1-5「割り込む影」
悪魔はもうすでに攻撃の意思を固めている。これ以上は自分の首を絞めるだけだ。
幽也はその事を悟り、ヤゴロシに背を向ける。
「恨むなら自分がレアティファクト持ちだってこと、それと兄弟仲を恨みなッ!!」
「何だよそれ……っ!!」
「分からなきゃ別に構いはしねー、よっ!!」
幽也の首筋に爪が迫る。
それを飛びすさってギリギリのところで回避する──が、首の皮があまりの速さで振るわれた爪が起こした風で切り裂かれる。
飛び散る血液を感じながら幽也は悪魔に背を向けて走り出す。
どくどくと血が溢れ出した傷口を左手で押さえる。やばい。まずい。しぬ。ころされる。
「ははっ、逃げろ逃げろ。活きの良い獲物であればあるほど追い甲斐がある。俺を楽しませてくれよ?」
「そう、かよ!!」
幽也は唯一の手荷物の鞄を背後に投げた。
武器になりそうなものもなし、盾にしたところであの爪である。紙のように切り裂くに違いない。
まあたしかにあの鞄の中身の半分以上は紙だが、量がある。
しかもそこそこ重い為に手放せばその分身軽になる。
故に悪魔に投げつけてしまう方が有効活用と言えよう。
悪魔は投げられた鞄を避けた。
幽也は当たったかどうかを確認しないで脇目も振らずに走る。振り返る為に減速してしまうのでは元も子もない。
そんな余裕は残されていないのだ。
「全く君のお兄さんは酷いよなぁ!? 放置していても死ぬはずの君に対して俺を差し向けるんだからな!!」
驚異的な跳躍力で悪魔が回りの建物よりも遥かに高く飛びあがり、空から降ってくる。
幽也は悪魔の方を見ずにひたすら直線的に逃げている為、一撃で仕留められる──悪魔は確信した。
その瞬間、急に幽也はUターンした。突然、何の前兆もなく、飛び上がったことすら見ていないのに、である。
足元を潜るように幽也に移動された悪魔の攻撃は途中で修正もできなかった。
空振り、誰も居ないコンクリートの地面に穴が開き亀裂が走る。
幽也は避けた直後にヤゴロシが着地をしたことで起きた爆風に煽られて一回転した。
「へぇ……今の避けるのか」
幽也は答えない。
前に進み続けても死ぬことは何となく分かっていたが、どのタイミングでどう行動すべきかは全く考え付かなかった為に、勘に賭けたのである。
無駄に思い切りが良いのは、幽也の頭の鈍さは変な感じに残っていたから。恐怖心を感じにくくなっているおかげである。
そうでなければ何の根拠も明確にはなっていない勘に従って行動することを躊躇っていたに違いない。
「じゃ、次は同じ方法で避けられないよう、にっ!!」
両手を地面に着け、姿勢を低くする。その姿はまるっきり猫である。
人の格好をしていようが動きのベースは猫なのだな、と幽也はその姿を見て呑気にもそう思った。
ヤゴロシは身体能力も猫のものと方向性が殆ど同じである。持久力よりも速度を重視した身体能力。
当然、悪魔なのでその身体能力は体の大きさを加味しても猫を凌駕しているのだが。
その足で地面を駆ける。自動車以上の速度で加速し、駆けていく。
ヤゴロシの武器は爪と牙。素早い動きで相手を翻弄、張り付き引き裂くという戦闘スタイルを取っている。しかし今は、遊びだと単調な動きで迫っていた。
だとしても。
「なっ……!?」
悪魔は喉笛に噛みつくつもりで飛び掛かった。
だと言うのに避けられるとは、微塵も思っていなかった。
遊びだとは言えども人間、それも戦闘の素人に見切れるほど甘い速度で迫ってはいない。
そんなもの、普通は避けられるはずが無いのだ。
対して幽也は、ただ倒れるように転がっただけである。
悪魔の加速度の関係上、その動きが直線的になり曲がれなくなるタイミングは必ず来る。それに合わせて避け始めれば必ず避けられるタイミングは存在する。
それを狙った動きではあるのだが、それは幽也の身体能力では殆ど一瞬ですらない刹那の事である。
そんなものを狙うのは狂気の域だと、ヤゴロシは目を剥いて驚いた。
一度も黙視せず、勘だけを頼りに回避した幽也。それは奇跡にも近い出来事だが、しかし無念。悪魔との距離が近すぎる。
幽也は立ち上がりながら振り返った。
この状況でもその目はまだ死んでいない。
「まだだ……っ!」
幽也は諦めなかった。
しかし走り出した幽也に対して立ち止まった悪魔が冷たく呟く。
「いいや、すごい。でも流石にもう終わりだよ。俺はこの距離では絶対に外さないね」
悪魔が四足で地面を蹴る。直感を信じた幽也は左に転がる。
爪は当たらない。だがしかし、
「ぐっ」
風で脇腹が浅く切られた。
駆け抜けた悪魔が幽也の前で爪に僅かに付着した血を振り払う。
「これも避けちゃうのか。つくづく、勘の良い。でもま、その分楽しめるなら悪くないかな」
幽也は急いで立ち上がろうとしてバランスを崩してしまう。膝をついた幽也に悪魔が歩み寄る。
「折角だ、契約者の元に君をいたぶる様子を録画して送ってあげるか。最近はハイテク化が進んでて実に楽しいことがやり易い」
「兄貴に……?」
「どう思うだろうねぇ? 君が死ぬ様子を見せられて。きっと大爆笑してくれるに違いないだろうねぇ。彼、君の事大嫌いみたいだし」
「らしい、ね」
皮肉げに幽也は笑った。
そして悪魔が幽也の頭を掴む。爪が頭に食い込んでも傷つかない程度の力加減を心得ているようで、潰れない程度に締め付ける。
「ぐぁぁぁぁぁぁ……!!!」
「さて、どうしようかな。取り敢えず──」
ヤゴロシが心底愉しそうな笑みを浮かべ、これからどうするか思案する。焼いても切ってもいい。どうしてくれようか。取り敢えず撮影して契約者に送りつけるのは外せないな。
悪魔の妄想が捗った。どう料理してくれようか。
だがしかし、それが実行に移されることはなかった。
「────〈
背後からの声に素早く反応した悪魔は幽也を盾にしながら振り返る。
「っ!?!?」
腕を断つつもりで突如現れた人間が盾にされた幽也を軽々と避けてヤゴロシの懐まで踏み込み、その手に持った橙色の剣を下から振り抜く。
その者の身のこなしを見るなりヤゴロシは素早く幽也から手を離して引いた。
そして、飛び下がって距離をとるとヤゴロシは己の余裕を示すように笑みを浮かべた。
「おいおい容赦ないね、お嬢さん」
「ふん」
お嬢さん──呼ばれた通り、橙色の剣を持った人間は、小柄な少女だった。
よく見ればその剣は身の丈ほどの棒から橙色の刃が生えている、杖だ。
夕陽の光のように橙色に輝く刃の生えた杖を両手で掴み、それをヤゴロシに向けている。
小柄な少女とは不釣り合いな大きさであるもののそれを容易に操るだけの能力があるのは、ヤゴロシの腕を切り裂かんと迫った一撃で既に一度見ている。
だからヤゴロシが不恰好な武器を携えた少女を見る目に油断はない。
「俺は悪魔〈
「それがどうしたの」
小柄な少女は何を言っているかわからない、という風に悪魔を見る。
対して肩を竦める悪魔は彼女に呆れるような仕草で馬鹿にするように言った。
「俺は名乗ったけど、君は名乗らないのかな? その分、不利になるけど、いいのかい?」
その言葉に漸く合点が言ったものの、悪魔に促されたことが不服なのか少女は明確に機嫌を悪くした。
悪魔は、認識されることでより大きな力を得る。
それと同様に魔術師もまた強く認識されることで、強くなる。
「……滅魔機関〈ヤシロ〉所属の魔術師〈杖〉」
両者ともに名を名乗る事で、己の有利に事が運びやすくなる、名乗らぬことで不利になる。
魔術師の名前には大抵特別な意味が備えられているからである。
彼女が〈杖〉と名乗ったことで、ヤゴロシは剣の軸になっている長い棒が杖とあたりをつける。
実際杖を軸として〈
少女は長い剣を構え直し、声高に宣言する。
「
果たして悪魔は肩を竦めて、馬鹿にした態度を崩さない。
「そうかいそうかい。それは大層なことで」
二人ともちらと幽也を見る。既に気絶しているようで、動く様子がない。
「この男にトドメを刺さないのか、って聞かないのかな?」
「だってそいつをお前は簡単には殺せないでしょ? レアティファクトの脱け殻は死なないから」
「なんだ。知ってたか。道理で無視するって思ってたよ。というか悠長に長話をしていていいのかな?」
「逃がさない、し」
少女がが剣を振るう。その剣の刃は決してヤゴロシを捉えないところで振るわれたが、その剣は杖なのだ。
剣が振るわれた瞬間に、ヤゴロシの足元に不思議な紋様の円陣が数多出現し、広がっていく。
圧倒的な光景だが、しかし悪魔は平然としていた。
「移動魔術封じ、ね。しかもその杖は特別製。魔術師名も杖の補強と来ればいかに悪魔と言えど、移動魔術は使えないわけだ。悪魔の霊体化も封じているとなれば確かに悪魔の逃走手段を封じきれたといってもいいね」
足元の紋様を眺めただけで、悪魔が看破する。
確かにこの〈ヤゴロシ〉の悪魔でなければ大抵の悪魔の足止め程度にはなるだろう、その点は悪魔も称賛した。
しかし、このヤゴロシ。その魔術は自分には効果的ではないと声高に告げる。
「でも俺は実はまだ魔術を使ってないんだよね。という訳でまたの機会に!」
言うと同時に飛び上がった。
悪魔としての単純な膂力のみで、建物の上まで跳躍。そして、〈杖〉の使った移動魔術封じの魔術の範囲外までそのまま駆けていく。
全うに斬り合うつもりだった彼女は、見事なほどの逃走に少しの間ポカンと眺めているしかなかった。
「……やられた」
遅れて苦々しい様子で呟いた。
それから〈杖〉の魔術師は肩を落として、手にもった剣を纏う杖を消した。
そのあとに、投げ捨てられて気絶している幽也を見て遂に溜め息を吐いた。
「手遅れか、でも……関係ない。悪魔は殺す……けど」
さて。この地面に伸びた男を誰が運ぶのか。
選択肢の存在しない問題に〈杖〉の魔術師は一言だけ呟く。
「はぁ、めんどくさ」
色々あって気疲れしてしまった〈杖〉の魔術師の言葉は誰もいない路地に悲しく響いた。
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