第9話 アイスミルク

 街に近づくにつれ、柔らかな月明りは押しのけられていく。

 代わりに、我が物顔で街を照らすのは、並ぶ飲食店から放たれる下品な明かりだ。

 そんな光を遮るように、エルはコートについているフードを目深にかぶる。

 街一番の酒場で歌っていたエルは、住民たちに顔を知られている。

 あんな出来事があった後、顔をさらけ出して歩く勇気は、エルにはなかった。

 時折、エルと分からず因縁をつけて絡んでくる輩がいたものの、足早に逃げ去り難を逃れる。

 からかわれるために家を出た訳ではないのだ。


(ゆうたが何してるのか、見に行かないと)


 彼に何度訊いても、毎日どこに行っているのか教えてくれなかった。

 だが、帰ってきたゆうたの服から漂う匂いを、エルは知っていた。

 酒と煙草と、油っぽい料理の匂い。

 つい先日までエルが歌を披露していた酒場だ。

 エルが自身の歌の価値を知った、あの酒場。


(どうしてゆうたがあそこに行くの?……私に練習させて、それをみんなに報告し

てるの?それで、またみんなで笑ってるの?)


 頭の片隅に浮かんだ嫌な考えは、もやもやと大きくなっていく。


(わざわざ休ませて、練習漬けにして。私を本気にさせて笑ってるんだ。ちよこ

だって、疲れたフリしてるんだ。そうだ。きっとそう。私の歌を聴いて、本気で練習に付き合ってくれるわけない。バカみたいだって、笑うネタを増やすためにやってるんだ。……でも、私だって本気で練習してない。どうせみんな私を笑いたいだけなんだから、やるだけムダだもの)


 自嘲的な笑みを浮かべたエルの足が止まる。

 考えているうちに酒場についていたのだ。

 普段であれば扉の前に置かれている、エルの宣伝が書かれた板はなくなっており、その代わりには何も置かれていなかった。

 ぽっかりと空いた空間は、誰か気にかけてくれただろうか。


(ゆうた、いるよね……?)


 扉を少しだけ押して、賑やかな店内を覗く。

 だがそれではよく見えず、エルはもう少しだけ扉を押して半身で覗いていると


「おい、お前!入るのか、入んねえのかどっちだ!」


 カウンターの向こうにいた店主が声を張り上げた。


「は、入ります!」


 不意にかけられた声に驚き、声が裏返ってしまった。

 そのまま手近なテーブルにでも座れば良かったのだが、いつもの癖でカウンターへ向かってしまう。


(バレてないよね?ゆうたはどこだろう)


 顔を見られないようにフードを下に引っ張り、店内へと目を走らせる。

 すると、少し離れた所で料理を運ぶゆうたの姿を見つけた。

 手慣れた手つきで料理を並べ、空いた皿を片付けるゆうた。

 そんな彼に、酔った客達が絡んでいた。


「なあ、早くエルを連れて来いよ。暇でしょうがねえ」


「その年で女を独り占めするなんて将来が心配よ」


「エルはすぐに戻って来ます。楽しみにしててください」


 答えるゆうたは、笑顔だった。

 心がずん、と重くなる。

 分かっていても、目の当たりにするとショックは大きかった。

 エルの味方になるフリをして、裏ではみんなの機嫌を取っていたのだ。

 それは仕方ないことなのかもしれない。

 ルバンガ団のことを考えれば、エル一人のために大勢の人間を敵にまわすよりよっぽどいい。

 多数の側に立てば多くの支持を受け、仕事も増え、団体の発展に繋がるだろう。

 ゆうたは団長だ。

 わざわざエルというリスクを背負うはずがない。


(やっぱり。そうだと思った)


 視界からゆうた達を外したその時、苛立たった様子で客が続けた。


「いい加減聞き飽きたっつーの。店主から聞いたぜ。お前がいるせいで、代わりの余興が入れられねえんだってな。だったらお前が何かやれよ」


「そんな、急に言われても」


「はあ?エルは来させねえわ、自分は何もしたくねえわ……ガキだからって甘えてんじゃねえぞ」


 そしてすぐに、爆笑が起こる。

 エルが再び目を向けると、ゆうたの髪は濡れ、着ていたブラウスは首元が薄いピンク色に染まっていた。

 彼の頭上には、逆さまのグラスが掲げられていた。

 中に入っていたであろう酒の残りが、滴となってゆうたの頭に落ちている。


「すまんすまん。酒を無駄にしちまった。あんまりにも生意気なこと言うからよ」


 グラスを持っていた客は、悪びれもせずにそう言った。

 無表情のゆうたが服の袖で顔を拭っていると、別の客がニヤケ顔で近付き、食べかすまみれの汚れた紙ナプキンでゆうたの顔を乱暴に拭いた。


「汚いわねえ。拭いてあげる」


 それに合わせて、ゆうたの長い耳が上下に揺れる。


「犬っころみてえだな。お手!」


 また別の客の言葉に、爆笑が起こる。

 食べかすと酒で汚れたゆうたは、もう彼らを相手にすることなく皿を片付け続けた。

 なおも絡む客達。

 これ以上は見ていられず、エルは目を背けた。

 するといつの間にか目の前にアイスミルクが置かれているではないか。

 氷代わりに冷凍された果実が入っており、見た目にも鮮やかなそれはエルの一番のお気に入りで以前は毎日のように飲んでいた。……のだが、今はまだ何も注文していなかったはず。


「あ、あの。これは別の人のだと思います」


 エルがカウンター内で料理を作っている店主に声をかけると、店主は手元から目を離さずに


「お前のだ。注文もしないで座ってられると思うなよ。それともなんだ。冷やかしか?」


「い、いえ。飲みます」


 理不尽な出され方をしたが、確かに注文もせずに座っていたエルにも否はある。

 むしろ、いつも飲んでいるお気に入りの物が出てきて良かった。

 エルはそう思い直して、ミルクに口をつける。


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