2話 「ちょっと油断したらこれ」
新しい学年になって前期最初の週というのはまだまだ始まったばかりということもあって、午後からの実習など一日ずっと何かをしなければならないということはまだない。
午前中の講義だけ受ければまだいいだけのこの期間、休み明けの生徒にはとてもやさしい処置で大いに助かる。
しかし、ここに居る男は午前の講義を受けただけなのに信じられないくらい疲労してしまっていた。
「あの女ぁ……。俺に何がしたいんだよ……」
あの時以来、毎日俺の隣に来て何かしら鳴き声をあげている。大体は教授の悪口か、居眠りして寝息をたてたり、俺のテキストに落書きをしてきたり。その上、落書きする字も皮肉なのか綺麗な字で落書きをしてくる。
毎回そんな彼女にイライラしたり、気を取られているといつも大事なところを聞き逃す。そして毎回そういうところに限って彼女が聞いていて、得意げにこう言う。
「教えて欲しい?」
控えめに言ってクッソむかつく。誰のせいだと思ってんだよこの野郎。
とは言いつつも、教えてもらわないとボッチの俺にはほかに教えてもらえる人などおらずおとなしく教えてもらっている。
そんなこともあってか俺は心のなかで彼女がどっか行ってくれないかとか、俺自身が離れようかとも色々考えるのだが……。
「……」
どうもそこまではしなくてもいいのでは、と思う自分がいる。
悲しいことにこの大学に入ってからずっとは俺はずっと一人で寂しく講義を受けたりしてきた。
腹は立っても隣で楽しそうにしているやつがいると少しだけ俺の中でそんなのもいいなって思う自分がいる。
悪戯をするときも、話しかけてくる時も彼女はすごく楽しそうなのだ。いつも魅力的な笑顔を振りまいてくる。そのせいで俺の判断能力もおかしくなっているような気がする。
「あんなに魅力的なのに……友達や彼氏ぐらいいるだろうに……」
彼女はとても美しく、笑顔も可愛い。ノリも俺は嫌いだが、いわゆる今どきの若い女性のノリといったところ。友達がいないほうがおかしい。
喧嘩でもしたのだろうか。あまり俺から話しかけることはとてもできそうにない。
いまだに彼女の名前すら俺は知らない。ただ、隣に座ってきて俺に絡んでくるだけだからな。
「不思議な子やな……。改めて思い返しても……」
午前の講義しかない週というものはとても流れるのが早く感じる。
月曜日からしっかりとはじまったこの新学年最初の週もついに金曜日が訪れた。
土日が終われば、本格的に実習の説明も始まっていよいよ実習ということになっていくだろう。憂鬱である。
去年までの俺の指定席は、花見する場所にブルーシートだけ敷いて誰もいない悪質な場所取りみたいに机の上に教材等を置いていかにも「俺ら座るから」っていう嫌がらせをしたおそらく留年生のチャラチャラどもが相変わらず占拠してしまっており、今週ずっと座っている席がこれから俺の世話になる席のようだ。
「お、今日も元気にボッチやってるねぇ~~~」
「うるせぇよ。お前も一人じゃねぇか」
今日も昨日と変わらず彼女は何のためらいもなく俺の隣の席に腰を下ろした。
「ま、そう言うことだね。仲良く同じもの同士やっていこうじゃないか」
「お前みたいなのいくらでも友達いるだろ。なんだよ、喧嘩でもしたのか? そんなことでこんな陰キャと一緒に居たって解決なんてしねぇぞ」
軽い気持ちで言ったつもりだった。彼女の性格ならきっと笑い飛ばして適当なことを返すと思っていた。
「……そういうのは無いから」
しばらくの間の後、静かに彼女らしくない小さな声でそう言うとその後何も言わなくなった。
そして講義がいつも通り始まった。
しかし、彼女はいつもの元気はなくいつもの笑いを押し殺した声や俺に悪戯をするということもない。
気になって隣を見ると、彼女はペンをもってテキストを見ている。今日はまじめに勉強したい気分なのだろうか。
どちらにせよ、いつもの鬱陶しさが全くない。とてもいいことである。やっと俺も講義に集中できそうである。
30分が経った。
俺は何かいつもと違う違和感を感じて講義は聞いているものの、完全には集中できていなかった。
去年までと同じような状態の今の講義。静かに一人で黙々とメモをして教授の話を聞く。
いつもと同じはずなのになんだろうか、この違和感は。
違和感をそのまま引きずったまま、俺はその時間の講義を終えた。
特に聞き逃したということも、ぼーっとしていたということもなく無事講義を終えた。
「今日はえらい静かだな。どうかしたか?」
俺は彼女のほうを見た。そこで俺はやっと彼女が何かおかしいことに気が付いた。
テキストは最初見た時に開いていた時のページのまま。ペンを持ったまま彼女は目の焦点が合っていないようにぼーっとしている。
「おい、どうした?」
「え?」
「講義、終わったぞ……?」
「えええ? 嘘でしょ? 私何も聞いてないよ?」
「お前……今日は寝るんじゃなくてずっとぼーっとしていたのか……」
「ど、どうしよう……何もメモ出来てない! 講義のポイントも何もわかってない! テストの時困っちゃう!」
彼女の焦り方からして、本当にぼーっとしてしまっていたらしい。かなり焦っている。
「はぁ……」
俺は先ほどの講義のテキストを彼女に差し出した。
「お前の大嫌いなミミズの這った字でよければ、写すか?」
「いいの?」
彼女はすごく申し訳なさそうだ。いつも寝ていて結局見せているのになぜに今日だけそんなに申し訳なさそうなのか。
「いつも見せているだろ」
「いつもは……あなたが聞き逃したところ教えているから貸し借り無しって感じだったけど……。今日はあなたに私は何も出来てないよ?」
そんな小さなことで彼女はとても深刻な顔をしていたのか。今まで感謝って言葉知ってる?って思うような女子かと思っていたが、そうでもないらしい。
「いいよ。困っているんだろ。パパっと写しちまえ。その代わり、俺がぼーっとしちゃったときは助けてくれよ」
「うん!」
彼女はとても嬉しそうにテキストを俺から受け取ると、それを開いて写そうとした。しかし、彼女の手がぴたりと止まる。
「汚さ過ぎて読めないいいいい!」
「返せこの野郎! 二度と見せてやるもんか!」
「あああああ! 読めます!読めますからぁ!」
ちっくしょう、月曜日とちょっと様子違って本当に可哀想になったから助けてやろうと思ったのに、このあたりの反応は変わってないじゃないか。
彼女にはいいように今週は振り回された形になった。
ほんとこの女は何なんだ。憎たらしいし、無駄に可愛いしうざいくらい純粋で……。
もう優しくなんてしてやるもんか。こっちの調子が狂う。
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