襲撃者
近所の野良猫が、最近よく家の敷地に現れる。それも子猫だ。敷地内のぼろいプレハブ小屋の周りでよく見かける。どうやら子猫は全部で4匹らしく、親猫と合わせて全部で5匹。子猫のみーみーという甲高い鳴き声と、あやしているのか叱っているのか親猫の、子猫と比べると野太い鳴き声がよく聞こえるのが日常になった。
親猫は黒猫。子猫も黒猫が二匹とトラ柄と白が一匹ずつ。親猫と柄が似ても似つかないのが混じっていることを不思議に思っていたが、そういうものらしかった。思えば全部が同じ柄の親子を見たことのほうが少ないかもしれない。
猫たちはいつも家の敷地にいるわけではないが、どうやら寝場所の一つにされているのか夜になるとよく声が聞こえる。家の裏手が山になっているような寂れた住宅街なため、人の営みよりも自然の音が聞こえるような場所だ。猫の鳴き声だって水仕事かイヤホンでもしてないと必ずと言っていいほど聞こえてくる。特にクーラーをつけずとも、窓を開けるだけで涼を感じられるようになった初秋のこの頃では。
その日もいつも通り、網戸の向こうから子猫の鳴き声が聞こえていた。どうやら親猫は傍にいないようで、その声はどこか心細い心情を訴えているように聞こえた。
時刻は既に深夜で、日付も変わっていた。
こんな時間に狩りだろうか。猫の生活サイクルなんて知らなかったので、少しばかり気になっただけで、特別疑問に思うことはなかった。
休日ということもあって、少しばかり夜更かしをしていた。猫たちの声は時折聞こえていた。相変わらず少し寂しげな感じで、何度かカーテンを少し開け、暗い庭のほうへと目をやった。明るい部屋の中からでは外の様子はほとんどわからなかったが、白い子猫だけははっきりと見えていた。
様子がおかしいことに気づいたのは、もうすぐ1時になろうかという頃だった。そろそろ床に就こうかと、それまでしていたイヤホンを外したところ、何やら庭のほうが騒がしい。猫ではない何かの動物が吠えているようだった。はじめはどこかの家の飼い犬でも吠えているのかとも思ったが、なんといえばいいのか、犬らしくない鳴き声だった。ならばと思い当たるのはタヌキやキツネの類だ。それほど多くはないが、近所ではタヌキもキツネも、そしてアライグマすらも出没するのだと聞いていた。吠える声の距離感から、それはちょっとした鉄柵に囲まれているうちの敷地に入ってきているというわけではないらしく、柵の向こうから吠えているようだった。
そこでふと、子猫たちの声がしないことに気が付いた。後で知ったことだが、タヌキなんかは子猫を襲うこともあるらしい。その時も子猫たちの安否が気になり、しきりに窓の外の様子を伺っていたが、独特な鳴き声の動物どころか、あの白い子猫の姿すらも見えない。子猫のほうはきっと身を隠しているのだろう。正体のわからない動物のほうも、何かを追っかけているような風ではなく、吠え続けているだけであって直接襲っているというわけではないようだ。
気にはなったが、そのうち親猫が帰ってきて追っ払うだろうと、それ以上は様子をうかがうことをやめることにした。以前も夜中に、親猫が何かを追い立てているような音を聞いたことがあったため、今回も大丈夫だろうと。
寝る気にはなれず、一度閉じかけたパソコンに再び向かい合った。
再びインターネットに没入していると、いつの間にか吠え声も聞こえなくなっていた。
それから少し経ち、2時頃。再び外が騒がしい。例の吠える声が聞こえてきた。
それはやはり柵の向こう側からのようで、入ってきてないなら大丈夫だろうと、そう思っていた。親猫はまだ帰ってきていないようだった。
自身はどちらかというと犬派ではなく猫派ではあったのだが、無類の猫好きというわけでもなく、更には少し斜に構えて自然の摂理だの弱肉強食だのと気取るタイプであった。
そのため件の襲撃者を追い払おうとはしなかったのだが、どうしても気になってしまいその日はまだ眠れそうになかった。
気持ち強めに、『シャッ』と音が響くようにカーテンを開けて外の様子を伺うも、子猫も襲撃者も見ることは叶わなかった。
それから何度か同じようなことが続いた。
もう気になって仕方なく、寝る気も起きずにいつの間にか時刻は3時を回っていた。その時も吠え声が聞こえてきて、網戸越しに外の様子を目を凝らして見ていた。
いっそのこと子猫を匿ってしまおうか、それとも自分が外に出て襲撃者を追い払ってしまおうかとも思ってた時。
それまではやや遠くから、柵越しと思われていた吠え声が、今度は明らかに敷地内から聞こえてきた。
まずい、入ってきた、そう思う頃には今までじっと黙っていたのだろう子猫の逃げ惑うような声も聞こえてきて、咄嗟に自身も庭へと向かった。今年の猛暑も幾分和らいだとはいえいまだ半そで半ズボンの部屋着のまま、突っ掛けサンダルで外に出た。
それほど広くない我が家の庭で、猫と襲撃者の追いかけっこはいまだ続いているようだった。懐中電灯も持たずに出てきたため、頼りは月明かりと開いたカーテンから除く部屋の明かりのみ。ともかく声のするほうへ、足元に注意しながらも気持ち急いで向かうと、おそらくだが一匹の子猫がこちらのほうへ駆けてきた。
そして、襲撃者のほうもそれを追いかけてきた。
独特な、それでいて犬のようでどこか低く、しかしやけに聞き取りやすい、はっきりとした吠え声を伴って。
暗闇の中急に飛び出してきたこともあって、私は咄嗟に足を出してしまった。
蹴り上げてしまったのだ。
半ズボンだったため、露出した脛にごわごわとした毛の感触がもろに伝わり、また重いが固すぎない、生物を蹴ってしまったという実感が咄嗟のことに動揺した自分に冷や水を浴びせる。しかし冷静になるどころか、動悸の激しさが増すばかりであった。
飛び出してきた何かは悲鳴も上げずに庭のほうへと蹴飛ばされていったようで、なんとなく気配がするくらいであった。
そしてそれがゆっくりとこちらに近づいてきていることに気づいて、私はようやく我に返った。
私はそこで、激しい悪寒に身を襲われることになった。
目が慣れてきたのだろう、庭の様子はある程度把握できるようになっていた。風雨ですっかりくたびれた石畳の上を、それが歩いてきている。部屋の窓からこぼれる光も手助けをし、それの姿は次第にはっきりと見えるようになった。
それはとても醜悪な、四つん這いの何かだった。
四つん這いで、小型犬ほどの体躯ながらもでっぷりと太り、足は極端に短かった。薄汚れた木と黒茶の毛皮はぼさぼさで、長さは揃っておらず、むき出しの皮膚もところどころ見えた。
何よりも不気味なのはその顔だった。
毛におおわれず、皮膚がむき出しでところどころに水疱が見える。前に張り出した額と開閉するのかも疑わしい小さな口を持ち、耳は見当たらない。正面についた大きな二つの目は白目を持たない人間のそれのようであった。
犬でも、タヌキでもキツネでもない。
こんな生き物は見たことがなかった。
それはこれまでのように吠えることはなく、ふしゃあふしゃあと小さな口で唸るだけだった。しかしこちらを睨むその双眸には恨みの色が色濃く浮かび、それが踵を返して去っていくまで、私はその場に立ち尽くすしかできなかった。
子猫も、いつの間にかいなくなっていた。
長い夜も終え、日曜の朝。
まだ日も昇ったばかりという頃だったが、ようやく親猫が帰ってきたようだった。
親猫はしばらく庭をぐるぐると回っていた。
何かを探すかのように、何かに呼びかけるように、しきりに鳴きながら。
親猫は子猫を探していた。
親猫の傍には、いつもくっついていた子猫が一匹もいなかった。
親猫はしばらく歩き回った後、いつもの小屋の前でごろんと寝転がった。首だけはずっと辺りを見渡していた。
時折上げる鳴き声は、私の胸に刺さるほど切なげだった。
日も昇り切り、頃合いを見計らって私は病院へと向かった。
足が痛むのだ。
あの何かを蹴った右足の脛、そこがひどく腫れていた。経験はないが、骨折というわけではないと思う。
野生動物は悪いもの、毒というわけではないが病原菌なんかを持っていることがある。噛まれたわけではないが、狂犬病のような怖い病気を貰ってしまったのではないかとひどく心配になったのだ。
幸いなのかはわからないが、どうやら異常はないようだった。ただの打撲だろうとのことだった。
帰宅してからも患部を冷やしていたが、痛みは夜になっても引かず、じくじくと痛んだ。
親猫の鳴き声はずっと聞こえていた。
翌日は当然仕事で、打撲程度では休むわけにはいかなかった。歩くたびに痛むが、耐えられないというほどでもない。二日目ということもあったのか、職場につく頃には足の痛みも大分引いていた。
しかしそれも帰宅後、というより夜になってまたぶり返す。
翌日の仕事中はまた収まり、帰ると痛む、そんな日が続いた。
足の痛みと、時折聞こえる悲しげな親猫の声、その両方で私はなかなか体も気も休めることができなかった。当然満足な睡眠など得られず、寝不足によって体調は下がり基調だった。やつれ気味な私を気遣ってか休みを取ってはどうかと言われたが、その頃は家よりも職場のほうが休まるとすら思えていた。
いつしか私は家に帰りたくなくなっていた。
ひどいときは仕事終わりに駅近くの漫画喫茶等で夜を過ごすこともあった。不思議なことにそういった日は足の痛みもないのだ。そんなこともあって余計に家に帰るということが嫌になり私はとうとう引っ越すことになった。
これまで住んでいたところから職場を挟んで、ちょうど反対側になるように。新居は住宅街ではあるが、繁華街が近いこともあり以前よりは人通りも多く、夜になってもシンと静まり返るようなことはない。車の通る音、酔っ払いの声すらも聞こえる。しかしそれらはうるさく思うどころか、むしろ安心すら与えてくれた。
地域猫のようなものもおらず、せいぜいが散歩中の犬を見かける程度。
あの気味の悪い動物も、当然いない。
新居に慣れた頃には、足の腫れもいつの間にか引いていた。
ただ。
子を探す親猫の、切なげな声はしばらく頭の中に残っていた。
短編集 難点 @nanten795
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