Prologue:小さな友達に挨拶を
第1話 土から生まれて★
私を幸せにしてくれたヒトへ
いつかまたあなたと出会うときには、あなたは別のあなたになっているでしょう。
あなたが全てを忘れてしまっていても、わたしはあなたの全てを覚えています。
あなたの匂いや足音、優しい声、その逞しい腕と、抱かれた時の温もり……。
共に気持ちよく大地を駆けたあの日々を、私はずっと忘れません。
楽しいこと嬉しいことは、いつも一緒にいっぱい笑い合って「たのしい」を倍にしましたね。
悲しいことや嫌なことも、たくさんあったけれど、一緒に半分こして食べてくれましたね。
ありがとう、色々なことを教えてくれて、たくさんの「かがやき」をくれて。
本当にありがとう、私と出会ってくれて。
また出会えたら、今度も一緒に駆けっこしましょうね。
あなたの忠実なパートナーより
『主人に宛てた手紙』
……パオ――――ンンン――――ンンンン…………。
――ゾウの鳴き声……?
それから少しして……いや、はたして長い時間が経ったのか……?
うだるような暑さと、耐えきれない喉の渇きのせいで、大人しく寝ていられなくなった私は、泥のような眠りから目を覚ました……。どこか、埃っぽい場所に寝そべっている私。
来ている服は、全身水をかけられたように濡れていて、それでも汗がじわじわと次から次へと出てきては、重力に従って地面に落ちていく。絶え間なく噴き出る汗のせいで、顔と、露出した腕と脚の、砂まみれの肌。
例の、動物の鳴き声が――何種類かいるようだが――断続的に、はるか遠くから聞こえてくる。
ずいぶんと風変わりなモーニングコールだ。
(……ああ、それにしても、ひどく喉が渇く……)
口の中がひどく砂っぽい。唾液で口の中を湿らすたびに、歯の間の砂利を噛む、不愉快な感触。顎の骨を伝わる耳障りな音。
――ああ、なんて暑いんだ……日陰のここは、風通しも存外良いけれど、外のむわっとした昼の暑さが私の寝ている場所まで入り込んでくる……。
……外? ということは、ここは建物の中らしいが……らしい、とは……? ……おかしい……おかしいぞ……ここはどこか、何故ここにいるのか、ということも含めて、
自分の両手を目の前に持ってきて、じっと見る。
……こんな手は、私は知らない……。
初めから、ぼんやりと存在していた不安が、確かな形の染みになって、頭の中にじわじわと広がっていく。心臓の鼓動が一気に速さを増す。速まる呼吸を抑えて、私は考える。土埃まみれの汚れた顔を両手で触り、砂がまみれの髪の毛を撫でる。……いつまで経っても拭い切れない違和感……。この顔は、私のものではない……。
……そんな、馬鹿なことがあるか……自分のことをすっかり忘れてしまうなんて……。
これは夢なのか? ……未知の世界にポツンといる……未知の自分……。
全ては白昼に見ている悪夢に過ぎず、「現実世界の私」は自分の寝室のベッドの上にいるのでは……?
……いや間違いなく、これは夢ではない。不明瞭な記憶とは打って変わって、鮮明な現実感と冷静な思考が、私に世界が夢であることを否定させる。
上体を引き起こすと、体中の骨がバキバキと悲鳴をあげ、そのイヤな音が身体を伝わって耳へ届く。肩甲骨や背骨、腰など、長らく床と接していたらしい部位の、骨と筋肉に痛みを感じる……。首や腰を動かすたびに、軽い鈍痛と不快感を覚える。
私はずいぶん長い間、この場所で寝ていたのだろうか……?
(建物の中だ……出口から、熱い日差しが差し込んでいる……今の時間帯は昼か……?)
思い切って立ち上がると、下半身に奇妙な違和感を覚えた。……前々からうすうす気になっていたが、あるはずのものの重みが、やはり無い。ショートパンツの内側に手を入れてみると、その証拠が確認できる。出っ張ってないどころか、むしろ引っ込んでいるではないか! 理由は分からないが、私は大変なショックを受けた!
では、逆に胸の方には、あるはずの無い大きな脂肪のカタマリが……無かった。いや、あるにはあるのだが、たいへん体脂肪が薄いのである。そう、有るか無いのかで言えば、無いというほうが近い……私の胸の脂肪は存在感がないのである! 何故か、またも大変なショックを受けた!
なぜ自分の体の構造に対して、ここまで衝撃を受けるのか、それが理解できない。……いや、待て。何故さっき、当然のように股間にはものがあるはずなどと考えたのであろうか? この、自分の性別に対する違和感の正体は、全く不明であるが……そのことばかりを、独りで考えていてもしかたがない。
気を取り直して身の回りを見渡すと、今まで私が寝転がっていた場所は、個室一つと洗面台のみのこじんまりした「公衆トイレのような場所」の個室の床であったらしい。「ような場所」と表現したのは、そこがひどく荒廃している様子であったからだ。
まずは目の前には、ふたの無い洋式便器……蝶番が使われていた形跡が一切無い。ふたが取れて無くなってしまったわけではなくて、直接本体に腰かける方式のトイレなのだろう。錆びたネジで床にしっかりと固定されているが、揺するとわずかばかり動く。揺らしたときの重量感からすると、材質は陶器か? 地面に接する部分の汚れはすごいが、本体上部には損傷や汚れはさほどない。
そばには、金属製のレバーが設置されている。表面の塗装は剥げ落ちて、ほぼ全体が茶色く錆つき、かすかに赤く塗られていた痕跡があるだけだ。固いレバーを力いっぱい押し下げると、顔まで飛び散るほど激しい勢いで、土か錆か分からないが、赤茶けた汚い水が流れた。
便器の周りを見ると、鮮やかな色づかいのタイルが使われていたらしい床は、大部分が剥がれて、打ちっぱなしのコンクリートが顔を見せる。出口に近づくほど、大量の乾いた土埃で赤茶色になっている。
アフリカ絵画風の動物が描かれた壁は、だいぶ損傷が激しく、ほとんど崩れかけている箇所すらある。元々はビビッドな色使いであったらしい、強いデフォルメが施された動物たち……全身が色あせて朽ちかけの、ゾウやカバ、シマウマ達が、恨めしような大きな目を、こちらに向けてくる。大の大人でも一瞬ギョッとするような不気味さ……。私が可愛い可愛いお子様だったら、泣いて失禁するレベルの恐怖。
冷静になってよく眺めてみると、動物たちはみんな尻尾(と、それが付随する臀部)をコチラに向けている。やたらとお尻を強調しているポーズ……安産型な印象の画風……場所が場所だけに、これ何かのジョークか? と勘繰ってしまう。うん……そう思うと、ゾウとかカバとか動物のチョイスも何だかそれっぽい気がしてきた。
ちなみに、当然と言うべきか、「紙」は無い。そもそもペーパーホルダー自体が見当たらない。
トイレの出口や換気用の小窓の付近に目を向けると、そこは外からツタ植物が入り込み、それもかなり繁茂している。よく見ると、枯れた古いツタが相当な量ある。どうやら長期間、自然に晒され、手入れされないままになっていたようだが……。
さて、一通り周囲の環境を観察した後は……私はなぜこんな場所にいるのか、そして私はどこの誰なのか、という重要な記憶を取り戻す作業に、再び着手した。
……便器に腰かけて、ウンウン唸りながら、いくら小一時間ふんばっても、一向に出て来る気配が無い……記憶の便秘である。お通じの薬が欲しい……。
(――それにしても、さっきから喉が渇いてしょうがない!)
公衆トイレの出口へ向かった。そこには、お目当てのものがあるハズなのだが――やはりあった、小ぶりの簡易的な陶器製の洗面台と、鏡だ。おそるおそる、一つしかない蛇口のレバーをキュッとひねる。表面が劣化し黒く錆ついたレバーは、案外軽く回って……しばらくすると……やった! 水が出てきた! こちらでもまた、赤茶色の水が大量に出た後、透き通った綺麗な水が、ジャパジャパと滝のように勢いよく出始めた! 太陽の光を受けて、キラキラと水しぶきが輝く!
だがこの水道水、はたして衛生的なのか、飲料水として適しているのか……先ほどの水の、真っ赤な色のイメージが脳裏をよぎる……一瞬そう逡巡したものの、魅力的な「ジャパジャパの滝」を目の前に、意外なほどすぐに理性と嫌悪感は吹き飛び、我慢できなくなって、小さな洗面台のシンクと蛇口との間に頭をねじ込む。私の後頭部で蛇口を抑えられて、行き場を失った水道水が、噴水のように水平にほとばしる。
頭にたっぷり水を浴びて、髪の毛と顔の土埃を落としてから、顔を上に回してごくごくと喉を鳴らして水を飲む。その二つの行動を、まるで動物の習性のように、何度も、何度も、繰り返す。
贅沢……という二文字で、今の気持ちを表したい。
動物のような水浴びをひとしきり楽しみ、暑さと渇きで干乾びていた頭と体に、潤いを与えることができた。
ついでにこのまま服を脱いで行水をしたかったが、さすが躊躇われた。なにしろ自分の置かれている状況が不明なことを考えると、あまりリラックスすることもできない。もしかしたら、この水だって貴重なものなのかもしれない。下着まで汗びっしょりで汗臭くてたまらないのだが、まあ我慢だ……。
落ち着いた私は、自分のことをさらに考える余裕が生まれた。
私は目の前の鏡を見た。
洗面台の鏡は割れて半分以下の大きさになっており、四隅のひとつに、三角形の破片が固定されて残っているのみ。
外から乾いた土埃が入ってきて吹き付けるのであろう、赤茶けた土の塊がカビのように表面にくっついていていて、鏡としての役割を果たさないほどだ。私は水を両手ですくって鏡にかけて、シャツを脱いで折り畳んで鏡を吹く。
割れた鏡面の奥から、隠れて恐る恐るこちらを窺う顔が現れた……肩の高さより下ぐらいの長さの亜麻色の髪を、水で滴らせた少女……汗まみれで、土で汚れて、疲れ切って、ひどく怯えた顔。昼の太陽のきつい逆光でよく見えないが……やはり、まるで身に覚えがない。全く記憶にない顔……これが私の……?
おそらく歳のほどは、十代半ばから後半……どれだけ多く見積もっても、二十代の前半は超えていないと思う。身長は……測る基準になるモノが無いので何とも言えないが、天井・鏡・洗面台の高さや、便器の大きさから考えると、やや小柄~平均的くらいの背丈や体格だと思われる。
次に、私は、自分の衣服や所持品を詳しく調べることにした。
グリーンのキャンバススニーカーに、ウールか綿と思われる厚手の靴下。
女性用の下着上下(たぶんスポーツ用)。ジーンズ生地のショートパンツ……これは私には大きめのサイズだが、付属するボタンである程度ウェスト調整が可能だ。
黒と白のボーダー柄のシャツ――さっきはこれで鏡を拭いた。グリーンの薄手の夏用ジャケットは、長袖だがボタン留めで半袖にもできる。厚手のキャップ――顔まで覆える大きな耳当てがついていて、日除けや風除けに便利そうだ、使わないときは頭頂部にボタンで留められる。
角ばったバックパック(中身は何もない)には、ビニール製の内張りが施されていて防水性が高そうだ。そして、厚手の布地の肩掛けの小さなかばん(昔の学生がつかうような
細かい持ち物と言えば、予備の靴下が一足、ステンレス製の
現金類や身分証、文明の利器の類は皆無である。また、衣服や所持品には、ブランド名やイニシャルなどの、身元の手掛かりになるような文字は一切なかった。
この場所を探してもこれ以上「私」の手がかりは無く、いくら自問自答していても答えは出ないだろう。
原始人よりは少しましな程度の持ち物をまとめて、トイレの外に出ることにした。
さて、トイレを出るとサバンナであった。
つまり外の風景は、あの、動物図鑑やドキュメンタリー番組などで見るような、雄大なサバンナの風景であったということ。青い空と、枯れたような色の草原を、一直線に隔てる水平線。まばらに生える草むら。点在する高木は、高所の葉のみが残って、それが横に広がるという特徴的な形状をしている。
このサバンナのような場所はどこなのだ? 外国? サバンナの本場、アフリカなのか? とりあえず、日本にこんな場所があるはずが……いや、どこかのサファリパークが、こんな風景を映したテレビCMをやっていたような……まさかここは富士の裾野……。
遠くを見ると、地平線にそびえる山々……ん? 一番大きな山の山頂が、キラキラと淡い虹色に輝いているような……。
山頂(あれは火山なのか?)から、虹色の角ばった輝く物体が、鍾乳石のように、上へと上へと飛び出してきているように見える。ビスマスだか、なんだかいう名前の、虹色の鉱物の結晶に似ている。
あれは、太陽光かなにかの関係で、山頂部が虹色に見える気象現象(ブロッケン現象と言ったような……)なのか? ……それとも火山の噴出物のようなものなのか? ……遠すぎるせいで、細部がぼやけて見えてよく分からない。……あの怪現象については、とりあえず放っておこう。
突然、ぞっとするような視線を感じた。遠くを見つめていた視線を下ろして、近くの地面を見た。
その時初めて――いつからかは分からないが――すぐそばの地面に「それ」があったことに気が付いた。
五つの「眼」が私を見つめていた。
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