6話 「夏帆は女神にランクアップ」
アスピリン0.05g事件が何とか収まった後、俺たちは天秤室という化学天秤専用の部屋に入って化学はかりを使ってさらに正確にアスピリンの重さを量る。
「夏帆、軍手はつけたか?」
「はい、いつでも行けますよ」
化学はかりについて知らない人のためにもう少し補足説明しておくと、とても少量の物質を秤量カップというビーカーのミニチュアのような容器の中に入れるのだが、これに直接手で触ってはいけないので軍手を使って持つ必要がある。
なぜかというと、手の油や汗で細かい重さが変わることがあってはいけないからである。密閉空間を作るところといい、めちゃくちゃ繊細でしょう?
「じゃあ、このくそちっこい容器にアスピリン入れるからなっ」
「健斗くん……。めちゃくちゃ手震えてますよ。大丈夫ですか?」
「あんまり大丈夫じゃないな」
量り取る量が少ないために、少しでもこぼすとまたやり直さなくてはならなくなる。手先が器用でないやつはいつまでもやり直しすることになる。
俺は震える手を何とかコントロールしながら少しずつ薬品をカップの中に入れる。
「よし、入れ終わったー」
「はーい。では量りまーす」
夏帆がいい笑顔で元気よくそう言うと化学はかりの上にのせて重さを量り始めた。終始今日は夏帆がめちゃくちゃ楽しそうである。いいことだが、俺はすでに死にかけている。
「0.5027gですか。すごく正確に取りましたね」
「失敗したくないからな……」
ちなみに誤差10%以内なら構わないが、大体みんな0.49~0.51gの間には揃えてくる。あんまり差が大きいと失敗しちゃいそうだからね。
量り取ったアスピリン量の正確な値が分かったので、これからそのアスピリンを使ってアスピリン溶液を作る工程に入る。
「夏帆さんや。ここは任せるで。俺の今の集中力で安全ピペッターいじると絶対に器具破損したという報告に行くことになりそうやからね」
「分かりました。安全ピペッターは一つしかないので、ここから先は私にお任せをっ」
安全ピペッターというのはもはやグーグ〇先生で検索して見てもらった方が分かるのだが、ピペットに付けるゴムである。
たぶんこのことに関しては中学や高校でもあるあるなことで、今回の物とは違うが同じようにピペットの液体を吸うために付けているゴムにまで液体を到達させてゴムをダメにした人、いるのではないだろうか。
安全ピペッターという器具もその事故が多くて毎回ダメにする人が何人もいる。多分毎年100個近くはダメになっているのでは? 早速すでにダメにした生徒が何組が教員のところに報告に行っている。
それがまた結構高価らしくて、やらかすといろいろ言われる。ここは優秀な夏帆さんにバトンタッチである。
夏帆は丁寧に一つ一つ確認をしながら作業をしている。見ていてとても安心である。そしてそのまま作業工程説明通りに指定された器具の中に図り取った液体を入れていく。
「出来ましたよ」
「ナイスだ」
この後アスピリンを溶かしてなんやかんや色々と作業があるのだが、これ以上このことについて説明すると多分起きている人がいなくなるので割愛です。俺と夏帆のコンビネーションで無事何事もなくうまく進んだ。
この作業が終わると、吸光度計というものを使って吸光度を測定する。その吸光度計で求めた数値を後はExcelで数値を入力して検量線を出す。
「・・・時の吸光度は……」
ちなみにExcelというものは非常に便利で必要なところに値を入れると勝手にその値で引くと出来上がるものをあっという間に表示されるうえに式まで出してくれるのめちゃくちゃ楽です。なお、間違っていた時やずれていた時の絶望感ははかり知れません。
俺と夏帆も全て求めた数値を入力し終わって、自分たちの数値をもとにひかれた検量線に目を通す。
「どうかな?」
ぶっちゃけると俺からしたら何がいいのかダメなのかもよく分かっていない雑魚なので夏帆に聞くしかない。
「うーん、プロットされた値はあまりずれていないので綺麗なものが出来ているとは思いますけれども問題は傾きですね。こればかりは正しいものを先生方しか知りませんからね」
「よっしゃ、見てもらうかね」
「そうですね」
俺と夏帆は教員に見てもらうべく、ほかのところの班が作った検量線を確認している教員のところに向かった。
「どうでしょうか……?」
「うーん……。これはちょっとダメだね。はい、やり直し」
俺らの前の班が軽く言われたその教員の一言に力尽きた。二人とも軽く口から魂が出ている。
もし俺らもこうなってしまったら……。夏帆に何と詫びればいいのだろうか。正直これくらい精密な実験になると、もはややり直しと言われてもどこをミスしたのかすらも分からない。
「健斗君。やり直しになったら、健斗君のせいではないので気にしないでくださいね。私は健斗君とならいくらでも……拘束されてもいいので」
夏帆はそう笑顔で言ってくれた。もう天使どころか女神だった。
「あら、問題児の佐々木君。検量線は引けたのかな?」
夏帆の優しい言葉に心洗われて清らかになっていたところを、先ほど軽い一言で前の班を地獄に突き落とした教員が俺の事を問題児扱いしてきて一気にまた心を汚された。だから俺のせいじゃないでしょうよ。
「はい、引けました。問題児なのでやり直しになる確率高いですが、見てもらってもいいでしょうか?」
「はいはい」
教員はそう言うと、俺たちが検量線を引くのに使ったパソコンのところまできて俺たちの求めた数値をもとにひいた検量線を見る。
「……」
先ほど玉砕したシーンを見てしまったのもあって、無駄な緊張感が漂う。
検量線を見た教員はニヤリと俺たちのほうを見た。そしてなぜか良いか悪いかすぐに言おうとしない。
「あのー……。どうでしょうか?」
「これはね……完ぺきだね。合格だから帰って良し」
そう言うと、俺たちの元からさっさと離れて次の班の検量線を確認するために行ってしまった。
「なんなんだあの間は……」
「結構意地悪ですね……あの人。絶対に私たちの表情見て楽しんでましたよね」
問題児なのは俺ではなく、あの教員なのではないだろうか。そんなことを言いかけたが、聞かれて減点されたくないので夏帆と一緒に片づけをするとそのまま教室出た。
「めちゃくちゃ疲れたぞ……」
検量線のデータもパソコンの順番待ちしているということもあって、全部書き写すわけにはいかなかったので書いたメモを共有する必要もあったので教室を出た後、俺たちは一息つくために近くのラウンジの机に腰かけた。
「そうですね。でも……」
夏帆は今日の実習中からずっと変わらない笑顔をひときわ輝かせてこう俺に言った。
「健斗君とドキドキしながら実験するの私楽しくて。健斗君、本当にいろんな表情していて見ていて楽しいです」
「……そ、そうか」
俺としてはそこまで表情を変えているつもりはないのだが、そこまで変わっていると面白そうに言われるのだから相当変わっているのだろう。
中学高校という泥沼時代を過ごして冷めた感情を持ちながら生きてきた自分がそこまで感情豊かであると言われると少し恥ずかしいような気もした。
けれども。
いつも助けてくれる人が俺がいることで楽しそうにしてくれる。恥かしさと同時に素直にとても嬉しく感じた。
「夏帆に喜んでもらえて何よりだよ、うん」
「楽しませていただいたので、明日も問題児の健斗君を支えられるように私頑張りますね」
「マジでそこんとこよろしくお願いします」
実習をするたびに思う。なんといい子と一緒になれたのだろう、と。
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