1-10「迷子の夢」



 ──夢を、見ていた。


 昔の夢だ。


 すぐに、わかった。


 だって。私は、この時のことを、忘れない。忘れるはずがない。

 忘れたくない記憶。

 これは真っ暗だった私に射した光で。

 終わってしまった私が、もう一度始めようとしたあの日の事。


 私の──憧憬だ。


 これがいつの事なのかは、思い出せない。


 あの頃の記憶は時系列が曖昧でどうしても順番に並べることは、今の私にはまだ……まだ?


 いや、覚えていないのだ。そもそも、できない。


 ◇◆◇


 森でひとりぼっち。


 唐突な始まりに私は目を丸くして、周りを見渡す。


 どことなく懐かしい森。見覚えがある。この景色は、間違いない。


 あの日だ。


 そう思って、私は自分の手を、体を観察したけれど今とはたいして変わらないけれど、それは、私が変わってないからだろう。


 なんで、森にいたのか。事件直後だったからだ。


 ──一家心中だった。みんな、死んだ。


 私は親戚に引き取られた。でも、あの家をどうしてもこの時の私は受け入れられなかった。みんな死んだのを、私は受け入れていなかったのだ。


 だから、しばしば家の近くのこの森に足を踏み入れていた。


 この森には、通っていたと言っても過言ではない。だから覚えてる。自分の家の庭みたいなものだと感じていた。


 ──ここに居れば、もしかしたらお父さんやお母さんに会えるかもしれない。


 私はこの日もまた、ぼんやりと希望を抱きつつ森へ足を踏み入れたんだったと思う。


 そこに、かもしれないって。


 自分の事なのに他人事のような浮遊感。死ねば楽になれるんだと、不気味な森に通っていたのだ。


 ……そのくせ何度も帰ってきていたのは、やっぱり死にたくなかったからなのだけど。


 繰り返し、繰り返し、死に誘われるように森を歩いた。


 私の保護者は、私が帰る度に目を伏せて一言。


『おかえりなさい』


 帰ってきたときのあの人たちの顔から、大事に思ってくれてるのは、今ならわかる。あのときの私も、わかっていたと言うだろう。


 それなのに。目を離した隙を狙って抜け出して森に踏み入るのだから、手に終えない子供だったはずだ。


 自分勝手。


 きっと私はひどい人間だろう。


「うぅ……ひっぐ……」


 いつも通り死に誘われるように鬱々と森を歩いていた私は、人の泣き声に意識を掬われた。


 顔をあげて、周りを見渡す。


 微かに聞こえたその音はやはり人の声だろう。先を知っているのだから、当然私には分かるのだけど。


 自然豊かな森の中。


 虫や鳥の鳴き声だけが響く中、人の声というのは異質だった。だから、聞き間違いかと思った。でも、人の声なんて聞き間違えることはない。


 なんで人の声がするんだろう?


 度々森に侵入し、森に馴れていた私は、その時ばかりは珍しいもの見たさの好奇心を振りかざして、声の主を探しに行った。


 私は一時の好奇心に身を委ねて、聞こえた声に期待を膨らませる。


 幸いなことに数秒も経たずにその声の元に辿り着いた。


 思ったよりも近かった。


「もしかして、迷子?」


「ひっぐ……えっ……?」


 男の子が、蹲って泣いている。


 明らかに迷子だった。誰の目から見ても迷子だろう。


 私はこの子が迷子なことは知っているけれど、この男の子と目があった時に、間違いないと確信した。


 道に迷っている人間の目をしていたのだ。毎日、その目を鏡越しに見ていた私が言うんだ。間違いない。


「君の名前は?」


「ひっ、く……ずずっ……」


 泣きっぱなしの男の子に私はしゃがんで、肩を掴んでもう一度聞いた。


 目線を合わせようとしたけど、そうしたら顔を反らされた。


「君の名前は?」


「ひっぐ……お、お……」


「お?」


「お、お兄ちゃぁぁぁぁぁぁぁん!!! どごぉぉぉ!!」


 あ、完全に話できないな。私は困ってしまいぎこちない笑顔を浮かべた。


 泣き喚く男の子を見て、私は──



 ──視界が暗転した。



 暗転した視界が戻ると、場面が飛んでいた。


 そうだ。これは、夢だった。忘れかけていたけど、現実の通りに進むわけじゃない。


 場面が変わった。私は自然とそれを受け入れた。


 目の前には、もう一人男の子が増えていた。男の子のことを探しに来た彼のお兄さんだ。


 このお兄さんが来るまで、私はたしか……この子の相手をしていたはず。


 まあ、殆ど男の子は泣きじゃくるだけで、私はおどおどしてて。


 何かしたかといえば……何かしたかな……?


「全く、いつもいつもいなくなりやがって。迷惑なんだよっ」


 お兄さんが、弟君に言った言葉は刺々しかった。


 けれど、お兄さんは安心したように笑っていた。そして弟君はお兄さんにくっついて泣いていた。


 私はそんな二人を見て、仲の良い兄弟だな、と思って口許が緩む。


 仲の良いきょうだい──正直なところ、憧れた。私にも兄が居た。


目の前の光景に自分を重ねて──唐突にぐらりと視界が揺れた。


『────。』


 なにか、きこえた。


「は、ぇ?」


 なんとか静かに踏み留まって、私は二人に自分がふらついたことがバレなかった事に安堵した。


 家族の思い出に胸を焼かれたのだ。その頃はまだ、風化していなかったあの日々に。


 家族との思い出は暖かくてしあわせだ。


 でも、私に家族はいない。死んだからだ。


 それを分かっていて、受け入れられなかった私には直視できない。


 私には一生手に入らない。


 わたしが、なくしてしまったもの。それが、目の前にあった。


 彼らは暖かそうな斜陽の光に包まれて楽しそうに笑っていた。


 木陰の私は、とても寒かった。手を伸ばすこともできない光に、触れずして焼かれた


 私は絶望した。


 きっと私は欲しいもの家族に手が届かないのだ。そして伸ばすことも恐れているのだ。


 私の立っている場所と彼らの立っている場所は違った。


 だから私は身を引こうとして、


、どうしたの?」


 声をかけられた。


 いつの間にか、弟君、そう呼ぶのは、なんというか、まどろっこしいな。

 弟君改めが私の顔を下から覗き込んできていた。


 この頃なら私の方が背が高いから、自然と下から覗き込んでくる形になるのだ。


 というかこの頃から私の背は殆ど伸びてない。小さいと、悪魔の攻撃が当たりづらい。そういう点では有り難いけど、それとこれとは話が別だ。


 低身長なのは、かなり不服だ。


「ううん、なんでもない」


 そう言った私に、宗一君が幽也君に呆れたように言う。


「なんでもないと思ってんの? 、泣いてるのに?」


「迷子ちゃんじゃ……ないっ……」


 視界が悪くなっていく目元を、私は言われてから気付いて拭う。


 袖が湿っていた。私は泣いていた。


 今の私と、この夢の私は他人。


 今の私は昔の私じゃないから気付けなかったし、当時の私は様々な出来事に摩耗し鈍くなっていた。


 だから気付けなかった。


 ──なんで泣いているの?


 二人ともそうやって私を見た。


 なんでって。それは、二人が、眩しかったから。


 家族というものが、眩しかった。


 でも、溢れた涙の理由なんて、この夢の中の私にはわからない。


 今の私にも、正直正解は分からない。


 ただ、久し振りの感情だった。久し振りの涙だった。それは覚えている。


「あのさ」


「なに、まよちゃん」


「また、会える?」


 涙を両手でぐしぐしと拭って私は嗚咽しながら小さな声で幽也君に言った。


 再会出来るか聞いたのは、名残惜しかったからだろう。偶然とはいえ、私の失ってしまった、あったかもしれない家族の形を見せてくれた少年と別れることが。


 彼はキョトンとした顔をして、なにかを言おうとした。


 けれど、その返事を私が聞くことはなかった。


「──幽也!! 心配したんだぞ!! どこ行っていたんだ!」


「ごべんなざぃぃ~~!!!」


 親御さんだ。森の外までいつの間にか来ていたらしい。


 抱き合いながら叱るお父さんと幽也君。


 あらあらと微笑みながら見ているお母さん。


 見付けてきたのは俺だからなと自慢げにしている宗一君。


 その様子を見て、私はまた涙が止まらなくなった。


 なんで、どうして──と私は涙を流す。


 昔の私はその涙に対して。


 今の私は彼らの仲の良さを見て。


 私は、また泣いた。


「迷子ちゃんはなんで森に? この森で迷子になるには才能が要るよ? こえーし」


 お兄さんの方だ。風景を同じように外から見ていた彼は、私に問い掛けた。


 実はこの森は有名な自殺スポットだった。


 まあ、この頃の私は程度にしか思ってなかったけれど。でも、それでも怖いところという認識はあった。


 死にたかったから、とは、流石の私も言わなかったし、この頃の私には死にたがりの自覚があったかどうかも怪しい。


 だから口をついてでた言葉は、違った。


「……から」


「……なんて?」


「家族と一緒に居たかったから」


 その言葉にお兄さんが首を捻った。よく分からないらしい。分からないままなら分からないままでいいと思う。


「だれかに、見つけてほしかったの」


「……まあ、見つけたけど」


 私も今はもうなんでそう考えていたのか忘れていた。 なんでそんなことを言ってしまったのか。


 やっぱりお兄さんは首を傾げていた。


 そうだね。分かんないよね。


 だってきみには、


『──が欲しいか』


「うん」


 私を呼ぶ声が聞こえる。差し伸べられた手を幻視する。


 私はこの時何もかも喪っていた気がしていたから、だから自暴自棄に物騒な森を歩いていた。


『欲しいなら、道を示そう』


 でもさ、君たちを見て、わかったんだ。


 暖かくて、しあわせで、懐かしくて、羨ましくて、憧れた。私が心から欲したものは、決して


 だからその手を取った。


「うん。ありがとう」


 それが、どうしても諦められない。




 そして、この日を境に私は迷子になるのをやめた。

























「──そだ、だ」


 だから、私は、許せない。


 夢の浅瀬に揺蕩いながら、目前霞む男を睨み付ける。真っ先に浮かんだ感情は怒りだ。悲しみだ。動けない私はその激情に震えるしか出来ない。




 どうして。


 どうして、宗一君……。


 どうして……こんなことを……っ!!


「どうしてって。そンな当たり前の事を聞かないでくれよなァ」


「目障りだったンだよ」


 ふざけるな。そう叫んだ私に冷たい視線をしばらくその男は向けてきたが、すぐに姿を消した。

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