第5話

 ある雨の日、夫が、ぐでんぐでんに酔っ払って帰ってきた。顔には、血のついた傷を負っていた。

「だけどよぉ、俺は一切、手を出さなかったよ。暴力沙汰にでもなれば、お前に迷惑がかかるから。」

私は、どこか夫に芸人の美学を感じた。口論は、手を出したほうが負け。そのからくりを皮膚感覚で覚えていたように思えた。

「それより、アンタ。早く体を拭きなよ。」

次の日の舞台に、血を流して出番を待つわけにはいかない。警察には、連絡しなかった。大ごとにでもなれば、芸人生命も危ぶまれる。

「あいつが、お前の悪口言うもんで、ついカッとなってよ。そんな奴じゃネェって言い張ったんだけど、あいつ、それでも文句言い散らかすんだ。」

それよりも明日の出番に、酔った勢いで出られても困る。

「明日は、アンタ、休みなよ。団員だけで何とかするからさ。」

と、言いながら、次の日の本は、出来ていなかった。

「お前、今日のこと漫談にしろよ。」

普段の生活を別にすると、舞台の上では、夫が猿回し師で、私が猿だ。猿が一人で、芸は出来ない。

「だけど、アンタ、あたし一人で舞台に上がったことないじゃない。」

結局、次の日の公演は、休みという運びとなった。その時ほど、夫の必要性を感じたことは無かった。

(この人に、代役はいないんだ。)

全ての責任を背負って、舞台に立つ男の生き様を見た気がした。芸人は一人。いつ如何なる時も、一人で舞台を回さなくてはいけない。例え、仲間が居ようとも、よしんば仲間に裏切られようと、一人で舞台に立つ。

「いいか。今から大事なことを言う。喜劇人とピエロの違いは、言葉で笑わせるか、動きで笑わせるかの違いだ。」

言葉に、重きを置いていた夫は、ピエロではなかった。そこに滑稽さも、ひねりもない。ひたすら話芸を愛した男の本音だった。そこに笑わせようとしながらに、落語を聞いた客は、この男に泣いていたのかもしれない。そう思った。

 夫婦で居ながらにして、この男を本当に理解していたのは、妻である私ではなく、客であった。常に客と対話し、対峙し、格闘した。そして、客を愛した。芸を愛した。

 その次の日も、次の日も公演はあった。追われるように本を書き、芸を磨き、粗野されようと、笑われようと、舞台に立った。私が、理解しているより深く、夫は、芸の本質を知っている。その難しさも怖さも。

「大衆ってのは、すぐに飽きちゃう。だけど、俺たちは飽きちゃ駄目だよ。芸人は、飽き性でありながらにして、芸には飽きちゃ駄目なんだ。」

ネタには飽きても、芸には飽きない。そこに芸への飽くなき挑戦を、隣で見ていた。客席にこの熱気が伝わるのが、本来の芸であろう。

 その日、私は、赤飯を炊いて、さんまを焼いた。何故か、そうしたくなった。その時、魚の値段も野菜の値段も、高騰していた。

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