第8話 ホットレモネード

  練習を開始して数日が経ち、とはいえ目に見えた上達はないように思う。

 一日中歌の練習をしてはいるが、やはりエル自身どこか本気で練習に取り組めないせいもあるのだろう。

 ちよこがつきっきりで指導してくれるのだが、時間のムダだと思ってしまう自分が少なからずいた。


「そろそろ終わりにしましょうか。いつもより遅くまで練習しちゃったわね」


 ちよこが時計に目をやり、今日の練習が終わる。

 ずっとリビングにいたせいで気付かなかったが、いつの間にか窓から差し込む光が月明りに変わっていた。


「今日もホットレモネード作るわね。それ飲んで寝ましょう」


 そう言い残してちよこはキッチンへ向かった。

 いつも彼女は練習後にホットレモネードを作ってくれる。喉に良いものをわざわざ調べてくれたのだ。

 だが、その思いやりすらも今のエルには響かない。

 形式的なお礼を口にし、椅子に座って頬杖をついた。

 カウンター越しに見えるちよこをぼんやり眺めていると、しばらくしてレモンと蜂蜜の甘酸っぱい匂いが鼻をくすぐった。


「はい、お待たせ」


 湯気の立つマグカップを持って、リビングに戻ってくるちよこ。

 それをエルの前に置き、自分は向かいの椅子に座る。

 そしてテーブルに置いてあった図面と睨めっこを始めた。

 来るべきエルのリサイタルに向けて、ステージの飾りつけと衣装を一新するらしい。

 エルの練習につきっきりで睡眠時間も満足にとれていないだろうに、夜遅くまでよく頑張れるものだ。


(私のために頑張っても無駄だから、そんなことしなくていいのに)


 初めの頃はちよこに直接言ったのだが、彼女に烈火のごとく怒られたので心の中で言うに留める。

 その代わりに、エルはふうふうと吹いて少し冷ましてからカップに口をつけた。

 レモンの香りが口に広がり、蜂蜜の甘さがゆったりと喉を覆う。

 確かに、喉に良さそうだ。


「今日もゆうたは出かけたよね。お昼に出て、朝早くに帰ってるみたいだけど、毎日どこに行ってるの?」


 カップの半分を空にしたくらいで、エルが尋ねた。

 歌の練習を開始したその日から今日にいたるまでの間、ゆうたは一度としてエルの練習に付き合ったことはない。

 それどころか昼食を食べた後に出かけ、エルが夜寝る時間になっても帰ってこないのだ。

 エルが朝起きた時には、ゆうたは既にリビングで寝ているので、早朝に帰っているのだろう。

 どこに行っているのか彼に訊いてもはぐらかすばかりで、教えてくれないのだ。

 ちよこは手にしていた図面から目を上げて


「わからないわ。練習しようって言い出したのはゆうたなのに無責任よね」


「そんなつもりじゃ……」


「何かしてるみたいだけど教えてくれないの。きっと私が知ったら止めるようなことしてるんでしょうね」


「ちよこでもわからないの?」


「そうね。わからないわ。……腐っても我が団の団長だから信じてはいるけど心配よ」


 眉間に皺をよせ、ため息交じりにちよこが言った。


「でも、こういう時は聞いても無駄って分かっているから諦めてるわ。もし助けが必要なら言うでしょうし」


 いつの間にか空になっていたエルのカップを目にして、ちよこが立ち上がる。


「さ、もう寝ましょう。どうせゆうたは明日にならないと帰って来ないもの」


「うん。遅くまで練習に付き合ってくれてありがとう」


「気にしないで、好きでやってることよ」


 そう言ってエルから空のカップを洗おうと手を伸ばす、ちよこ。

 いつものように渡そうとしたエルだが、思い直して立ち上がり


「コップは自分で洗うからちよこは先に寝て。ここ最近、夜遅くまで起きてて寝不足でしょ。私のベッド使っていいから」


 隠しきれない疲労が顔に浮かぶ、ちよこに言った。

 来客用のベッドどころか部屋も用意できないエルの小さな家で、ちよことゆうたはリビングで寝泊まりしている。

 ちよこはソファ、ゆうたは床に毛布を敷いて寝ているのだ。

 ゆうたはどうか知らないが、毎晩遅くまで起きているちよこの疲れは、ソファなんかでは取りきれないのだろう。

 エルには気付かれないように振る舞ってみせるが、それでも誤魔化しきれていない。


「そんな、悪いわ。ここはエルの家でしょう」


「いいから!これでちよこが倒れたら嫌だもん」


 そう言って、エルはちよこの背中をぐいぐいと押して自室へと向かわせる。

 少し抵抗してみせたちよこだが、部屋の前まで来た頃には諦めたようで


「じゃあ、お言葉に甘えるわ。ありがとう」


「うん。おやすみ」


「おやすみなさい」


 そう残して部屋の中へと消えるちよこ。

 彼女を見送った後、エルはリビングに戻り必要以上に時間をかけてカップを洗う。

 そして、


「……そろそろ寝たよね」


 耳を澄まして物音がしないことを確認した後、コートをはおって静かに家を出た。


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