第3話 第一発見者

 私は流れる川の中に、仰向けに浮かんでいる。


「……起き………………セ……リア…………傷は……った……から……」

 水面に出した顔に、天使がその顔を近づけてくる。少女の顔、青い目、赤い髪、獣の耳……。


「――さっさと起きなさいよ……」

 透き通った声。


 先ほどから、陽の光は穏やかで、涼しげな風がどこからともなく吹いて、顔に当たる。とても快い。やはりここは、聞くところによる天国であろうか。


 天使は目を覚ませと言うが、私はひどく疲れていた。そしてそのまま、心地よい惰眠に身を任せることにした。




「……起きないなら、このままアンタを食べちゃうわよ。がぉ~う……」

 食べられるのはさすがに困るかな? と、私は思った。


 全く急に、天使は、自分の唇を私のそれに重ねる…………天使の口づけは、とても甘い味がした……。

 ……すると私の喉に、甘い乳と蜜が流れ込んでくる。




「――ぶぉっほえぁぇッッ……!」

 乳と蜜の川に溺れた私は、咳き込んだ。



「やぁ~っと起きたわね。ダメかと思った」

 目を覚ますと……やはりそれは、動物の恰好をした、赤い長髪の少女であった。


「ねぼすけ」


 彼女の言う通りである。急な目覚めゆえか、思考がぼんやりとしている。


 意識を取り戻してからずっと、空虚で脈絡のない“死後”のイメージの奔流が頭を駆け巡り、私の心を支配している。明瞭な思考ができない。木陰に横たわる私。太陽が眩しい。風が爽やかである。


「げほっ……げほっ……」

 何かを喋ろうとして咳き込む……私の口から、びちゃびちゃと虹色の液体が垂れた。


「……あなたは天使ですか? ここは天国でしょうか?」

 特に何も考えることなく、私は開口一番、思っていたままのことを尋ねた。


「はあ? なにそれ? 違うわよ、その『てん……し』? だか何だかは分からないけど……ここは『ジャパリパーク』よ。あたしはカラカルキャットのカラカル」

「ジャパリ……パーク……カラカル…………」


 ジャパリパーク……遠い昔、どこかでその言葉を聞いたことがあるような……なぜかそんな懐かしい響きがした……。




 ……自分の今置かれた状況を……私は脳細胞を総動員して考えた。


 自分の記憶を探る。


 トイレの中で目覚めた私。記憶喪失……。外へ出ると、「怪物」に襲われて……。




 私はがばっと跳ね起きた。

 そこは、公衆トイレの外にある樹の木陰であった。


「あっ! あ、あの怪物は!? 化け物っ!? 眼が五つの、伸びる顎を持った化け物!!」

 私は周囲を見回す。


「ああ、アンタが戦ってた『セルリアン』のこと。なら、あそこにわよ」


 獣の服の少女……カラカルが振り向いた方向には、先ほど私を襲った「怪物」……「セルリアン」の死骸が横たわっていた。その青い身体は、液状化の様相を呈しており、死骸の全身から、あの「虹色の結晶のガス」がしゅうしゅうと音を立てて噴き出ている。高い気温でもう腐敗が始まっているのだろうか……。


「あれは……カラカル……さんが、ヤツを倒してくれた……」

「ん? そりゃ違うかな? ……まあ確かに、アンタらを見つけてから、あたしがトドメを差したワケではあるけど……その時にはアイツもう、ほとんど死にかけてたから」

「私が…………」


「アンタ、すごいわねえ。あんなに傷だらけになって。根性あるわよ。どう見ても強そうには見えないのに」




 先ほどから、上体を起こしただけの姿勢の私と、膝を折り曲げて前かがみになって、興味しんしんといった面持ちで私を見つめるカラカル。

 この位置関係だと、下着がよく見えてしまう。だが、彼女はそれを隠そうともしない。正直、目のやり場に困る。どうしても自然に目に入ってしまい、チラチラと目を反らすハメになる。心臓の鼓動が速くなる。……なぜこれほど、同性の身体に対して必要以上に意識してしまうのだろう。


 故意に下向きにした視界が、自分の左腕を捉えた……手首から前腕の中ほどにかけて、大きく裂けたような傷口が見える。だが、それは古傷のように塞がりかけているのだ!



「……あっ! 腕の傷が……」


 そう、私はあの怪物「セルリアン」に噛まれて……自分でも武器を突き刺して、左腕にかなりの重傷を負ったはずだ。それが、今はどうだろう……あの、裂けんばかりであった傷口が、今はもうかなり塞がり始めているのだ!

 ……太陽の角度は、最後に覚えている位置より4、50度ほどしか動いていない……つまり、あの戦いから数時間しか経っていないはずなのに! まるで、まだ白昼夢を見ている気分だ!


「……確かに、左腕に大怪我をしたはず……」

「ああ、あれは痛かったでしょう……けっこう大きな傷だったけど、もう治りかけよ。あたしの“サンドスター”で傷を治したから。よく効くでしょ」

 カラカルの言う「サンドスター」とは、治療薬の一種らしい。それを私の怪我に投与してくれたらしい。……数時間であの酷い外傷がここまで回復するのだから、凄まじい効果である。


「あとは、『先生』が教えてくれた通り……こうやって傷口をずっと抑えて……」

 彼女は両手を私の左腕の上に置いて、まるで猫のように、揉むような動きをする。


「それに、サンドスターの余ったのを、さっき飲ませてあげてたからね。疲れが取れたでしょ」

 カラカルは首にかけたプラスチックの小さなボトルを私に見せる。フタが乱暴な力で取り外されていて、中身はカラッポである。


「ほら、アンタが起きないから、こうやって飲ませてあげたの」

 そう言ってカラカルは、私の顔に大きく開けた口を近づけて、息を吹きかける。甘い匂い。まるで肉食獣を思わせる長い犬歯。童話にでてくるような小悪魔のようである、最初は天使などと思ったが……。天使……。


 ……天使の接吻……唇の柔らかな感触……あれは、夢ではなかったわけか。気道に入ってむせて、危うく本当に天国逝きになるか、と思ったのも……。



 私は起き上がって正座する。


 すると、こちらの作法に気を遣ってか、あるいはただ単に真似をしたかったのか、向こうも同じく正座した。


「ありがとうございます……本当に、カラカルさんがいなかったらと思うと……」

 命を救ってくれたカラカルに、いくら感謝してもしきれないほど、心からの感謝。


「いいってことよ~。ナーバリで襲われている子を見つけたら、助けるのは当たり前だもの」

 ちょっと出かける手間ヒマで人命救助……とばかりに、カラカルはあっけらかんと答える。


 カラカルは……このサバンナの地元の住人だろう。私と同じく日本語を喋るが、人種については、ぱっと見ではよく分からない。猛獣に襲われた人間を助けるのに慣れていそうな……レンジャー的な職業か何かか? 自分のナーバリ――日本語の「縄張り」から来ている用語か――というのは、おそらく担当地区のことだろうか?


 しだいに状況を理解していく私。

 気分が落ち着いてくると、カラカルの服装の違和感が気になりだす。


 それは、一言で言うと、猫のような恰好である。外へハネたセミロングの茶髪……その頭の上には、先端に房が付いた黒い「猫の耳」があるのだ! カフェの店員の制服のような、白いブラウスと髪と同じ赤茶色のミニスカート……「アンミラ服」とか何とかいったような名前だったと思う。そして、同じく赤茶色のロングの手袋とニーソックス、極めつけにお尻には尻尾がついていて、風で左右気ままに動くのだ。


 確か「カラカル」という種類の猫が、アフリカにいた気がする。それをモチーフにした衣装に見える。


 ……現地の部族の民族衣装……と言うには現代的すぎる。では、やはりこのサバンナで、動物に紛れる「カモフラージュ」用の衣服か何かなのだろう。そう半ば無理やり、私は納得した。




 カラカルはうつ伏せになって、腕を組んだ姿勢になって、私を見つめる。

 何だその姿勢? あなたは猫か?


 いや、ここは外国っぽいし、そういう文化が?


「だいぶ落ち着いてきたから聞くけど……アンタ、この辺では見かけないカオよね。昨日のサンドスターの噴火で生まれた子? 火山から出たサンドスターで、まだ辺りが少しキラキラしてるでしょ」

 香箱座りのカラカルが言う。


 ……彼女の問いかけによると、「サンドスター」は薬の名前、というわけではないらしい。化学物質の一種なのか? それに、「生まれる」とは?


「あっ、つまりねが、『サンドスター』に当たると『フレンズ』になるのよ。サンドスターは、あの大きな火山が噴火すると出てくるし、アンタの傷を治したのもサンドスター。『フレンズ』が生きていくために、絶対な必要なものなのよ。よく見てみなさい、周りでキラキラ輝いてるのがサンドスターよ」


 ……上手く理解できない。


「サンドスター」が火山性の鉱物であり、ある種の生物の生命維持に必要不可欠な物質であることまでは分かるのだが。


 目を凝らして周囲を観察すると、たしかに、虹色の結晶のようなものがかすかな煙となって、あちこちからほのかに立ち上っている。太陽の日差しが強くて今まで気が付かなかった。これが「サンドスター」か、私が先ほど飲ませてもらったものも、腕の傷を治した薬も。

 記憶を探ると、あの「セルリアン」の噛みつきを受けた時や、ヤツを攻撃した時に、傷口や血液から同じような虹色の「サンドスター」が、気体のように立ち上っていたのを思い出す。サンドスターは、特定の生物の血液中にも含まれる必須成分のミネラルのようなもの? ……だが、私の体にもそんなものが存在し、私の傷を治したという……?


「アンタは何のフレンズ? 動物だった時のキオクはある?」

 カラカルが尋ねる。


 私は困惑した。


 ……いや、さっきからその「フレンズ」って言葉も、なんなんだ? フレンズ――友達――英語から由来する専門用語らしい。あるいは、何かの隠語なのか? 当たり前のように言われても理解不能なんだが。いや、どういうことか全然分からん!


 カラカルの要領を得ない発言を、私はとりとめなく考えた。




 考えていると、急に尿意に襲われた。


「あの……話の途中なんですが、ちょっと失礼します……トイレに行きたくて……」

「『といれ』って何?」

 カラカルはサラッと冗談を言う。


 冗談……いや、彼女は日本語を喋るが、ここがアフリカあたりの外国なら……つまり、そういう施設というものが無い文化なのだろう。


「いや……あの、木みたいな建物がトイレなんだけど……まあ、あの、平たく言うと……ちょっと、オシッコに……」

「ああ、トイレって木の穴のこと。オシッコなら、その辺の砂場ですれば? 今日は風が吹いてるから、飛び散って気持ちいいわよ」

 カラカルは事も無げに言った。


 年頃の女の子の言うセリフかそれ……。

 ワイルドすぎるだろ……。


 困惑する私に対して、彼女は背中をピンと立てて「三角座り」のようなポーズをして見せた。

 い、いや……やり方とか、見せなくていいから……めっちゃ、下着が見えてますやんか……。




 うぐっ……そんなこと言ってるうちに……。


 膀胱が悲鳴を上げ始める。

 大洪水の前触れのサイレンが、頭の中で鳴り響く。


 あああ、やばい……。


 私は焦ってトイレに駆け出す。半ズボンを下ろす準備をしながら……。

 いかん、汗で張り付いて脱げない。


 あ、間に合わないや……。


 出まーす。


 それは、今まで蓄積されてきた疲労からか、緊張感から解放された安心からか、あるいは、……警報からの洪水発生までの猶予は、短すぎた。


 ふう……。


 目的地まであと数メートルという所で、下半身のダム決壊と同時に……ついでに女の子としてのプライドも崩壊した。


 きもちいい。


 あははー、風が涼しいや。

 空気が乾燥してるから、気化熱で下半身がよく冷えるなー。




「アンタはオシッコを脚にかけるのがすきなフレンズなのね。ラクダのフレンズ?」


 おう、なにいってんだこいつ。

 慰めのつもりか。




 あ、やば。

 腹の音がぎゅるぎゅると鳴る。


 お腹が冷えてきたら、も……。

 もしやさっき飲んだ水が悪いのか……。




「えー! なになに! そっちも脚にかけるの? アンタはコアラのフレンズ? パップが――」


 じゃかあしい!




 こうして私とカラカルとの出会いは、な結果に終わったのでした。

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