第2話 ようこそ、さようなら▲

 異形のは……はたして、どう形容すればいいのか……一言で言うと、地面から飛び出た「五つの眼」と「トゲの生えたの口」である。

「眼」の方は、一個を中心にして、残りの四つは放射状に並んでいる。それぞれの眼の下には「柄」のようなものがあって、それによって地面から生えているようだ。

 また、幅広の「顎」の大きさは、ヒトの掌大のサイズほど。縁の内側には、植物のトゲを思わせる「犬歯」が生えている。食虫植物「ハエトリグサ」のような……あるいはパン屋のトングの親玉のような……狩猟罠の「トラバサミ」……というのが最も適切な例えかもしれない。そのガマ口が、チューブ状の「鼻」によって、五つの眼のそばに、地面からにょきっと飛び出している。大口を開けたそれは、掃除機のヘッドとノズルのようにも見える。


 だが、「眼」の周りや「顎」の、サバンナの青空を映したかのような、「」は……やはり、例えは例えに過ぎず、目の前の生物?は、私の知識を超越した、未知の存在と言うべきほかない。


 五つの眼がギョロギョロと四方八方を向いて、辺りを観察している。「顎」のほうは、真昼のサバンナの風に揺られ、所在なさそうにフラフラ動いている。


 ……なんなんだ、これは? 植物なのか、それとも動物なのか? 深海に潜む海洋生物のような、顕微鏡のレンズの中に棲む単細胞生物のような……もっと平たく言うと、ずばりエイリアン……まるで子供の落書きを、最新のCGで描きなおしたような、開けっぴろげの不気味さ、グロテスクさ、わけの分からなさ……。


 いや、五つの目玉がギョロリギョロリと、あちらこちらを見つめる動作は案外、愛嬌があって……いや、やっぱり全然無いような……。


 すぐに後悔することになるのだが……迂闊すぎた。とにかく「それ」の実在性に、現実感を感じ無かった私は、軽率にも、好奇心の赴くままに、「それ」をもっと観察しようと、自ら近づいていってしまった。




 突然、まったくの予備動作無しで放たれる、私の頭部を狙って口吻を真っ直ぐ撃ちだす一撃! 「そいつ」の観察に気を取られていた私は、少し反応が遅れて、攻撃を避けることができなかった! 

 が、何とか致命傷を避けることはできた。といっても私が取った行動は、身を引っ込めて両手で頭をかばうという、動物の行う本能的な反射にすぎなかった。頭の代わりに、左の前腕から先が、「そいつ」の触手の「顎」に食いつかれるという結果になった。




いだぁーーっ!!」


 噛みつかれた左腕からの出血。乾燥した大地を、滴り落ちる血が赤く染め、やがて大きな黒い染みになる。と同時に、が、傷口のまわりから滲出しんしゅつして、煙のように立ち上る。オキシドールの消毒液をかけた傷口から、泡となって酸素が発生するように。


 なんなんだこれは? 「やつ」の唾液か何かか?


 焼かれるような、鋭い痛みと後悔の念が襲う。鉄の臭い。混乱と焦燥。激痛で意識が混濁する私を、「やつ」は、容赦なく地面へ引きずり倒す。


 まずい! 地面に転がされてしまうのは!




 「敵」はすでに、潜んでいた地中から飛び出して、姿を見せていた。猫くらいの大きさの、犬のような体の生物。だが、


 五つの「眼」は、「やつ」の頭部の上側についている。あの、長い「鼻」のような口吻が、犬の口に当たる部位から伸びて、先端には例の「顎」が備わっている。私が先ほど見たのは、身体を地中に隠し、眼と顎だけを地上に出した姿だったのだ。


「離せ!! 離せ!! 離せェっ!!」


 仰向けに倒れた私は、急いで上体を引き起こす。そのまま立ち上がりたいが、そうはさせまいと「敵」は「顎」が食らいついた私の左腕を、強靭な力で振り回す。


「くそ死ねェ!! 化け物ぉっ!!」


 地面に落ちていた大きめの石を、無事な右手でとっさに掴み、私に食らいついた「敵」の「顎」に、何度も、何度も、思い切り叩きつける。が、外れない。「顎」の表面が思ったより硬い。そして、上腕と手首の骨・腱まで、大顎の「牙」が食い込んで、二枚貝のようにガッチリと閉じてしまっている。打撃を加えるたびに、自分の腕の方にも鋭い痛みが走る。少なくない量の出血……手首の動脈が傷つけられたのかもしれない……。


 痛い……痛い……。

 気持ちが悪くて、吐きそうだ。


「汚い口を開けろ!! ちくしょうっ!!」


 泣きながら何度も何度も石を叩きつける。打撃の衝撃で私の右手のほうがだんだん麻痺してくる。とうとう振りかぶった拍子に、付着していた血で滑って、握った石がすっぽ抜けて遠くへ飛んで行ってしまった。


 諦めずに、握った右手の手首の骨や、肘を「顎」に打ちつけて攻撃を加える。だが、この座り込んだ姿勢では、地面の踏ん張りが利かない。重力や腰の回転が利用できない手打ちの打撃は、思った以上に弱々しい。頭突きを食らわせると、そのたびに自分の額のほうが割れそうでフラフラになる。


 私は、左腕に食らいついた「顎」を引き剥がすのを諦め、「敵」の「本体」を攻撃することにした。化け物の「鼻」を右腕で掴み胴部に巻きつけ、上半身の体重をかけて引っ張って「本体」をこちらへ引き寄せてようと試みるが……。


 だが力いっぱい引っ張っても、相手はしっかり踏ん張って、その体はびくとも動かない。猫程度のサイズのくせに、大型犬くらいのパワーはあるように思える。しかも、私の胴部に巻き付けた「鼻」で私を締め上げて、逆に私のほうを引っ張って引きずろうとする。




 戦いは、いったい何分続いたのであろうか……いや、ほんの数十秒程度だろうか? しだいに消耗する私は、とうとう完全に地面に仰向けに引き倒されてしまった。

 まずい体勢である。これでは、ほとんど抵抗らしい抵抗ができない。両足と右腕で踏ん張ろうとするも、ほとんど効果が無い。


 だんだん麻痺してきた左腕は、もう痛みがほとんど無くなってきた。いっそのこと、このまま左腕が引き裂けてしまえば、自由の身にもなるのだが……やはり「怪物」の「牙」が――磔刑に処された罪人の手首に穿たれる杭のように――完全に骨の間まで食い込んでしまって、物理的に外れることは無い。

 右手で地面を掻きむしるが、五指の爪は剥がれ指先の肉は裂ける。暴力への抵抗の跡が、赤黒い五本の線となって砂地に残るのみ。

 固い砂利の上を引き回され、全身を蝕む苦痛が私の思考を掌握する。


 出血量が著しい。体重の一三分の一ほどとされる、人間の全血液量。その、どれぐらいの割合を失った? 五分の一か? 四分の一か? 一升瓶の半分ほどの血が流れたと思う。

 大地の赤黒い染みが、着実にを形作りつつある。


 なんとか立ち上がらなければまずいのだが、「怪物」の力は強力すぎて、いいように地面を転がされるがままだった……。


(こいつは……獲物をこうやって弱らせてから……喰う気か……)


 絶え間ない苦痛と疲労が続き、意識が朦朧としてくる。

 ここで気を失ったら、本当に一貫の終わり……。


 ……わけも分からず死ぬなんて……そんなのごめんだ!!


「ざっけんなァッ!! お前なんかに!! 喰われてたまるか!!」


 私は「敵」に対して、そして自分に対して、けもの咆哮さけびを上げる。


「私は……食べられるために生まれたんじゃないっ!!」


 だが、どうすればいい!?

 どうすればいい!?


 薄れゆく意識の中で、私は考える。


 ……こいつの「顎」の「外側」は丈夫だが、「内側」はそうでもないのかも……「内側」を攻撃できれば……何とかなるかもしれない……。




 ふと見ると、地面に「先割れスプーン」が落ちている。


 転げまわるうちに、ズボンのポケットの中に入れていたのが、飛び出してしまったらしい。私はそれを掴み上げる。これでヤツの「顎」をこじ開けて、「内側」を傷つけられれば……いや、無理だ……がっちりと左腕に食い込んで、わずかばかりの隙間すらない……。


 ……いや、隙間なら、


 大きな「傷口いりぐち」があり、「麻酔いたみどめ」まで施された「突破口バイパス」だ!


 私は、「先割れスプーン」の鋭利な先端を力いっぱい刺した……。もうほとんど痛覚がない腕の肉の、ヤツに噛まれたままさんざん引きずり回されていたおかげで、長く引き裂かれた傷口を、さらにフォーク部分でえぐって開き、前腕のピンク色の肉の中へと、力いっぱい押し込む……。


 そう、死ねばもろとも……。そんなに私が喰いたければ、片腕をくれてやろうじゃないか。で肉を口の中へ運んで、お前のをしてやる。


 先割れスプーンが、左腕の肉を突き破った。

 そのまま、「顎」の内部へ突き刺さる感覚。


 最後の晩餐を、よく噛んで味わってくれ。


「くそったれえええ!!」


 ヤツの「顎」の「内側」を、左腕ごしに、ひたすら刺す。何度も、何度も刺す。刺激臭のする青い体液と虹色の結晶が、大顎からよだれのように流れ出てくる。


「ガュシュェッ!! ギャェエァァァァァァァァ!!」


 五ツ眼の怪物が怯んだ。おぞましい叫び。この世の生物の声とは思えない、電子音のように無機質な、作業機械の警告音のようだ。それでいて人間の声のような感じもする、甲高くて耳障りな、本能的な生理的嫌悪感を呼び起こす音。


 五つの眼がバッテンのようになった――というと、可愛げがあるように聞こえるが、痛みへの神経生理的な反射で瞳孔の形が十字になったというのが正確な表現か。目の中の十字架は、耐えきれない責め苦を受けている証に見えた。


 攻撃は効いているはずだ。

 それでも、こいつは食らいついた「顎」を離さない。


 私は、生まれたての小鹿のようによろけながら立ち上がる。


 ヤツのほうが力はあっても、体重ならこちらのほうが圧倒的に上だ……それならば……痛みで悶える「怪物」の「鼻」を右腕でしっかりと掴んで後ろに倒れ込む! ……その勢いで、こちらへ飛んでくる「怪物」の本体!


 飛んできた「怪物」の「鼻」の上に倒れ込んで、逃げられないように身体で押さえる。

 その頭部でも、胴体でも、手あたり次第にめちゃくちゃに蹴りつける。その間も、右手では口の中への攻撃を続ける。

 五つある「眼」の幾つかが潰れて、白濁した液体が飛び散る。胴体から液体が染み出てくる、蹴られて内臓が破裂したのかもしれない。

 例の虹色結晶が、大量の煙となって出てくる。




 私と「怪物」の血と肉と、すべてが混ざって、ものすごい臭いがする。


「げぼっ……うえええっ……!」

 私は思わず胃液を吐き戻す。砂の大地に広がる黒い染み。酸の異臭。虹色の煙が立ち上る。


 すると、何かが切れたように私の体中から力が抜けていく。


 ずっとスプーンを刺し続けていた右手の力が無くなる。




 あああ……ダメだ……ここで力尽きてしまっては……。




 意識が……途切れていく……。




 私はその場にどさっと仰向けに倒れ込んだ。




 眠い…………。







 まわりが…………暗くて…………見えない…………。







 寒い…………。







 生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめに暗く

 死に死に死に死んで死の終わりに冥し







 澄んだ青い空。

 昼下がりの風が心地よい。


 ここは天国だろうか?




 少女が……空を飛んでいる……。




 天使が宙を舞っていた記憶。

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