1-16「兄の夢」



「──お兄ちゃん、今日はこれで勝負だ」


 ……ああ。


 俺は真っ先に夢だと気付いた。そう、これは夢だ。夢に違いない。極めて自覚的な夢だ。


 幽也が、無邪気な笑顔でファミコンのゲームカセットを突きだしてきていた。


 四歳くらいの子供だった。


 その四歳くらいの子供を、迷いなく俺の意識は幽也と結びつけていた。ならば間違いないだろう。


 この子供は幽也だ。


 確か、小さい頃は家にあったこのゲーム機で日が暮れるまでずっとゲームをしていた。


 今幽也が出してきたような落ちものの対戦型パズルゲームで、二人の時間を使い潰した。


 二つも下の弟。鈍くて、要領が悪い。


 でも俺と遊ぶときも、それ以外の時でも。こいつはいつも楽しそうだった。


 ……いや。


 まあ、子供だから、昔の事だから。よォく印象に残った出来事しか、あんまり覚えてないのだ。ただ、それでも喜怒哀楽を全力で表してくる純粋なヤツだってことは覚えていた。


 その事だけはしっかり覚えていた。


「──いいぜ。やろう」


 そうして手にもったのは携帯ゲーム機だった。マルバツシカクサンカクと四つのボタンが円形に並んだプレステの携帯機。最初期のバッテリーの辺りが妙に膨らんだヤツ。


 ……夢だからとは言え、唐突な変化だな。


 俺が顔を上げれば幽也は十歳くらいの外見の子供に変わっていた。


 確かこの頃だ。小学生の勉強は蓋を開けて三十分放置した浴槽並みにぬるかったから、この頃までは気付かなかった。


 ただそれまで通り、のろまな弟。変な奴。


 そう思っていた。のに。


 勉強は俺の方が年上だから出来る。運動も俺の方が兄だから出来る。絵を描いて賞も取った、ゲームをやっても、何をしても俺の方がお兄さんだから。


 ──連鎖を組み始める。


 ゲームは、変わらず落ちものパズル。最近15連鎖を組めるようになった。


 ルールは……これは相殺禁止の初代ルールだ。手早く倒すのに最低限必要な邪魔ブロックを岩石二つと少し分、だったか。


「──やった、十六連鎖!」


 耳を疑った。俺はまだ2組目の組みブロックを置いたところだ。最速で、下ボタンを長押ししていたから、それほどまでに積まれることは有り得ない。


 だが、対戦相手の所には、見事に組まれた連鎖途中のブロックの山が。


 驚いて幽也を見る。今より少し幼いが、見覚えがある。これは中学一年の、十三歳くらいの幽也だ。


 屈託のない笑顔で画面を見ている。


 眩しい笑顔だ。何もかもが眩しい。眩し過ぎた。


 ──勉強は、中学入って少ししてから躓いた。


 それから雪だるま式に苦手が増えていく。


 運動は、上の下程度。悪い訳じゃない。


 絵を描いても、この頃からはなにも結果は残らない。


 料理は弟はやらなかったから練習した少しだけ上達した。


 親の御下がりの楽器にも手を出した。少しだけ出来る。



 でも。



 弟は毎回テストで百点近くを連発した。


 成長期が来たのか身体能力は俺と並んで、追い越す勢いだった。


 絵の才能が開花したのか美術で書いた絵が何度か賞を取った。


 俺が新しいことを始めれば、真似して始めた。


 後からはじめたくせに。何もかも────


「うわやば、兄貴十七連鎖とか何それ!?」


 ──画面には、盤面一杯に積まれたブロックが在った。ブロックが消えていく。四マスブロックが綺麗に、連続で。


 全消し連鎖だった。


 盤面は綺麗さっぱり何も残っていない。残っていたのは盤面の上に死刑宣告のように積まれたお邪魔ブロックの予告だけだった。


 勝負は、連鎖を後出しにしたので、お邪魔ブロックが降ってくるのが遅い俺の勝ち。


 だが、俺は、こんなに連鎖を組んでいない。組めない。こんなに凄くない。


 そして、負けたと言うのに弟は、その無邪気な輝かしい笑顔を俺に向ける。


「やっぱり兄貴はすごいなぁ!!」


 うるさい。止めろ。俺は、違うんだ。お前の見てる俺とは違う……!!


「十七連鎖っ!! 見たことないよ!!」


 うるさい……。勝ったんだ。俺が勝ったんだよ。だから。お前は少しでも……っ!!


「そんな連鎖を軽々と兄貴は組めるなんて」


 止めてくれ。何で負けたお前がそんなに楽しそうなんだ。悔しがれ。笑うな。


 目障りだ。何でそんな無邪気に俺を褒められるんだよッ!!!


「やっぱ兄貴は、凄いや」


 ──俺の腕が振るわれる。いつの間にかその手にはナイフが在った。


 突然だった。


 煌めいた銀の刃は、幽也の首筋に突き刺さる。


「やっぱ兄貴は凄いや」


 お前はいつまで俺に幻想を見ている?


 俺が進学した高校はお前の通ってるよォな偏差値トップクラスの進学校じゃねェ。


 平均より少し下の進学校だ。そこで、赤点をギリギリで回避しながらのほぼ底辺の人間だ。


 お前と関わりたくねェから、だから一人暮らしを始めた。


 親はお前なら心配要らないなと、あっさり認めて。これが幽也なら大反対だろう。


 あいつらは二言目には幽也の話だから。


 だから。ナイフを引き抜く。


「兄貴はすごいや」


 中学の制服を着た幽也の首筋にもう一度ナイフを刺す。ナイフは黒く変色を始めて切れ味が落ちていた。


 だから何だ。


 構わず突き刺した。


 一人暮らしは案外上手く行っていた。親は気付いたら部屋を掃除しに来ていたりした。


 ばったり会えば、また幽也の話だ。うんざりする。


 俺の進退に関してもあいつらは幽也を引き合いに出す。


 お前は幽也じゃないって?


 そんな事は分かっている。だが、大学へ行くべくして受験して。


 ──そして落ちた。


「お兄ちゃんはすごいや」


 十歳くらいの幽也になっていた。


 その幽也を刃の無くなったナイフで叩く。刃が無かろうが、人なんざ首筋の辺りを容赦無く殴れば殺せる。


「お兄ちゃんは──」


 四歳くらいの幽也だ。


 幽也の口を塞ぐ。ナイフは刃零れどころか腐食が進んでいた。


 黙れよ。俺はお前を殺す。俺を追いかけてくる幻影が見える。だから俺はお前を殺す。いつまでもいつまでも、落ちた俺を上からすごい、すごいと。だから俺はそれを殺す。


 口を宗一の手に掴まれても幽也は笑顔だった。


 だから俺は────






「ははっ。やっと死んでくれた」


 気付けば森の中に立っていた。


 笑顔のままの人形が胴体から赤い絵の具を吹き出して倒れていた。


 どくどくとまるで血のように吹き出し胴の傷から溢れていく。でもそれは血じゃない、赤い絵の具だ。原色の赤は、血と言うには明るすぎて、現実味がない。


 傍らに、黒猫。足元にすり寄ってきて体を宗一に擦り付ける。


 お前は、分かってくれるのか。


「わかるさ。なんでも。黒猫さんは耳が良いんだ」


 心の声なんか耳が良くたって聞こえないだろうに、黒猫はそう喋った。


 口はその音通りに動いていないし、そもそもにゃーんと鳴いただけ。


 鳴き声と重なって声が聞こえたのだ。


「そうだね、黒猫さんは夜目も効く。人間には見えないものが見えるのだ」


 分かってくれるのか。


「君の心が泣き叫んでいるのが聞こえる。君の傷だらけの心が見える。黒猫さんはその心に寄り添ってあげられるんだ」


 それは悪魔の囁きだった。いや、きっと文字通りの悪魔の囁きなのだ。それを俺は心地よいと感じて座り込んだ。


 誰も分かってくれなかった。


 あの弟すら、その痛みを理解しない。自覚ないが故に容赦もない。無邪気と無知を発揮して心の痛みを増幅させる。


 両親も結局、俺の事を分かってくれない。


 それを、わかったと言う黒猫。

 それだけでも救われたような気分になる。



 両肩に置かれた手の感触。


 人の手だ。


 誰の手だ?


 悪魔の手だ。


「君の心の傷? わかるさ。君の心の内の叫び? 聞こえているさ。君の本当の望み? わかっているさ。俺はお前の契約者。俺はお前のことを間違いなく


 どうしてだろう。その言葉は望んだものだった。


 解ってもらえること。


 あの重荷のような存在霧川幽也に苦しめられていたことを理解されることを、俺は望んでいるはずだった。


 だが、その声はうわべだけは望み通りなのに。何かが違った。理解していながら、それをまるで弄ぶかのような酷薄さに満ちていた。


 悪魔の指している望みは今の俺の望んだものと程遠い。その事を夢であるが故の不思議な実感を俺にもたらした。


 何が違うのかは、理解できなかった。


 ……ああ、寒気がする。


「でも、きっと自分で気付いた方がおもしろいだろう? 宗一、君の望みは────」


 とても寒気がした。夢だったはずなのに。




 ──そこからの黒猫の言葉を聞き取ることが出来ないまま目を覚ました。



 とても安堵したことだけは、覚えていた。

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