さいわいなことり

コオロギ

さいわいなことり

 空を飛びたいときみは言った。

 きみのように小さくて弱いいきものは、すぐに捕まってころされてしまうよと、ぼくはきみに何度目かの注意をした。きみは少し考えるように黙ったあと、それでもかまわないからここから出してほしいとぼくに頼んだ。

 ぼくは不思議でならなかった。きみのかごは、この家で一番あたたかな日の溜まる、一番すずしい風の通る、一番ここちのよい窓辺に置かれている。ここより居心地のよいところなんて、どこをさがしてもないというのに。

 ぼくがそう言うと、きみはうなずいて同意してくれた。そして、ここから見える外の景色が、それはうつくしいのだと言った。見ているだけではなくて、ふれてみたいのだと言った。

 やめておいたほうがいいとぼくは忠告した。たしかに、ここから見る空は、木は、花は、虫は、動物は、うつくしいかもしれない。けれどそれは、ここから見ているからうつくしいのだ。ここから出て、直にふれてしまえば、きっともう、それはうつくしくなくなるだろう。

 それなら、それがうつくしくないことを知りたいと、きみはまだ一度も使ったことのないはねをはばたかせた。

 ぼくは窓の外を見た。

 木は大きな毒のある果実をみのらせ、その下の茂みには今にも飛びかからんとするけもの、果てに見える空は、これからあらしがくるのを告げていた。

 きみはもう一度、空を飛びたいと声を上げた。丸いかごのなかのきみは、小さなつやつやな目でぼくを見上げていた。

 ぼくはゆっくりまばたきをして、それから窓を開けた。きみをそっとぼくの両のてのひらにのせ、風の吹くほうへかかげた。

 きみのしろいはねはよごれ、抜け落ち、使いものにならなくなるだろう。そして、きみは自身のあしで歩かなくてはならなくなる。自身の手でいきものを捕え、ころさなくてはならなくなる。

 きみは、きみがさいわいなことりであったことをあっという間に忘れてしまうだろう。

 両の目いっぱいに、外の景色を映したきみは、はねをふわりと広げ、ぼくの手から飛び立つ。

 さようなら、ぼくのことり。

 きみといういきものに、どうか、さいわいを。

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