1-24「万夜対悪魔ヤゴロシ①」

 ──万夜は背中からの衝撃を受けるまで全く察知できなかった。体を突き抜けるような衝撃に踏ん張り、転倒を耐える。


 反射的にメイスを引き抜いて振り返るが、不思議なことに背中を貫こうとした衝撃は一瞬で消え去った。


 その衝撃のあった位置が丁度上司が貼った札の辺りだと思い至ると同時、万夜の後ろからどさりと何か柔らかい物が床に落ちる音がした。


 黒猫だ。


 黒猫が力なく地面に落ちたのだ。背中を貫こうとした攻撃はこの猫がやったのだろう。


 まさか札が効いたのか。


 万夜の背を打った猫が落ちる様を興味深く眺めたヤゴロシは両手を叩く。


 部屋の中から黒猫が二匹、敵意の叫びを上げながら万夜へと飛びかかった。


 万夜はメイスをヤゴロシの頭に投げつけると一歩前に出て二刀を抜き放つ。


 右手の〈風〉の刀と左手の〈雷〉の刀を一振りし、黒猫の頭を斬り裂く。小動物を殺すことに彼女が今更罪悪感を感じることはなく、躊躇うことなど一瞬もなかった。


 この黒猫はヤゴロシの魔術だろう。


 斥候としての黒猫。爪には毒、牙にも毒。そして血飛沫も毒の黒猫。


 見た目が猫というだけで躊躇おうものなら死が待っている。


 ──初手の奇襲が成功していたなら、それだけで万夜は少なくとも一度死んでいたはずだった。


 万夜の命を一回分救った札はコートの間からはらり零れ落ちていったが、十分に役目を果たしたのだ。万夜は上司に感謝しつつ戦闘に全神経を向けた。


 黒猫は絶命すると黒い霧となり広がる。万夜は右手の刀の鍔に付いている〈風〉のレアティファクトに親指を触れた。


 風が吹き荒れる。


 レアティファクトの力だ。刀を起点に風を生むことで、霧を背後へと受け流してその被害を避けたのである。


「ほう」


 ヤゴロシは投げつけられたメイスを右手一本で受け止めていた。それを投げ返し、万夜を観察するように凝視する。


〈杖〉が無いことで万夜は魔術を使えないはず。それをどう補っているのか──それは武器だろうとヤゴロシは目星をつける。


 今見せたメイスや刀の他にもコートの内側にかなりの装備があるだろう。


 透視できるわけではないヤゴロシには全貌を見ることはできないが推察はできる。


 元々小柄な上に、体格より幾らかサイズの大きいコートは足の半ばまで隠している。


 これでは動きにくいだろう。ヤゴロシはそう思ったのだが、違った。


 猫を切り裂く動きに鈍さを感じられなかった。投げられたメイスの持ち手を的確にキャッチした動きにコートに邪魔されている様子も、ない。


 つまりはコートでも動きやすいように何らかの細工をしている。装備や足運びなどを隠しつつ身の軽さも実現するとは厄介だ。


 ヤゴロシはそう思い、自然と口角が吊り上がる。


 万夜は〈雷〉の刀を納刀しつつメイスを仕舞い込むと、左手をコートの中の杭を一本抜き取って投げつける。


 物陰から現れた黒猫の口腔に杭が突き刺さると同時に黒猫は爆発四散する。


 僅かに杭の爆発で生まれた白煙が猫の死でぶちまけられた黒い霧を吹き飛ばすが、死の霧が消え去るには足りなかった。


 万夜は腰の高さに構えた〈風〉の刀と共に突っ込む。


 元より広くないアパートの一室だ。玄関の万夜からは窓際にいたヤゴロシとの距離はそう遠くない。


「風」


 〈風〉のレアティファクトが万夜の呟きに呼応して、その力を顕現する。


 刀を起点に風が渦巻き唸りを上げて霧を押し退ける。


 風は目には見えない上に切れ味と間合いが刀よりも鋭く広い。おまけに一振りで終わりと言うことはない。数多の傷を〈風〉は生み出すのだ。


 ヤゴロシは目を細め万夜の更に後ろを覗き込んだ。


「舐めないで」


 ヤゴロシの簡単な視線誘導には引っ掛からなかった。少し不機嫌が増した万夜は〈風〉を背中からも吹き荒れさせ、加速する。


 万夜の背中を狙って飛び掛かって来ていた黒猫は〈風〉の余波で切り裂かれて吹き飛び絶命する。


 辺りに撒き散らされた〈風〉の余波が更に黒猫の撒き散らす霧を晴らしながら壁や床に傷を走らせていく。


 ヤゴロシの力で天井が砕け落ちた。しかし、瓦礫は万夜の背後を通り抜ける。誘導に引っ掛けられて減速していたら当たっていただろう。


 万夜は左足の投擲用ナイフを2本指に挟み込み、その手を振り上げて投げつける。


 狙いは目だ。


 人間より強靭な肉体の悪魔と言えど目や口の中など、弱点は存在する。


 なんの細工もしていない金属武器ではその体の大部分には弾かれてしまうだろうが、どんなに強い生き物だろうが眼球の固さは変わらない。貫ける。


 だがしかし、そんなことは悪魔とて分かっている。


 みえみえのナイフの投擲など弾くならただ腕を振るだけで良い。腕が巻き起こした風だけで投げられたナイフは有らぬ方向へと吹き飛んでいく。


 触れてすらいないのだ。ヤゴロシには傷1つ付くことはない。


 呆れたようにヤゴロシは呟いた。



 ヤゴロシは魔術の呪文を遂に口に出した。


 今まで行ってきた即興のものとは異質な詠唱に、万夜はどういう物かと思考を巡らせた。


 考えた。そして、どうでも良いと思った。突貫する。


「〈家傷報復いたみがえし〉」


「ぐ……っ」


 万夜の体の至るところを切り裂かれる。コートを無視して傷がつく。魔術の効果だ。


 万夜が受けた傷は、万夜が家の壁や床に刻んだ傷だ。等しく、傷を与える。


 そして〈家傷報復〉は長い間持続するのだ。家の傷は相手の傷と同じ。


 範囲の大きな攻撃や、家を壊すほどの威力の余る攻撃ははただこれ1つで封殺できるのだ。


 何せ家を破壊すれば、死ぬのだから。


「……チッ」


 家の傷みを他人に渡す魔術だったことを理解して万夜は舌打ちした。


 この魔術の影響を嫌って万夜が無闇に強い風を生ませないことがヤゴロシの狙いだった。


 この魔術は確かにとても厄介だ。万夜は思った。普通なら手が緩むような嫌らしい魔術。辟易した。


 しかし万夜は止まらない。


 どうせレアティファクトを奪われた身だ。放っておけば治る。


 開き直って突撃した。


 緩むことない動きの万夜がヤゴロシに飛び掛かる。


 風を刀に収斂させて、振り上げる。


 ヤゴロシは軽やかに回避する。結果、風が天井に大きな傷を生む。


 額から眉間を通って頬に大きな裂傷を負った万夜は、額の痛みに意識を揺らした。咄嗟にヤゴロシから距離を取る。


「この家に傷を付けることは許されない、といったつもりなのだが?」


 ヤゴロシは若干ひきつった表情で言ってのけた。まさかこの女は察しの悪いわけではないだろう、と。


 万夜が家に傷つけることを厭わずに斬りかかってきたことがヤゴロシにとって表情に出るほど衝撃的だった。


「血が、邪魔」


 万夜は左目に垂れてきた血を拭い、コートから片眼鏡を取り出した。右目用の片眼鏡を装備し〈雷〉の刀を抜刀する。


 帯電し、バチバチと稲光を放つ刀を見てヤゴロシは怪訝な目で万夜を見る。


「い、良いのかな? 家に傷をつけようものなら」


「知ったことじゃない」


 正気か? とヤゴロシが思ったときには万夜は再度の接近を果たしていた。


 動揺の隙を突いた万夜はその刀の間合いにヤゴロシを捉えた。


 そして万夜は刀の切っ先をヤゴロシの鳩尾へと突き込んだ。


「〈雷〉、吹き飛ばせ」


 ──轟。


 刀から真っ直ぐ紛う事なき雷が生まれ、部屋の中が白光に包まれる。


 窓や壁を構わず焦がし弾け、部屋が大きく揺れるほどの雷の直撃に、ヤゴロシは壁まで吹き飛ばされる。


 ──雷光が収まる。


 万夜の視界が晴れる。そこにはかなりのダメージを負った様子のヤゴロシが膝をついているのが映った。


 荒い息だ。焦げた毛がボロボロと崩れていて見た目は痛々しい。


 だが、ヤゴロシを仕留められるほどにはダメージ与えられていない。


「がぁ……くそ、痛み返しが有ると言うに……正気か?」


「至って正気」


 万夜は平気な顔をして立っていた。


 身体中を雷が蹂躙していたことを察させないほどに平然とした佇まいにヤゴロシは戦慄した。


 万夜についていた傷の悉くが消失していた。それは一度死んだ事で完全回復しただけなのだが、万夜の平然とした様子で動揺したヤゴロシはその事に気付けなかった。


 万夜は無表情を崩さなかったが、内心歯噛みしていた。


 自ら死ぬほどのダメージを覚悟した攻撃など、何度も使える手ではない。


 レアティファクトを失った万夜は死なない。


 だが、死ぬほどのダメージからの復活は消滅への時間を相応に削る。死ねば死ぬほどに消滅の危機が大きく近づく。


 万夜がヤゴロシを倒す前に消える事態は避けなくてはならないのだ。


 長時間傷み返しの魔術が在り続けるのは不味い。ヤゴロシを家から叩き出さないと不利な状況が続くのだ。


 それに、思い切り音を立てたり破壊したらなにも知らない一般人が集まってきてしまう。だから幽也宅同じところに留まり続けるのは愚策。


 万夜は早めに移動をするべきだと判断して、赤熱して刃物としては使い物にならないだろう〈雷〉の刀を鞘に戻し、代わりに〈風〉を抜刀した。


「〈天井崩落らくばん〉」


 天井が盛り上がるように歪に脈動する。先程ヤゴロシが起こした小さな落石とは威力がが違うのが見てとれた。


 天井の崩落を魔術で起こすつもりなのだということを万夜は即座に理解した。最も隆起している天井の真下を避けるように走る。


 しかし、術名まで付いている魔術は伊達ではない。


 仕込みは一瞬だった。


 ヤゴロシはもういつでも天井を落とせる状態だ。迂闊な動きはできない。


「これだけじゃないぞ」


 猫の鳴き声が部屋中に響いた。


 天井崩落の方が猫よりも危険だと判断した万夜は視線をその声に目を向けずに天井を見る。


 だが、猫も脅威には違いない。音を聞き逃さないように集中する。


 鳴き声の数は4つ。


 音を頼りに万夜はコートから2本ナイフを引き抜くと、背後の猫に優先して2ヶ所にナイフを1本ずつ投げつける。


 その隙を狙って2匹の猫が駆けた。


「〈風〉っ!!」


 壁や床を巻き込む風刃が2匹の猫を切り裂く。壁や床を巻き込む風刃。それらの傷と同じ数だけの傷を万夜は負った。


 覚悟のうちだ。


 その傷を代償にヤゴロシに対して攻撃する余裕を生まれた万夜は意識を前へと切り替えた。


 ──にゃあぁ?


 その意識の切り替えを狙い済ましたかのように耳元に猫の鳴き声が響く。


「っぁ!!?」


 万夜の首筋に、右から忍び寄ってきていた猫が噛み付いた。即座に手甲の鉤爪で引き裂いて投げ飛ばす。


 同時に天井から大岩が降ってきたのを、壁まで一息に吹っ飛ぶように転がって避ける。


「は」


 今の一噛みで右目から右肩まで、動きづらくなった。万夜は痺れて動きにくい右手から〈風〉の刀を左手で奪い取る。そして、その刃を首筋に当てた。


「〈風〉押し流して」


 斬り付ける。すると傷口から夥しい量の出血と同時に黒い霧が溢れ出る。


 猫の毒霧を〈風〉の力で叩き出したのだ。死ぬと毒霧に変化する猫の毒は霧状の魔術である可能性に万夜は賭けたのだ。


 霧であれば霧を含んでない風で吹き飛ばせる。


 もしそうじゃなかったら毒の混じった血を全て風で強引に押し出して排出、なんて荒業をしただろう。だが万夜はこうして無事毒を体外に排した。無意味な予測だった。


 しかし、それだけの隙を晒した万夜をヤゴロシは見逃すわけがない。


 もう一度天井が崩落する。万夜は咄嗟に刀を捨て左手に杭を掴み取り、右手を背中に回して取ったメイスで上半身を反らして杭を思い切り打った。


「爆ぜろ」


 落ちてきた天井を模した岩盤に杭が見事に突き刺さり爆発する。


 杭が刺さったことで生まれたヒビのお陰で真下の万夜への被害は掠り傷程度。殆ど無い。


 その代わり部屋中にその瓦礫が撒き散らされた。


「危、ないな」


 ヤゴロシは、小さく呟いた。


 飛び散った瓦礫はヤゴロシの方向へと飛ぶものが多いのは、万夜がそうなるように杭を打つ場所を狙ったからである。


 万夜はすぐさまメイスを捨てて〈風〉の刀を拾い上げる。そしてコートの内の3本のナイフをヤゴロシへと投擲しながらメイスを拾い上げた。


 ヤゴロシは飛来する瓦礫を砕き投げられたナイフを腕を振るって弾き飛ばす。


 しかし──ぶしゅり、と嫌な音がヤゴロシの頭から響き渡り、左の視界が潰れる。


 ナイフは全て弾いたつもりのヤゴロシだったが、実は3本の内2本だけしか弾けていなかったのだ。


 さすがのヤゴロシも、見えづらいように黒塗りにされ瓦礫に混じって投擲されたナイフを咄嗟に見切ることはできなかったのである。


「痛っっっっっでぇ!!!!」


 ヤゴロシは左目に刺さったナイフを引き抜く。完全に左の視界を潰されたヤゴロシは怒りのままに咆哮する。


 悪魔の力が乗った叫び声に部屋が震える。


 残った右目で、万夜を探す。万夜はいない。どこだ。


 ヤゴロシはナイフを引き抜く段階で万夜を見失っていた。ヤゴロシは左右を見渡しても万夜の姿は見つけられない。


「何処だァァ!!?」


「──こっちよ」


 ヤゴロシの真上から万夜の声がした。その声に反応しヤゴロシは見上げた。


 ヤゴロシの視界を足が覆い尽くしていた。


 踵落としだ。万夜はヤゴロシの眉間へと渾身の一撃を叩き落とした。


 金属を仕込んだ靴で思い切り蹴りを放てば人間相手ならばかなりの怪我を負わせられるだろう。


 悪魔と言えど万夜の全体重を乗せた踵落としを顔面に食らえば一時意識が混濁するだろう。


「やぁっ!!!」


 気合いを入れるように万夜は叫んだ。踵落としだけじゃ、たりない。


 一瞬体から力が抜け、後ろへ倒れようとしたヤゴロシの顎を靴底で鋭く蹴り上げる。続けて胸に思い切り回し蹴りを放つ。


 軽々とヤゴロシが窓際まで吹き飛んだ。その衝撃で我に返った様子だが遅い。万夜はその顔面に靴底を押し付けるようにまた蹴った。


 そして、靴に仕込まれた物は金属板だけではない。以前万夜が地下から脱出するのに利用した爆発する金属札が、靴底に仕込まれているのだ。


 万夜はもう一度ヤゴロシを踏みつけると同時に呟いた。


「派手に、吹っ飛べ」


 そして、万夜の靴が爆散。


 ヤゴロシは爆発を間近で受けて部屋の外へと吹き飛ばされていった。







「──あ、れ」


 立てない。万夜は立ち上がろうとして転ぶ。


 間抜けなことに片足が爆破で吹き飛んだことを忘れていた。靴が爆発すれば当然として足も無事では済まないのだ。


 足が吹き飛んだ。万夜の足の痛覚が痛みを訴えてきたのは転んで先の無くなった足を見てからもかなり遅れたタイミングだった。


「…………まぁ、痛い」


 痛みに、少しだけ万夜の表情が揺らぐ。


 苦笑だった。


 這いずるように玄関まで辿り着く頃には足が元に戻っている。


 レアティファクトを喪失したファクターは消滅までは出来るだけ元の形に戻ろうとする性質がある。


 その性質が消滅までの時間を犠牲にして足を元に戻したのだ。


 玄関には持ち込んでいた手提げ袋がある。その中身は靴だった。


 万夜は、元より靴が吹っ飛ぶことを作戦に織り込んでいたのだ。でなければこんな手段は使わない。


 靴の替えがあれば使うことは迷わない。それほど爆発の威力は高かった。威力は悪魔に対してでは、接触前提なので使い勝手は、まあ仕方ない。


「さて」


 靴を履いた万夜は駆け出して、ヤゴロシを追うように爆発で壁に空いた大穴から窓の外へと飛び出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る