1-3「霞がかった思考で」
「──幽也、おはよう。珍しいね、こんな朝早くから」
「おはよう」
「……?」
挨拶に気付かなかった幽也は、それでも反射だけで返事をする。女子が首を傾げた。
いつもの幽也にあれば、挨拶してきた女子にまともな返事を返せなかっただろう。
挙動不審に変な事を言い出しかねない。
今日はいい天気ですね、とか。
──なお本日は曇りであるため本当にそう言うことを言っていたら一種のネタだ。
しかし幽也は思考の殆どを勉強をするポーズと夢の事に取られていた為に、平然と言葉を返したのだ。
普段とは違う反応に挨拶をした女子が幽也のことを不審に感じたのは、まあ当然の話なのである。
視線を教科書に落としながら、夢の事を考えていた幽也には挨拶してきた人が誰かなど、分かっていない。
そもそも幽也に返事をしたことすら自覚がないだろう。
挨拶すると幽也が挙動不審に返事をする。それが彼女のなかで定着していた。
幽也が普通に、平然と、なんの動揺もしないで返事をした事。それが彼女を何となく、もやっとさせた。
彼女は荷物を自分の机に置いて幽也に近づいていく。
「ゆーうや!」
ばちこん、と幽也に呼び掛けながら彼の机の両サイドを平手で叩く女子。
……少し叩いた手と腕が痛むのか手をぷらぷらさせて痛みを逃がしていた。
「うわぁ!? ビックリしたぁ……ぇっ!?」
幽也は肩を跳ねさせ、信じられないものを見たような目で女子を見て身を縮こまらせる。
彼女の名前は朝霞瑠華。幽也と同じクラスの女子生徒だ。
真面目な人、というのがクラスメイトからの評価だろうか。
この高校ではある程度スカートの丈を弄ったりだとか髪を染めたりだとかすることを校則で禁止されている。
まあ、多少進学校特有の真面目さ由来の緩さがこの高校にもある。ある程度の校則破りくらいなら黙認されてはいるのだが、なんと、瑠華は微塵も校則違反な装いをしていない。
今もまた、ロングスカートと長袖シャツに校則通りにリボンを襟に通している。
肌露出が顔以外に殆ど無いのは暑いんじゃないかと幽也は思うのだが。
服装がきれいで、きっちりしている。真面目だという評判はそう言うところからも来ている。
元々の素材が良いのだ。整った顔立ちに綺麗な黒髪。細身で、スタイルが良い。嫌われるような性格でもないだろう。
幽也は瑠華がクラスの内で嫌われているという話は聞いたことがなかった。
それどころか、むしろ人気がある。
そんな美人の顔が気が付いたら幽也の目と鼻の先にあるのだ、幽也は驚いた。当然だろ。
瑠華は、幽也の顔の距離を鼻先が接触しそうな程に近付けて、驚く幽也の顔をまじまじと見て、改めて笑顔をつくって言った。
「おはよう?」
「お……はよ……う……??」
戸惑う幽也。目線を逸らす幽也。ゆっくりと逃げるように体を反らす幽也。
朝霞さんが何でこんな近づいてきてるの!?
幽也は落ち着きを失い、じーっと幽也の目を見てくる瑠華をちらちらと幽也は目線を前に戻して確認する。
心臓がばくばくと脈打ち、今すぐ離れたいようなそうでないような葛藤に心が囚われる。ちかすぎる。
異性に対する慣れが無いから、それだけが幽也が動揺した訳ではない。当然吃驚したからでもない。したけど。
幽也はクラスの中でも瑠華の事を特別意識していた。異性として、好きなのだ。
瑠華の容姿はとりわけ優れている部類に入る。
教室で一人先に居た幽也の違和感に気付き、実際のところそれほど話さない仲だと言うのに話し掛けに行く程度の気遣いを発揮するような女子なのだ。
性格も難があるどころか、良すぎるまである。だってほら、俺に話しかけてきてくれるんですよ?(幽也談)
瑠華が話しかけてきたのは彼女自身の気遣いというよりも、幽也の他に誰もいない教室でただただ暇だったのが大きいのだろう……とは幽也は思うのだが。
しかし。瑠華も幽也も気付いていなかったが、少し幽也に対して不機嫌になっていたのも話しかけた要因の一つだった。
しかし、なにか言わないと場が保たない事くらいは分かる。だから彼は絞り出すように聞いた。
「と、ところで何か用? 無いなら、えっと、勉強をしなきゃだから」
幽也、完全に挙動不審である。いやだって好きな子が近付いてきたらこうなるでしょ。心の中の幽也はじたばた暴れた。
「用ならあるよ? ほら……これ!!」
瑠華が出したのは幽也が机の上に出したものと同じ教科書である。
その数学の教科書を幽也に見せつけるように両手で持って可愛らしく首を傾げながら、にこっと笑う。
「勉強、教えて?」
くらっと来た。むり、教えます。幽也は陥落した。何も考えないで首肯した。
ちなみに瑠華は学力もクラス内で1、2を争うレベルである。幽也はクラスの平均よりも少し上程度であるが、瑠華に教えられると言えるほど成績が良いわけではない。
つまり瑠華が会話をし続けるための方便なのだがその事実には幽也は気付かないし、何なら今は何も考えられないまである。
言葉が出てこない。笑顔は卑怯だと思いました。
それから瑠華はわざわざ自分の机を持ってきて幽也の机にくっ付けた。
あっ、とか、えっと、とか挙動不審な幽也が言っている内に。手際が良かった。
べ、別にコミュニケーション能力に難があるわけではないんだからねっ!! と心の中の幽也は荒ぶった。決して表には出さないが。
「で、幽也。なにかあったの? 様子が変なのはいつもの事だけど、今日は特におかしかったよ?」
いつも変だと思ってるんだ……。
結構ショックだった。
「……べっ、」
「べー?」
動揺が声に出た。上擦った。瑠華が幽也が挙動不審な様を、口許をもにゃもにゃさせて見ていた。
ふざけているようで目は真剣だった。なんとか幽也は一度深呼吸をして呟いた。
「別に、何もないよ」
「いやいや、それは無いよ? 絶対何かあったって、心ここに非ずって感じだよ?」
「絶対って……そんな?」
人の言う絶対の軽さは異常、兄貴が絶対返すって言ったものは、八割方帰ってこなかったし。
余計なことを考えた幽也。会話の流れから考えて無関係である。
それはそれとして、そんな事を言われる程度には変だったのだろう。
幽也は少し自分の行動を省みた。
……あ、うん。変です。
「うん」
瑠華は迷う様子もなく頷いた。瑠華からすれば疑うまでもなく、幽也が普段通りじゃなかったのだ。
瑠華は、いっそう前のめりに幽也に顔を寄せて何度目かの質問を口にする。
「何かあったの?」
幽也は話すかどうか迷った。
話してもいいかもしれない、話のタネ位にはなるし、という考えが浮かんで、しかし話してもしょうがない事ではある。
瑠華とはそこまで交流があるわけでもない。それなのに夢で見た話をしても……、と考えて。
結局幽也は話すことにした。そんな事気遣った所で会話は切れるのだ。話のタネになるなら使うべきだ。
「……変に早起きしちゃってさ、なんか変な夢を見たんだけど。それでこんな早く登校しちゃったわけなんだけど、その夢がさ、特別変で、結構ショックを受けたと言うか……多分変だっていうのはそう言うことだと思うんだけど」
幽也は事情を説明するべく口を開く。
考えたことをそのままにしゃべったせいで分かりづらくなっちゃったな、と幽也は口を閉じてから後悔した。
(あー朝霞さん困っちゃってるよ)
と幽也はちらりと顔を見て行動が失敗だったのだろう事を悟った。
「……で、どういう夢だったの?」
しかし、瑠華は少し噛み砕いてから聞いてきた。
彼女自身には変な夢を引き摺る経験は無くはない。けれど、それだけでぼーっとし始めるような事はないよね、と判断した。
というか夢の内容に触れてないじゃん、と瑠華は思い至ってちょっと困った。
だから瑠華は聞いた。真剣に聞いてくれる瑠華の様子をチラチラ見ながら幽也は簡潔な答えを口にした。
「死ぬ夢」
簡潔すぎた。突然の重い答えに、少し困惑した様子の瑠華だが、なんとか呟くように言葉を返してくれる。
「それはまた……重たい夢だね」
「うん。まあ、殺されたからね。俺が」
「……それでそんなにぼーっとしてたの?」
「そうだね。そうみたい」
幽也は、兄の事を結構慕っていた。その兄に願われて殺された事実は、夢とは言え、思い出せばかなり苦しくなる。
何か悪いことをしたのかなぁと、重く考えてしまう。
何かをしていない時。している時も。目の前に瑠華が居ても。どうしてもその考えが幽也の中をぐるぐると回っている。
幽也の苦しそうな顔で、その夢が決して軽くないことが瑠華に伝わった。
「へー。そんな酷かったの?」
「うん。まあ……」
歯切れの悪い幽也の言葉。やっぱり夢の内容が本当に酷かったのだ、と瑠華は顔を暗くする。
凄い痛みを与えられて殺されたのかなとかそう推察する瑠華だった。その通りである。
幽也は夜の林マジで怖かったなと思考を無理矢理に逸らしていないとどうにかなってしまいそうだった。
その程度にはあの夢の出来事は恐ろしかった。
「夢とは思えないくらい、リアリティあって怖かった」
「夢だったとしても怖いよね」
「うん」
会話はそれきりだった。
もやもやが薄れた瑠華が完全に勉強に没頭し始めたからだ。
幽也は、視界を瑠華に奪われ思考を夢の出来事に奪われて勉強が頭に入るような精神状態ではなかった。
しかし、瑠華の目の前だからと形だけでもそういう姿勢を取っていた。
もとより瑠華が近付いてきたのは勉強という方便だったのだ。ついでのように幽也の状態が変な原因を聞き出した瑠華は満足して勉強をし始めるのは当然の話だった。
幽也はもうこれ以上話してくれなさそうだと考え、瑠華は幽也の目の前から動かないで陣取ったまま勉強を始めたせいで勉強に集中できない幽也は結局視線を方々にさまよわせて落ち着きがなくなっていた。
「……ふふっ」
瑠華が笑ったような気がして、幽也は顔を上げた。
しかし瑠華は教科書に目を落として問題を解いていただけだった。
気のせいだ、そう断じて幽也は瑠華と同じように教科書の問題を読もうとした。
──それから暫く問題を解こうと四苦八苦した幽也は、それでも結局簡単な問題を三問程度しか解けなかった。
朝はそうでもなかったが昼になるにつれ、幽也は睡魔に負けた。早起きしたのが響いているんだろうな、と楽観していたのはその居眠りでは悪い夢所か夢すら見なかったからだ。
深い眠りでは夢を見ないらしい。どこかで幽也は聞いた気がするが、そう言うことだろうか。
とにかく、まあ。夢を見なかったこと。それは正直、助かったと幽也は感じた。
気付けば放課後。早かったな、と幽也は大あくびしながら伸びをした。既に半数以上の生徒が教室から離れた中、幽也は教室に残っていた。
なんだか、頭がぼんやりする。居眠りしたせいかな、なんて幽也は荷物をまとめて教室から出ていく。
「霧川幽也君。で、良いかな?」
「え、はい。そうです」
──だからそう、校舎を出て突然知らない男性に声を掛けられたところで無警戒に返事をしていた。
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