01-14 それが夢であれば 3


 それは、爆竹の破裂音のような音だった。いや、爆竹よりも大きなものが実際に破裂したのだと思う。

 強烈な揺れが起き、すぐに飛行機は傾いた。

 天地が逆さまになりそうなその揺れは、俺の体を宙に浮かせた。

 一緒に浮かんだ碧が揺れの衝撃に耐えきれず、小さな悲鳴を上げて座席から手を離してしまった。体重が俺に圧し掛かる。


 碧が宙に浮いたときに俺を追い越しそうに宙に舞ったことがよかった。俺が背後にいたため、碧の肩辺りが顔面にぶつかることになった。

 もし逆に下に落ちていくような動きだったら、俺も宙に浮いていたのでそのまま支えられずに足元をすり抜けて、今は地面となっている飛行機の壁面にぶつかってしまっていただろう。


 周りで、想像した通りに落ちていく乗客が、壁に叩きつけられ、力なく揺れに身を任せて転がっていく姿が見えた。


 一瞬の出来事ではあったが心底ほっとした。

 だが、ここで少しでも俺が体をずらしたり支えられなくなれば、碧は同じような状況に陥る。


 もしかしたら壁を突き抜けて空へと放たれてしまうかもしれない。

 そう思うと、決して座席から手を離すことはできなかった。


 右手だけでまだ掴んでいられるサイズの直はまだ軽いが、強く握れば直のまだ柔らかな体を傷つけてしまう。


 微妙な力加減を保ちつつ落とさないように気を付けるが、片手しか使えない状態で碧を支えるのは至難の技だ。


 左腕がぎちぎちと妙な音を立てる。座席に指を食い込ませ、離さないように力を籠めて耐え続けた。


 周りの悲鳴に、碧の悲鳴が重なる。


 機長が必死に斜めになった飛行機の立て直しをしようとした結果か、反対側に機体が傾いた。

 急激な機体の動きに今まで背中に引き寄せられるようにかかっていた重力が傾きとともに力場が変わる。


 碧が壁面に吸い寄せられていく。


「碧っ!」


 直を掴んだままの右腕をすかさず碧の腹部に回し引き寄せる。さらに左腕がびきびきと音を立てる。

 今では3人の命綱である左腕から聞きたくない音が鳴った気がした。


 機長の腕がいいのか、ゆらゆらと飛行機は左右に揺れるだけで済んだのも束の間。

 追い打ちをかけるように最後尾から風が吹いた。


 機内では吹くはずのない風だ。


 その風は、鉄の壁が切り裂かれ機内の気圧変化によって起きたものだと気づいたのは、中にあった物質が外へと押し出され始めた時だった。


 押し出されるのは人であったりまたは荷物であったりと様々だ。


 背後を何かが通り過ぎる気配がして振り向くと、風に乗って押し出されていく赤ん坊が見えた。


 何が起こったのかときょとんとした顔をし、同じように飛んできたアタッシュケースがその顔にぶつかる。顔から目玉が飛び出し、皮が引きちぎれ、肉の塊となって吸い込まれていく。ぴくぴくと四肢はまだ動いていたが即死であろう。


 今ここで直を離せば同じような末路を迎えてしまうかもしれない。


 だが、その穴へと消えれば、生きていようが関係ない。


 俺達は比較的その穴に近いが、順番で言えばすぐに吸い込まれていくはずが、不自然に穴に吸い込まれることはなかった。


 俺の左腕がしっかりと座席に食い込んでいるためか。

 いや、それだけではないような気がする。


 不可解ではあるが、どちらにしろ掴んでいる座席が飛んでいけば終わりだ。


 俺は落ちていく人達を目の前にしながら何も救いの手を差し伸べることができなかった。

 気のせいかもしれないが、落ちていく人が、俺たちのことを恨めしそうに見ては消えていく。

 気のせいにしたい。


 虚ろな目。

 絶望にまみれた顔。

 意識を失っている人。


 いずれも皮膚の出た箇所には火傷のような傷ができていた。

 高高度の上空で外の空気に晒されると、あまりの寒さに火傷を負うと聞いたことがある。


 酸素も乏しい。

 酸素マスクが飛び出してくるが荒れ狂う風に舞って誰も取ることもできなければそれどころじゃない。

 取ろうとしてそのまま宙に浮いて外へと飛んでいく人が見えた。

 家族であろう人の悲痛な声が響く。


 辺りは、叫び声の大合唱。


 外はどれだけの高度か。いくら高いところが好きだと言っても、紐なしバンジーは誰も望まないであろう。

 落ちて助かるわけがない。せめて意識を失って落ちていければ救いだ。


 キンキンッと、耳もとから音が発していることに気づいたのは父さんと義母さんの声が聞こえたときだった。


「命さんは、やっぱり……」

「ああ……命は……凪を守りたいのだろう」


 そんな会話が聞こえる。義母さんと父さんの会話だった。

 何を……二人は何を言っている?


「凪っ!」


 父さんが大きな声を張り上げた。あまりにも大きな声。というわけでもないが、妙にその声が俺の耳に聞こえた。

 辺りは周りの音が聞こえなくなるほどの悲鳴と吸い出される風の音の大合唱。

 そんな中で父さんの声が聞こえたのは奇跡に思えた。


「凪っ! お前に言うべきことがある!」

「父さん、しっかり掴まっ――」

「お前の、母さんは、生きているっ!」

「っ!?」


 そう言った後に、父さんは義母さんを見つめる。


 何を? 今まで見たことない母さんが、生きてる……?

 それを、今ここで言うことか?


「すまない。幸せにしてあげられなかった」

「いいの……幸せだった」


 二人が今生の別れのような会話をしている。そして父さんが再度俺を呼んだ。


「……頼んだ」

「碧、凪……直をよろしくね」


 二人はお互いの手を繋ぎながら、俺達を笑顔で見つめていた。


 俺達を、慈しむかのような微笑。その微笑には至るところに周りの人達と同じように火傷のような跡が痛々しく刻まれていた。激痛に必死に耐えながらも笑顔を見せてくれるが、喋るのも辛いのであろう。



 ぺきっと音が聞こえた。

 その音は激しく飛行機を揺らす。


 最後尾の穴は、さらに拡大。吸い出す力も拡大していく。


 風は、まるでそこに小規模の竜巻を顕現させたかのような渦を巻く。

 その吹き荒れる渦は機体に更に複雑な揺れを巻き起こす。

 すでに飛行機は何度かくるくると回っているのではないだろうか。



「父さんっ! 義母さんっ!」

「――」


 父さんと義母さんの口が何かを紡いだのはわかった。

 ただ、その言葉は、さらに荒れた風にかき消され、何も聞こえない。

 そして、その言葉が俺の耳に届くことはなく。




 二人は、座席ごと、外へと飛んで行った。




「うぁ……あぁぁぁぁあっ!」


 二人が消えていった穴を見つめたまま、俺は叫ぶことしかできなかった。


 俺の周りだけ不可解な現象が起きていて、それが助かる手段なのであれば、二人に手を差し伸べたかった。


 でも、この腕は、今は二人と自分自身を助けるために塞がっている。


「……嘘、だろ……?」

「お母さんも……お兄ちゃん……お母さんは……お母さんは」

「あの二人は死んじゃいない!」


 俺は碧の言葉を遮るように大声を出し、目の前に起きて、今この目で見たはずの真実をかき消すように喚いてしまった。


「いつも俺に向かって嫌味な言葉を吐く、あの父さんが! そんな簡単に死ぬわけがないだろ! それに、まだ、まだ酒のリベンジをしてないんだぞっ!」

「お、お兄ちゃん……」

「家に帰ったら、また、いつものようにカウンターで新聞紙を片手に持ちながらコーヒーを飲んでるんだ! 文句を言う俺にこれが父親の理想像だって! そう言ってくれるんだ!」


 いつの間にか、俺の言葉は明らかに父さんが死んでいると知った上での喚きに変わっていた。

 その自分の言葉に、俺はすでに自分で認めてしまっていることに気づき我にかえる。

 碧が不安そうに俺を見つめていることに気づいた。


「……碧、直。絶対に助けてやるからな……絶対に!」


 なぜか涙が出なかった。碧に無様な自分を見せたくなかっただけかもしれないし、こんなときだけ、こんなときだからこそ、頼れるお兄ちゃんを演じたかったのかもしれない。


「でも……お兄ちゃん……この空の上じゃあ……助から――」


 碧の言葉は悲痛だった。ただ、今にも泣きそうなそんな悲痛な声は、もぞっと動いた何かで一度止まる。

 直が身じろぎをした。ただそれだけだった。

 直はこんな状況でも変わらず寝続けている。


「何でこんなときに眠れるんだよ……」


 直の可愛い寝顔を見ると、今起こっていることも忘れ、脱力してしまう。

 不謹慎だが、思わず笑みが溢れた。


「……お兄ちゃん、もしボクたちが生き残れたら――」

「――デート、しような?」

「えっ?」

「約束だぞ?」

「………うん!」


 笑顔を見せる碧の目から、涙が飛び散り、次の瞬間には、俺の目に碧の閉じた瞼が映った。

 一瞬の間の後、柔らかい感触が俺の唇に当たっていることに気づく。

 その感触が離れていくと、碧がゆっくりと目を開けた。


 碧は俺の顔をじっと見つめると、頬を赤らめながらも嬉しそうにいつもと変わらない笑みを浮かべた。


「碧……?」


 何をされたのか、一瞬わからなかった。

 ただ、それは今まで俺が望んでいたことでもあったことにすぐに気づいた。


「先払い」

「え……?」

「お兄ちゃん、あのね」


 碧が決心したかのように、俺を見つめ、次の言葉を発しようした。


 いや、ダメだ。ここで碧から言わすのはおかしい。


 抱きしめていた碧をさらに、このまま自分と一体になってしまえばいいと思うほど抱き寄せた。少し苦しそうに「あっ」と声を上げる碧の額にお返しにキスをする。


「碧……好きだ。大好きだ」


 驚く碧が愛らしかった。

 こんな状況でなければもっと抱きしめていたい。


「……おにい――」





 ――ぷちっと、音がした。





 何が起きたのか、わからなかった。

 その瞬間から、俺の耳は周りの轟音を捉えなくなる。


 ただ、俺から碧が少しずつ俺から離れていっていることだけはわかった。

 引き寄せようと、右腕を必死に碧に向けるが右腕は俺の意思に反して動いてくれない。


 なぜなら、その右腕は、碧の真後ろに。

 碧から少し離れた先にあった。


 宙に浮く右腕。


 その右腕のちょうど付け根と思われる部分の近くに、同じように浮かぶ大きな鋭利な破片があった。あれは飛行機の中のどこかの部品なのであろう。


 右腕が宙に浮いているということは、直を握りしめていた右手もそこに浮いていることになる。


 右手はゆっくりと直を手放していき――


 待て……待て待てマテマテ!


 少しずつ離れていく碧が、俺の目線にすぐに気づいた。

 すかさず、俺に背中を向け、直へ。暗闇の穴へ向かって走っていく。


 吹き荒れる風も相まって、動きは素早い。

 すぐに直に追いつき胸の中で抱きしめることに成功した。





 ただ、そこは、すでに飛行機の外だった。





 碧がくるっと、振り返る。胸にはいまだ寝続けている直が抱きしめられていた。



 音が、耳に、届く。



 ヒュオッっと何かが吸い込まれるような音が鳴った。それがなにかはわからない。


 赤い何かが碧に向かってきていることだけはわかった。

 辺りを、際立てて赤く染める、真っ赤な炎だと言うことにすぐに気づいた。



 碧の唇が動いた気がした。

 碧は、少し涙が溜まった、いつもと変わらない笑顔を見せ――






 じゅっ







 笑顔のまま、炎の中へと飲み込まれていく。




 黒い。黒い碧と思わしき影を炎の中に残し、やがてそれは赤の中に溶け込んで消えていく。

 通り過ぎたかのように炎がなくなった後には、元の暗闇しか残っていなかった。












 今、何が起きた?





 俺は、何も理解ができない、いや理解はしているが理解をしたくない。



 そんな状況のまま。分からないまま。




 俺を乗せた飛行機は、墜落した。








 もう、どうでもいい。……早く、碧のところへ行ってやらないと。


 あいつ、あっちでおろおろと迷っていそうだから……。


 俺は目をつぶる。


 父さん、義母さん……。

 俺……二人との約束守れなかった。



 ……ごめん。










 










 ぱちっと目が覚めた。

 目を覚ました俺の目の前に広がるのは、いつもの見慣れた俺の部屋の天井だった。

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