『親分』からの依頼 その1

『親分』が、俺の事務所にやってきたのは、九月ももう半ば過ぎの、ある土曜日の午後の事だった。

 渋好みのグレーのジャケット、白のカッターシャツにノーネクタイに同色のズボン。背はそれほど高くなく、痩せていて、穏やかなまなざし。年齢は恐らく70を超しているだろう。

(どこかで見た顔だ)

 とは思ったが、名刺を出されるまで、彼が何者か気づかなかった。

 差し出された名刺を見て、

『ああ・・・・』と思った。

彼は・・・・いや、名前を言うのはよしとこう。

 本人の名誉のためもあるからな。

 彼、いや『親分』は、名前を出せば日本国民ならば誰でも知ってるという、

『そちらの世界』では高名な組織の、実質上の創設者である。

 元は先代が、終戦直後に立ち上げた愚連隊組織だった。

 その頃はせいぜい新宿一帯を勢力下に収める程度だったのだが、昭和三十年代に『親分』が加わり、みるみる頭角を現すと、対立する連中との抗争に明け暮れ、その結果次から次へと拡大し、今ではもう日本中にその名を轟かす存在になってしまった。

『初めに申し上げておきますが、我々私立探偵には「私立探偵業法」というもんがありましてね』

 俺は、『親分の顔をまっすぐに見据えて言った。

 勿論、怖くなかったわけじゃない。

 しかし、ここでびびっていては俺の仕事は務まらない。

 見栄だろうとなんだろうと、とにかく呑まれずにいることが大切なのだ。

『分かっとるよ。分かっとるとも』

『親分』は懐に手を突っ込んだ。

 まさか、と身構えたが、出てきたのは大きな奉書で、達筆な筆文字で黒々と

『引退届』と書かれた書状だった。

『・・・・わしのような世界におった者の依頼は受けられんというだろう?しかしわしはもう組とは一切関係がない。顧問や相談役にもなっとらん。きっぱり足を洗った・・・・これがその証拠だ』

『親分』は、その書状を指で示しながら言った。

『同じものを三通書いた。全部手書きだ。一通は組に、一通は桜田門に、そして残りの一通はここにある』

『拝見します』

俺は黙って書状を取ると、中を開けてみた。

まさしく時代劇よろしく、几帳面な文字が長い奉書紙に書き連ねられている。

要するに『自分はもう一切そちらの世界とは足を洗い、関係を断った。今後一切関わりを持たないことを約束する』とし、末尾に自分の名前と、ご丁寧に血判まで捺してある。

『今わしは運送会社を経営している。勿論組織とは全く関係ない。』

 確かに、別に出した彼の名刺にはその会社の名前が書かれ、肩書として、

『取締役社長』とあった。

 それほど大きくはないが、そこそこ儲かっている会社だった。

『怖い世界』については特に詳しいわけじゃないが、仮にも『親分』と言われた人間がここまでするんだ。決してウソはないだろう。

『いいでしょう。では依頼内容を伺いましょうか?』

『親分』はそこで少し押し黙り、授業中に女教師に指された悪ガキがあたふたするように、体をもじもじさせた。

『実は、な、こいつを見てくれ。』

『親分』は、もう一度背広の内ポケットに手を入れ、一枚の写真を取り出した。



 




 

 

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