1-20「相棒」
『──てな訳でぇ。宗一? 幽也君はぁ、一人で待ってるんだってぇ。六時にぃ、あの日の小屋でぇ、健気にもぉ? 待ってるんだってぇ』
耳障りな声が電話越しに響き続ける。この友人の声は宗一としては、実のところあまり聞きたくなかった。
「あァ、行くよ、行くッての」
宗一はとても不快に感じた。応える声に苛立ちが混じってしまったが止められないものは仕方ない。
『そっかぁ、良かったぁ』
なんでこんなやつと友人なんだったか。
宗一はこの獄島黄昏という男と長い付き合いだった。ずいぶん昔だからか、出会った頃のことはもう宗一は覚えてない。
『それじゃあ、またねぇ?』
ぷつり、と電話が切れる。
あの男の声からスマホが解放され、無機質な電子音が耳元に響く。宗一は無意識に大きく息を吐いた。どうやら想定外に緊張していたらしい。
「どうしたのかな契約者、電話のようだったが」
椅子に座り込んで脱力した宗一を見て、悪魔は先程の電話は何だったのかと問う。
「あァ。幽也が悪魔を召喚した小屋で今日の6時に待ってるとかなんとか言ってやがった」
自分から出てくるとは愚かだな。宗一は目を閉じてそんな事を呟く。
幽也は搦め手のような手段を取るような頭をしていない、と宗一は考えている。宗一は今まで腐るほどに幽也のことを見てきたのだ。行動の予想くらい立てられる。
ヤゴロシも、宗一の幽也に対する感覚をとても信頼していた。
どうせ罠じゃない、幽也は必ず現れる。二人の思考は一致していた──が、伝言してきた相手が相手だ。
警戒はした方がいいだろう──獄島黄昏は、信じるには胡散臭さに過ぎる。
さて、宗一はこの誘いに応じるべきか。ヤゴロシと共に暫し黙して思考した。
「この状況。俺たちの方が優勢だ。ならよォ、応じる必要はねェよなァ」
宗一は当然のように誘いに乗らない事を選択した。黙って身を隠していれば消え去る相手に対して、わざわざ姿を表すなど馬鹿馬鹿しい。
しかし、ヤゴロシが繰り出した発言は。
「そうだろうか?」
否定的な、問い掛けだった。
これには宗一は意味がわからないとばかりにヤゴロシを睨み付ける。
「はァ? どうしたって言うんだテメェはよォ」
「こんなあからさまな誘いだ。あちらには策があるのだろう。喩え相手がいつ消えるか分からぬ体だからと言って、この状況、この誘いだ。確かに消滅を待ち、隠れ潜むのも良い。だが、それで良いのか? 契約者よ」
ヤゴロシは、睨み付けてくる宗一の目を見る。消滅を待つ、それで良いのか。
それではまるで──幽也に怯えているようではないか。
「霧川幽也の策を真っ正面から砕き、完膚なきまでに勝利する。そして、霧川幽也の息の根を契約者自らの手で止める。その絶好の機会なのだぞ?」
「消滅待ちでも勝ちは勝ちだ。勝てれば、殺せれば問題ねぇよ」
ヤゴロシは詰まらないものを見るかのような目で宗一を見ていた。
面白くない、とヤゴロシは宗一に聞き取れないほどに小さく吐き捨てた。
「だが、そォだな。例えば、誘いに乗るとしたらどォなんだ? その場合、どォ言う流れで動かされるとヤゴロシは思う?」
宗一はヤゴロシの退屈そうな目が気に入らなかった。臆病者のように言われたことも気に入らなかった。
宗一の言葉を聞いてヤゴロシの目が僅かに輝いた気がした。ヤゴロシの想定を上回ったんだろうな、と宗一は感じて悦に浸る。
「霧川幽也の誘いに乗るのであれば、恐らくはその、6時だったか。その時間に別の場所に誘い出そうとするはずだな」
「ま、そォだな」
「相手が誘い出すという手を取るならば、それは幽也の家に違いないだろう。相手、寝泊まりの場所を変える程度に警戒したということはもう既に分かっている。何故なら一度も帰って居ないからね」
「へェ、そうだったのかよ」
(幽也は自宅を一度出て行ったきり、戻っていないのか。……大丈夫か? アイツ)
それだけ考えた宗一は、頭を振った。
おかしな考えだ。なぜ心配する。
宗一の様子に、ヤゴロシが怪訝そうな目を向けてくる。
「構わねぇで続けろ」
「わかった」
ヤゴロシに誤魔化すように一言吐き捨てる。先程の思考を忘れようと、宗一は一層前のめりにヤゴロシの話を聞き入ろうとした。
「罠を張ったところを見られたか、それとも、場数を踏んだ経験からか……その判断には間違いなく〈杖〉の魔術師が絡んでいるだろうが、自宅に戻らないとはなんとも正しい判断だ」
「まァそうだな、あの家にゃしっかり罠を張ってるからな」
「そうだ。場所が分からないなら出て来て貰おうと考えるはずだから、まず間違いなく罠を作動させてくるだろうね。そして、その罠に反応があれば、俺は行かざるを得ない」
魔術師の入れ知恵だろうか。
確かに幽也が単独で見抜くような慧眼であると信じられなかった宗一は納得した。
「行かざるを得ない、ねェ?」
「どうした契約者?」
「罠が起動しようが、無視して二人で幽也を消した方が良くないか?」
「それは、もう一つのレアティファクトをさっさと奪えと言うことか?」
「そォだな」
ファクターは、不死身のようで不死身ではない。時間経過とダメージが閾値を越えると、消滅してしまうのだ。
神装を奪うことも立派なダメージを生むのである。
幽也はもともと2つのレアティファクトを宿している。
今一つ奪っている状態からもう一つのレアティファクトを奪ったならば、ダメージはきっと限界を迎えて消滅してしまうだろう。
ヤゴロシとの契約上、幽也のもう一つのレアティファクトも奪うことは決まっている。
奪う前に幽也が消滅すれば、〈破滅〉ごと消滅してしまう。だから幽也を消すことは神装を奪うことと同義なのだ。
故にヤゴロシはきっぱりと言い放った。
「断る」
ヤゴロシはレアティファクトを得られずに幽也が消失する事態に陥るのは避けたかった。
だが、第一にヤゴロシにとってはレアティファクトを取り出すのは最後のお楽しみだ。
勝利。強奪。その二つを同時に行う理由はヤゴロシの勝利した証としてではない。
強奪せずに負けた敗者の反応を楽しむためだ。
だから戦闘途中に、勝つために奪うことはしたくなかった。
──万夜と幽也の策を捩じ伏せ、勝利に酔いながらヤゴロシは幽也に秘められたもう一つのレアティファクトを手に入れる。
魔術師の策を悉く砕き、成す術がないと分からせてやるのだ。
ヤゴロシはお前たちよりも強いのだと。
その状況を想像するだけでヤゴロシの心は大いに震えた。想像一つで、歓喜と優越にどうにかなってしまいそうだった。
だから、まだまだ幽也と戦うつもりは無いのだ。6時に誘い出されたと言うのであらば、乗ってやろう。
その先で真正面から魔術師を先に潰す。
幽也はその後で、だ。
「はァ? なンでだよ」
宗一は、ヤゴロシのその性格から来る優先順位の狂いにあまりいい顔はしない。
当然だろう。幽也の殺害、存在の抹消こそが宗一にとって最優先事項なのだ。
全部踏みにじりたいヤゴロシと、幽也さえ死ねば良いと考える宗一。互いに優先順位が噛み合っていないのだ。
「魔術師を殺した後に幽也にも手を下すさ。安心したまえ」
「先に殺ろうぜ? 効率も悪ィだろ?」
魔術師たる万夜と一般人だった幽也。どっちが簡単に殺せるかと聞かれれば当然幽也だろう。
ただ、ヤゴロシはなにも考えずに万夜を退けることを優先しているわけではない。幽也から先に殺すのは、契約者にとってはリスクも高いと踏んでいるのだ。
「さてな。俺はそうは思わないな。幽也は言わば最後の手段を使わせないための盾だ」
最後の手段──契約者の殺害による悪魔の弱体化。宗一を殺すという選択肢を万夜が採るのを防ぐ盾として、幽也の存在は有効だ。
そもそも一連の戦闘で、宗一が狙われることがなかったのは幽也の存在によるものが大きい。
二人が兄弟でなければ、間違いなく万夜は容赦なく契約者である宗一を殺しただろう。それは旧知だろうが関係ない。
万夜は今までそうやって悪魔を屠ってきたのだから。
この状況では、宗一達が幽也を殺すことは得策ではない。ヤゴロシの言い分は理解した。
幽也が宗一の盾代わりと言うことは分かったが、宗一にとってはこの際そんな事はどうだっていい。
(悪魔の弱体化? 自分が殺される? 知ったことか。幽也さえ殺せれば、それでいい)
契約は履行されて、悪魔とはそれでサヨナラ。それで終わりだ。なのに何故、万夜を優先するのか。その事を宗一は納得できない。
だから、宗一はこの話題を終わらせに掛かった。
「……例えばの話はもう終わりだ。契約をさっさと終わらせようぜ?」
これは、たとえばの話だ。やるなんて、言ってない。
そう言いきった宗一にヤゴロシは言ったのだ。
「焦っているのか?」
その言葉に、宗一はぐつぐつと煮えたぎる昏いものを腹の底に感じながら答える。
「あァ。そうだよ、焦ってるさ。早く、早く幽也を一刻も早く殺さなきゃ、ダメなンだ」
早くしないと、早くしなければいけない。急かすような熱に包まれて、宗一は言った。
「そう焦ることはない。契約は絶対だからな」
あまりにも悠長な物言いのヤゴロシに、宗一はキレた。
「契約は絶対てンなら!! さっさと幽也を始末してこいよヤゴロシィッ!!」
「ははっ! 焦るなと言っているだろう契約者!! 余裕を失った人間は録な目を見ないぞ!!」
「余裕だァ!?!? ふざけてンじゃねェぞテメェ!!! 余裕なんか有ったらよォ、悪魔になんざ頼らねェよ!!!」
吐き出した激情。それは幽也に対する潜在的な恐怖。幽也に対して今まで感じてきた劣等感、そして……。
それらは常に宗一の余裕を蝕んでいた。
一刻も早く。早く早くあの男を消さなければ、宗一に平穏は訪れない。
この身がこの熱に焦がされる前に。
──だから、早く行けよヤゴロシ。
「ふむ」
──ふむ、じゃねェよ。早く、行けッて。
「なら」
──だから、早くしろッて。
「仕方ないな」
「はァ?」
ヤゴロシは、天を見上げた。つられて宗一が見ればなんの変哲もない白い天井が存在している。
ヤゴロシに視線を戻す。何を言うつもりなのか。宗一が怪訝な目で見詰める。
ヤゴロシは口を開い──
「──ダメだよぉ? 何しようとしてるのぉ?」
黄昏が、現れた。
「よしょ。おじゃましまぁす♪」
扉を開けて正面から入ってくる。わざわざ丁寧に元通り鍵を閉めた。
「ははっ。ダメだよぉ? 悪魔ヤゴロシぃ。君、何を言おうとしたのぉ?」
「それは」
「駄目って言ってんじゃん。なに言おうとしてるの。それでも人を越えた悪魔? そんな体たらくで? へぇ、悪魔だと名乗るなんてやるじゃん。そんな体たらくで? もしかして偽物なんじゃないのぉ?」
黄昏の出現に閉口するヤゴロシに、宗一は状況を理解しきれない。
ヤゴロシが口にしようとした言葉を黄昏が制す度に、黄昏がヤゴロシを責めるように言う度にヤゴロシから余裕が失われていくのが宗一からもありありと分かった。
何故悪魔が、黄昏に威圧されている?
おかしい。確実にそれはおかしい。何だこれは。
「あと宗一ぃ。目敏すぎぃ。何で気付いちゃうかなぁ。幽也さえ殺せれば問題がないって事に♪」
「……黄昏……?」
「うん。ボクは獄島黄昏だねぇ」
「どうした……突然……?」
「えぇ? 突然じゃないよぉ? だってこのままだと見れなくなっちゃうじゃん、面白そうなのに」
「面白そうなのに、だァ?」
黄昏が、にんまりと嗤った。背筋の凍るような笑顔だった。
「そぉ♪ 余裕がない上に救いようの無い愚かさ。そんな兄と兄を追い込んだ自覚の無い才の有る弟。兄弟の舞台。愚かに、ただただ無益な殺しあいをするの。こんな面白そうな出来事が……でもボク、こんな干渉する筈じゃあ無かったのにねぇ、ねぇ? どうしてかな」
──寒気だ。
黄昏から、宗一へ震え上がらせるほどに怒りが向けられていた。意味が分からない。理不尽にも程がある。
黄昏の手が宗一の手に触れる。小指を絡めて、ぼそりと。
「『6時に林の小屋に宗一は一人で行ってください』〈
その言葉の意味は宗一には分からなくても、とても良くないことをされたのは分かった。
それが分かったから宗一は黄昏の手を振り払い飛び退いた。しかし、既に遅かった。術は起動してしまっていたのだ。
それは指切りを起点にした魔術。
約束の履行の強制。
ヤゴロシも瞠目し、黄昏を見ていた。
「約束は、絶対だからね? ヤゴロシもちゃんと誘い出されてね?」
魔術に捕らわれた宗一には非常に重い言葉が、ずしりとのし掛かっていた。
獄島黄昏という男は果たしてこんな冷徹な目をしていただろうか。こんな触れたものを切り裂くような鋭い声をしていただろうか。こんな人間だっただろうか。
宗一は思い出そうとしたが、思い出せない。何も、思い出せなかった。それに漸く違和感が追いついた。もう遅いのだと言うことも同時に。
宗一は、譫言のように呟いた。
「お前は、誰だよ」
「ボクはボクだよ? 他の何者でもない、ボク」
「お前は、俺達に負けろと言っているのか?」
「ううん? どっちにも転ぶ状況にしたかっただけだよ? その方がヤゴロシも好きだもん。ね♪」
──その方が面白いから。
ヤゴロシが、そう言ったのを宗一は思い出す。あのときは、おかしいとは思わなかった。悪魔の行動としては何の変哲もない原理。悪魔というイメージが先行し、完全に誤魔化されていた。
だけど本当はその行動理念はヤゴロシではなく────
「宗一ぃ? それ以上だぁめ♪ 的外れでもボクを疑っちゃあ、ノンノンだよ♪」
宗一は思考が鈍るのを感じる。駄目だ。ずっと黄昏の掌の上で踊らされている。それだけは分かった。
手遅れ。後の祭り。それらの言葉が脳内を踊る。
宗一はもうすでに6時に一人で林の小屋に行かなくてはならない。
これをしなければどうなることか、想像したくない。そもそも想像できない。
「まぁ、これ以上役者に干渉してボクが邪魔しちゃったらしょうもない、かぁ。ここら辺でボクはお暇するね? ばいばーい!!」
宗一はヤゴロシを見た。だがヤゴロシは方を竦めて横に首を振るだけ。
抵抗は無駄だ。ということを物語っていた。
ゲームマスターか支配人、それか監督でも気取っているのか。宗一は吐き捨て立ち上がる。
黄昏が去ったことで安堵の息を吐いたヤゴロシが呟く。
「行ったか」
「……正面から殴り合わねェで済むように、魔術を教えてくれ、ヤゴロシ」
「契約者の願いであれば断る理由がないな。受けよう」
素直に頭を下げた宗一にヤゴロシはそう言った。その答えに満足して宗一はヤゴロシに背を向けて家を出ようとした。
「助かった、感謝するぞ──相棒」
──その時、ヤゴロシの口元は笑みに歪んでいた。
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