屈折ガール

古原椿

第1話 猫と退屈

十二時。日曜日のベットの上でアラームはもう既に三回も鳴っていた。ちとせは寝ぼけながら、ぼうっと天井を眺めていた。さすがに起きなくては。そう思って重い体を起こし、自室のドアを開けた。

二階から一階のリビングルームに行くと、そこにはテレビゲームをする弟の丞がいた。

「遅っせーな、姉ちゃん。」丞はちとせの顔も見ずにそう言った。

「あんたが早すぎんの。どうせ七時くらいから起きてゲームしとったんやろ。」

「へへっ。まあね。」

丞は週末になると決まって早起きしてゲームをする。平日は母に布団を引っぺがされるまで起きてこないのに。

「お姉ちゃん、顔洗ってくるわ。」そう言ってキッチンの方に目を向けると、昼食を作っている途中の母と目が合った。

「おはよう。ようそんなに寝られるねえ。目ん玉腐ってまうで。」

「しゃあないやん。昨日も学校やったんやもん。」

「やっぱり女子高生いうのは大変そうやねえ。」

呆れた様子の母を尻目に洗面所へと足を運ぶ。鏡に映ったその顔は想像以上に疲れ果てているように見えた。

ちとせはつい二ヶ月ほど前に高校へ入学した。高校に入る前、女子高生という言葉の響きが彼女は好きだった。三年間だけ咲かせることのできる華のようにも思えた。

だが二ヶ月経った今、それも幻想だったと気づいた。というか、彼女の性格上高校生活を満喫するのは不可能だったのである。ちとせは超がつく真面目だった。見た目はそうでもないのだが、校則を破ったことなど一度たりともない。ましてや放課後勉強もせずに遊び回り青春を謳歌することなど考えてもいなかった。

高校も家から電車と徒歩で一時間半ほどかかるところにある進学校だ。

現にちさとは家と学校を往復するだけの生活を送っていた。そしてその理想と現実のギャップがちとせを苦しめていたのだ。

「ふう...。」顔を洗い終えて一息つく。洗い立てのタオルに顔をうずめる。化粧水と乳液を顔に押し込む。そのとき、ふいに足元にふうわりと何かが触れた。飼い猫のこむぎこだ。ちとせが幼い頃に白いからという安易な理由でこむぎこと命名したこの猫も、もう老猫だ。

「おばあちゃんになってしもうたね。」そう言いながら白い体を撫でてみた。時が経つのは早いものだなとしみじみ考えてみる。私ももうすぐ大人になる、と。

「はよ大人になりたいわあ。」そんな台詞が頭をかすめた。幼なじみの瑚春が前に口にした言葉だった。

あれはたしか中学三年生の時、夏休みに入る前日に教室に残っていた時だった。「あーあ、はよ大人になりたいわあ。」スクールバックに荷物をたくさん押し込みながら、瑚春は言った。

「ちとせもそう思わん?大人にならな、なーんもできへんって。」

「私は別に思わんなあ。大人って、責任がずっとついてまわるやん。」

「えー。絶対大したことないやん。ただの大人一人が持つ責任なんか。」

「そればっかりはなってみやんとわからんで?」

「まあそやけど。あー、自由になりたい。」

あのときも今も、ちとせは大人になることを恐れていた。責任の二文字が重たすぎるのだ。自分で稼いで、自分で自炊して、自分で掃除して。瑚春には周りの大人が全てをやすやすとこなしているように見えているのだろう。いや、もしかしたらなんの考えもなかったのかもしれない。瑚春はそういう奴だから。

ちとせが考えを巡らせていたちょうどその時、キッチンから母の呼ぶ声が聞こえた。どうやら昼食ができたらしい。

ダイニングテーブルの上にはチャーハンが置いてあった。日曜の昼食はいつもチャーハンだ。一口目を口に入れた時、二階からもう一人の弟の昴と父が下りてきた。

「おはよ。もうお昼やけど。」

「わかっとるわ。うるさいな。」最近反抗期に入った昴は舌打ちをしながらそう答えた。

家族みんなでテーブルを囲み、チャーハンを食べる。いつもの日曜日だ。

話好きの母が嬉々として話し始める。父は黙ったままだ。

ちとせの父はとても静かだ。昔は若気の至りで不良をやっていたらしいが、その時ですら物静かだったと聞いた。ちとせは父と満足に会話をしたことがない。どうやら家族と話すのが特に苦手らしい。お酒が入った時だけ少し饒舌になるが、それでも一言二言ぽつりと発するだけである。

それでもちとせは父に嫌悪感を持ったことが一度もない。地域の人の集いで酔っ払った父が近所の人に

「うちの娘はなんでもできる。俺の子供なのに。」と自慢していたことを人づてにたまに聞くからだ。いつもはおはようと言ってもうんともすんとも言わない父が自分のことを心の中で誇らしく思っている。その事実がちとせには嬉しかった。

ちとせは家族が好きだ。周りの子みたいに親を疎ましく思ったり、家出をしてみたいと思うことは全くない。三人姉弟の一番上で育ったけれど、お姉ちゃんらしくしなさいと言われたことは一度もないし、弟たちが中学生になった今でさえ、彼らが可愛くて仕方ない。

そんなことを考えながら、最後の一口を口に運んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

屈折ガール 古原椿 @daria0908

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ