短編集

難点

同居人


 こんな話を知っているだろうか。

 自分の家を想像して、玄関から入り、窓を全部開け、玄関に戻る。そして今度は開けた窓全てを閉め、家を出る。

 途中で誰かとすれ違いましたか?



 こういったもの。

 有名な「霊感チェック」方法だとか、「自分の家に幽霊がいるかどうかがわかる」だとか、「自分の背後霊がわかる」だとか、そんなものだ。


 前々から知ってはいた。といっても実際に試したことはなく、そういう都市伝説というか、噂というか、まああまり信じていなかったため気にも留めなかったもの。

 それが最近学校でちょっとしたブームになっていた。今更? と思うものの、周りに勧められたからとはいえちょっとやってみようとも思うあたり、私自身もそういったお年頃なのだろうと思う。


 やることは簡単だ。

 目をつむり、自分の家を想像し、玄関を開けて家の窓を全部開け、玄関に戻る。


 目を閉じてぼんやりと我が家を思い浮かべる。うちは少し大きめの、けれどやや年季の入った一般的な戸建て。二部屋しかないが二階もある。

 想像の中とはいえ、玄関扉を開ける所から始めるとイメージもしっかりしてきた。

 あまり広くない家の中を歩き回り、全ての窓を開け終えて玄関へと戻る。

 特に、誰ともすれ違うようなことはなかった。


 今度は開けた窓をすべて閉めていく。

 玄関から近い順に、廊下の窓、和室の窓、トイレの窓、洗面所の窓、風呂場の窓、リビングの吐き出し窓、台所の窓。

 階段を上る。

 二階の廊下の窓。自室の窓、両親の寝室の窓。

 これですべての窓を閉め終えた。


 閉め終えた、はず。

 おかしなことに、締め切ったはずの家の中で風が吹いた気がした。


 思わずピンと背筋が伸びる。

 意図していなかった出来事に少しの動揺が走る。イメージが崩れそうになったので、私は慌てて階段を下り始める。何をそんなに慌てているのかと薄っすらと思い浮かんだが、それも強い焦りの中に溶けていった。階段は大体家の中心付近にある。

 だだだだっと一足飛びに駆け下りて、私は急いで玄関へと向かった。

 なんてことはない、すぐそばだ。後は廊下を4、5歩歩けばいいだけ。

 目と鼻の先が玄関だ。

 もう、ここを出るだけ。


 出るだけなのに、私は再びふっとまた風が肌を撫ぜるのを感じた。玄関のすぐそばの、正面に位置する6畳ほどの和室の中。風はそこから吹いてきている。玄関に近い順に閉めていったのだ、当然和室の窓だってかなり早くに閉めた。


 だが、この風は和室から吹いている。

 組子の欄間から漏れているわけでなく、閉ざされているはずの障子から直接風がやってくる。ともすれば勘違いかと思われそうなほど弱弱しいが、それでもしっかりと立ち尽くした私を吹き抜けている。ひゅーひゅーと音を立てることもなく、どうにも生暖かく、ねっとりと肌に纏わりつくような嫌な風は床を、天井を這い、家中を嘗め回す。

 意識すればするほどそれはよく感じられ、撫でるだけだった風がいつしか途方もない圧力を持って体を包んでいた。

 異質な気配が確かにそこにはあった。


 よせばいいのに私は、和室の障子を開けてしまった。

 水の中を掻き分けているかのようなねっとりとした空気の重さは、もしかしたら手を引っ込めろという理性の抵抗だったのかもしれない。

 しかし取っ手に指をかけてしまえば、あとはするりと障子は開いた。

 半ば日用品雑貨品の物置と化している我が家の和室であるが、いつもの畳のにおいというかカビのにおいというか、そこらに積まれた開封未開封の段ボールのにおいなどはまるきり感じず、妙に弱弱しい明り取りからの日差しにごったに返した空き箱やら買いだめした日用品やらが照らされているだけだった。


 和室の中には誰もいなかった。

 拍子抜けした私はぽかんとした間抜け面を浮かべていたことだろう。

 足の踏み場もない、というほどではないが、きれいに整理されているわけでもなく、歩くたびに引っ張り伸ばされた買い物袋の持ち手部分などがカサリと揺れる。

 室内に足を踏み入れればいつしか動くのも億劫に感じるほどに強くなっていた風も鳴りを潜め、生暖かさも消えていた。

 はて、結局はただの勘違いか。そも自身のイメージに過ぎないのだったと思いながら部屋を見回していると、何やらおかしなものが目に留まった。

 地袋の上、いつもは棚代わりにそこにも物が置かれていたりするのだが、今に限ってそれらはすべて脇や畳の上に寄せられ、首の細い壺が一つ置かれていた。


 あんなもの、あっただろうか。


 いつしか現実と見紛うほど精緻に想像されていた我が家のイメージの中で、唯一見たこともないもの、異物がそこにあった。

 ここは私の居場所だとばかりに物々を押しのけ鎮座する壺を私は見たことがなかった。

 気づけば私はその壺の前に屈み込み、しげしげとそれを眺めていた。

 つるりとした青磁の壺。模様も何もないそれは言うならば花瓶の類だろうか。鶴首で、一輪挿しに使うのがよく似合いそうだ。

 ふっと、生暖かい風を再び感じる。壺の口、そこから吹き出ていることに気づいた。


 この中に、何かがあるのか。

 何があるのか。

 何がいるのか。


 無音な世界の中ではどくりどくりと心音だけがやけに耳につく。

 痛いほどに強く打つ拍動と、溢れ出る好奇心との両方を落ち着かせることはできず、私はそっと壺へと顔を近づける。


 今、そう、ちょうど壺の口を覗き込んだ瞬間、目がそれを捉える一拍前。

 私はそれを聞いてしまった。


「せまい……せまい……」


 乗り出した身は既に止めることはかなわず、その壺の中を覗いてしまった。




 ――目があった。




 びくりと跳ねるように肩が震え、それと同時に私はずっと閉じていた目を開いた。

 イメージの中でなく、現実の世界での光は痛いほどに眩く、一瞬目が眩み何がどうなっているのかがわからなくなってしまうほどだった。

 声を上げなかったのは上々だろう、「大丈夫?」と気づかわしげな声が隣から聞こえて私は再び飛び上がりそうなほどに肩を震わせた。

 そういえば、私は友人達との話の肴にちょっとした占い遊びのようなものをしていたのを思い出した。

 大丈夫、と無理に作った笑顔で答えてみるも、「めちゃくちゃビクってしてたじゃん!」などと信用は得られない。「誰かいた?」との答えにも否と答えるしかない。変に何かを見たといったところでキャーキャー黄色い声を上げられるだけだろう。今ばかりは一緒になって騒ぐような気分には、どうにもなれなかった。

 それに、本当に誰かに会ったわけではない。

 何かと、それも人ではないだろう何かと目が合っただけだ。


 いろいろと不審がられたが、頑として私も譲らず濁し続け、結局その後は他の友人が試す流れになり、「誰もいなかった」「お母さんがいた」などで盛り上がっていたようだが、私はそれを話半分で聞き流していた。

 頭を占めるのはどうしても先ほどのこと。

 壺の中の目。

 ぎょろりとしていて、異様に黒目がちだがどことなく人のような目。狭い穴からは目しか見えず、それが何だったのかは結局わからない。

 これは、私には霊感があったということなのだろうか。本当にそれだけでなのだろうか。

 それともあれが我が家に居座る幽霊なのか? 少なくとも背後霊では、決してないだろう。


 なんにせよ、家に帰るのが億劫になってしまった。



 ***



 その日の夜。

 いつもは家族の中で最後になる就寝時間も今日は私が一番早かった。一人だけ夜中に起きている度胸などさすがになかった。

 一応、帰宅後に和室の地袋を確かめてはみたもののいつもどおりに買い置きのティッシュや日用品、お歳暮か何かで貰ったらしい缶ジュースの詰まった箱などが置かれているだけで、あんな一輪挿しなど見当たらなかった。


 両親にも、うちに壺なんかあったか、と聞くべきか迷いはしたが、さすがにただの想像の産物でしかないだろうものを訪ねるのは少し恥ずかしかった。もっとも、何も言わずとも、なんでそんな難しい顔をしているのかと怪訝そうな顔をされはしたが。

 所詮は頭の中の出来事。変に気構えて想像してしまったのがよくなかっただけだろう。

「いたらどうしよう」という気持ちが変なものを作り上げてしまっただけのこと。


 それでも、気になるものは気になるのだ。

 自身は怖がりではないはずだったのだが、それは間違いだったようだ。どうにも思い込みも強いようで、あの出来事はなかなか頭から離れてくれなかった。

 早くに潜り込んだ布団の中で寝返りを繰り返し、気づけば壁掛け時計の針は1時を回っていたのが薄ぼんやりと見えた。



 いつに寝たのか。気づけば私は夢を見ていた。夢だとはっきりわかるのは、そこが異様な空間であったからだ。

 真っ暗な闇の中。広さはわからずただ回りが黒で塗りつぶされている。その中で一際目を引くのが、「せまいせまい」と野太い声でぶつぶつ呟く大きな塊の存在だった。

 暗い空間にはそれしかなかった。

 それはでっぷりとした肉の塊のようなもので、白くも黄色くも土色にも灰色にも見えた。

 道端に吐き捨てられたガムのようだ。

 ただ、その大きさが尋常ではなく、更にはあちこちに動物がおよそ等しく持つ体のパーツのようなものが散見される。

 辺りに漂うのは生暖かくねっとりとした空気で、不思議と臭いは無いはずなのに常ならば胃がむかつきそうな、不快にさせるもの。


 そいつはとても不気味で、正気であれば叫びだすか思わず戻してしまいそうなほどの醜悪さだった。しかし、叫ぶも戻すも、喉がなければそれも能わず、心臓がなければ早鐘を打つこともない。

 いやに冷静に、精々が部屋の中で小さなクモか何かと出会った時くらいの心情くらいでそれを見つめていた。



 ぶよぶよの体にいくつも不釣り合いについた突起や凹凸、その中には大きな目もあった。

 私が壺の中で見たものだ。

 それは相変わらずぎょろぎょろと気味が悪く、更に気持ち悪いことに、隣にもう片方の目が並んでいない。草食動物のように反対側についているということもなく、探せば塊の天頂付近から生えている腕のようなものの付け根についていた。

 唇のない口らしき開口部からは呪詛のように「せまい、せまい」と呟き続け、生暖かい吐息がげふげふと漏れ出ている。口を開くたびに吐息は勢いを得て暗い空間を満たしていった。

 手足や、皮と脂肪まみれのぬっとした皮膚までがまるで閉所から這い出ようとするようにもがき続け、その様を見て私はぼんやりと「蛇のように細くなればいいのに」と思ってしまった。


 すると、今まで「せまい、せまい」とぼそぼそ呟いていた口がすっと閉じられた。

 どうしたのかと眺めていると、しばらくの後ぬちゃりと唾液を引きながらそれはもう一度口を開き、「それもそうか」と気の抜けるような声で呟いた。


 私はそこで、目が覚めた。



 ***



 その日から私は連日のようにその夢を見るようになった。

 以前のあの真っ暗な空間の中で、いやに冷静にそれを見続けている。

 気味の悪い汗と嗚咽の伴った目覚めとも無縁とばかりに夢の中の私は冷静だった。

 呟くばかりだった肉と皮の塊は、まるで体を捏ね繰り回すように蠢動し、のたうつ皮膚から時折汗のように気味の悪い液体がにじみ出る。地と呼べる場所などないのにそれは不自然に溜まり、いつしか私の立つ足元までやってきていた。

 足元、というのも変かもしれない。私はその空間では立っても座っても、ましてや寝てもいない。二足で立つ感覚などなく、まるで浮いているような、いや天か覗き穴からそれを眺めているようであった。意識すれば見上げることも俯瞰することも可能であった。



 蠢いてばかりの肉塊が、とうとう形を崩し始めた頃、私は学校を休みがちになっていた。

 初めのころはベッドの傍、いや家にいることすら苦痛で学校に行ってからは何かと都合をつけてなかなか帰らなかったのだが、最近では家から出られずにいた。肉体的疲労というわけではなく精神的なもので、自力ではなぜかこの家から離れられないのだ。

 親には医者にも連れていかれた。

 見舞いに来た友人たちには見苦しいものを見せてしまった。


 日中の私はひどく錯乱しているそうだ。常に、というわけではないが寝起きから昼に掛けて理解の及ばぬものを恐れるようにぶつぶつと呟き、やたらと筒、穴を嫌がるらしい。

 壺によくにた瓶どころか、中の見えるガラスコップまでも怖がってしまう。

 冷静さを常に欠き、話す内容もいまいち要領を得ないそうだ。


 そして落ち着きを取り戻す頃にはそのことはすっかりと忘れている。


 だが、昼を過ぎた頃には安定していた精神も、夜眠る時間が近づくとまたぶり返すのだ。

 すべてを思い返せるのはあの不自然に冷静な夢の中だけだ。



 私は入院することに決まったらしい。

 そこは近所とはとても言えぬほど離れた精神病院であった。

 私はそこに、病院に行くのがとても待ち遠しい。

 できれば、いや何としてもあいつがあの壺から抜け出してしまう前に。

 あいつは私に向かってきているのだ。

 体を細くして、蛇のように腹這いで。

 先端についたぎょろりとした片目は常に私のほうを捉えて離さない。

 まだ、体の尻、いや今では尾にあたる部分はぶよぶよとした肉塊で、つっかえているのだろう。壺を抜け出すにはまだ足りない。

 だが、それももうすぐ済んでしまう。


 もし、もしもあれが壺を抜け出したなら。

 あいつはきっと、次は私の中に入り込んでくるに違いない。


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