖い。怖いよ。助けてよ。今まで散々、助けてくれたのに、なんで今更、目の前で泣きながらいなくなって、助けてもくれないの?

涙音の身体は震えていた。必死に食い縛る歯は苦し紛れの苛立ちだった。

ねぇ、さっきの口の動きは

「ごめんね」?

謝るくらいなら!!謝るくらいなら助けてよ!!言った通りに守ってよ!!謝るくらいなら生きていて欲しかったよ!!

いつも私を後回しにしやがって!!

苛立ちと恐怖、悲しみを紛らわすように叫んだ。悪魔と呼ばれた姉の名を、今までにないくらい全力で。


これなら、あなたにも届くでしょうか?

身体ごと消えたんだから届かないなんてことは分かっているけれど。

血の繋がりは無い。それでも、大切な人だった。

神様は残酷だ。私の大事な人たちをいつも私より先に殺してしまう。大事な友達も、緋音も、遊部の仲間達も。

「死んじゃったなぁ?」

楽しそうに話すミドリムシ。

大事な人たちがいなくなってしまった後は、次は、私の番。

私を看取る人はいない。

涙音は、顔を上げる。

神様は残酷だ。

神様はいつも残酷を求める。

「そうだね」

そういえば、と思い出す。

私はお嬢様だったじゃないか、と。お金持ちの家に生まれてマナーも勉強も全て叩き込まれたお嬢様だったじゃないか。

最期くらいしっかりやり遂げてやる。

涙音の瞳には決意が宿り、だらし無くぶら下がる右腕と、肘から下のない左腕の痛みは消えていった。

「でも、あなた達の家畜になるより、とってもマシだったと思うわ」

「あ……?」

宇宙人の言葉は苛立ちが混じっていた。

目を瞑れば、緋音のあの声が、顔が、グロテスクな死体が、精神を抉るような紅色が色鮮やかに蘇る。当分、血は見れそうにない。気持ちの悪さに気が狂ってしまいそうで。悪魔の妹を名乗っておいてなんとも無様なものだ。

悪魔の妹か…

悪くなかった……

目を開けて、とびきりの悪い笑顔で言う。悪魔の妹の、最期の意地だ。

「憶えてなさい?遊部はただでは終わらない。黙って自らの庭に埋まってれば良いものをッ…」

涙音の頭が吹き飛んで、真っ赤な粘性のある噴水が噴き上げた。生々しいぬめりのある赤い絵の具が、雨となって地面に落ちる音が響く。そして、その身体は力無く、ドサリと音を立てて倒れた。

「…憶えてろ、だぁ?さっき死んだやつみてぇなこと言いやがって…」

そう、先ほど殺した姉の方だ。多分無意識下だろうが身体が消え去るその瞬間に俺の耳元で「憶えてろよ」と言ったのだ。妹への謝罪の言葉だった気がしたのに、不思議なものだ。

虫唾が走る程の苛立ちと沈黙を紛らわすかのように言葉を紡ぐ。

「そういや、グパーラは人間の内臓が美味いと言ってたな…」

先程と同じことを言った自分に、鼻で笑った。どうやら疲れているようだ。

頭の無い死骸の腹を裂いて、その中身に口をつける。グチャグチャと響く咀嚼音。口と手は赤く染まり、頭の無い首から溢れる血はみるみる広がり地面を染めていく。柔らかく温かい肉。骨で守られた腹の中は綺麗な空洞が作られていた。その中に収まっていた様々な形をした臓器。一番最初に目に付いた長い臓器の中身は苦味があり、血液と肉のコクを深めていく。これ以上ない程までに紅い腹の中は、止まらなくなる程の美味。先程の怒りはどこかへと消えていた。

「あっはっは!これは美味い!」

赤く染まった口は嗤う。下品な笑い声がそこらに響き渡った。




緋音 身体の消滅により死亡

涙音 頭部損失により死亡


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