第一章 -霧川兄弟-

1-1 「始まりの夜」


 6月の下旬、晴れ。夕方。


 日が傾いてきたとはいえ暑すぎる、と思いながら一人の男子高校生が帰宅途中にどうしても食べたくて買った棒アイスを食べながらだらだらと歩いていた。


 彼が霧川幽也である。


 幽也は自分が住むアパートまで辿り着くと、自分の部屋の玄関前に座り込む人影を見つけた。


 その人影というのは幽也の兄、霧川宗一。幽也は珍しいと思いつつ手を振って声を掛けた。


「あれ、兄貴。久しぶりじゃん」


 帰って来た幽也に、宗一は笑顔を浮かべて手を掲げた。久々に見る宗一の笑顔を見て幽也は思わず破顔した。


「相変わらず、笑顔が悪魔みたいだよね」


「ンだと?」


「あーごめんアイスあげるから許して」


 どうしてか、昔から宗一の笑みは悪意を感じるような凄絶なものだった。顔立ちは普通に良いはずなのだがとても不思議だ。


 宗一が悪そうなこと考えているような笑い方をするせいで誤解を受けているのを見てきた幽也としては、彼の笑い方を非常に残念に思っていた。直して欲しい。


「おう、ありがとよ」


 幽也は買っておいたアイスを一つ宗一に渡した。やっぱり宗一は悪人のような笑みを浮かべている。


 今はその事はまあ、置いておくとして。幽也は聞いた。


「それで、兄貴がうちに来るなんて珍しいけど。何か用があって来たの?」


「ふぉうだな、ほうふぁはってひた」

「食べきってから喋れよ」


 三角コーンにのったアイスに齧り付きながら喋る宗一に言った。


「今日はな、用事があってきたんだわ」


 三角コーンの最後の一欠片を口に放り込むと、宗一は手についたコーンのカスを払う。


「用事?」

「悪魔召喚に興味あるか?」

「悪魔召喚?」

「おう、悪魔だ」

「居るの? そんな空想上の生き物が」

「いるいる、少なくとも、俺は見たことがあるぜ?」


 疑わしそうな視線を向ける幽也に宗一は自信満々に言ってみせる。


 兄貴がそう言うならそうなんだろうな、と宗一の様子から幽也は疑わないで納得した。


 何せ悪魔召喚といきなり言われても、とても胡散臭いが、それでも宗一は悪魔の実在を信じていたようで。だとすれば幽也が疑って掛かる意味はないなと思ったのだ。


 それでも、幽也は宗一が悪魔の召喚なんてものに興味を持つことは少し意外に思った。


 だから聞いた。


「悪魔なんて召喚してどうしようって言うのさ。魔だよ?」


「そうだなァ、ま、そりゃ色々あんだよ気にすんな」


 ふーん色々あるのかぁ、と幽也はあまり気にした様子もなく納得する。宗一が誤魔化した事をスルーした。


「さて、本題に戻るがな。準備が出来たンで、どうせならって声かけに来たんだ。どうだ、立ち会ってみねェか?」


 宗一はこころなしか丁寧な口調で幽也に聞いた。


 そして幽也は、1秒も考え込むことなく即答した。


「行く」


 その言葉を受けて宗一は再び笑う。


 やはりその笑顔はとても悪い笑いに見えるが、幽也から見れば兄は普段通りの兄の笑顔だ。


 幽也がその笑顔から悪意を感じることはない。


 そも悪人面もまあ個性的だな、と幽也は受け流して──いない。本当はまだなんとかならないかなとか思っていた。


「よし、決まりだ」


 宗一はついてこい、と幽也に言った。


 ご機嫌な兄のようすに、幽也はほんの少しの懐かしさと期待を覚えて宗一の後を追い掛け──ようとして、一言。


「あ、ごめん荷物置いていきたいから玄関前から退いて?」


「あ、スマン」




 家の近くにある林の道を二人隣に並んで歩く。


 この林の道の先には特筆するような施設などは何もなかった。そのため、今二人があるいているのは、足場の良いとは言えないような土肌のタイヤ痕の上を歩いている。


 その轍の間にも草が茂っていて、そこから虫とか飛び出してこないか怯えながら歩く幽也が少し気持ち悪かった。


 ずかずかと林道を歩く宗一に、幽也は恐る恐る歩きながら、質問した。


「何処にいくの? というか、この先って何かあったっけ」


「ちょっとした小屋があるんだ。まあ、それ以外に何もないところだけどよ。そもそも、何かあるって思われる場所で悪魔召喚の儀式そういうことなんかすると思うか?」


 なるほど。幽也はまた一つ納得した。


 確かに悪魔なんてヤツを召喚するだなんて、正直気が狂っているんじゃないか疑わしい。


 それならば、いい判断なのかもしれない。


(そういえばなんで悪魔召喚なんて……まあ兄貴が言うことだしな、なら別にいいんじゃないか?)


 幽也は悩むのをやめた。はやい。


 唐突に幽也の前を歩く宗一が立ち止まった。


 背後を歩く幽也からは表情は見ることは出来なかったが、それでも幽也にはわかる。


 宗一は上機嫌だった。


 弟だし兄貴の機嫌など当然のように分かるのだ。弟だからね、と幽也もつられるように気分が良くなった。


「そうだ、人ってさ、元々悪い奴しかいねェって話をよ、幽也はどう思う?」


「突然、何の話?」


「性悪説てやつ。全く以て、そうだなァって思ってよ」


 幽也は滅多にこういう林に立ち入らない。歩くのにも一苦労である。涼しくなってきて虫が大量発生していた。


「うーん。元々悪い人しか居ないから、善いことをしましょうって話だっけ?」


「まぁ、確かそんな話だが、俺がしたい話はそうじゃねェ。元々悪い人しか居ないのか元々良い人しか居ねェとしたらどっちだと思うかって。お前はどっちだ」


「そりゃ、どっちもいると思うけど」


 幽也の回答が気に入らないのか、宗一は肩を竦めて呆れた。


「はァ、俺はそういう意見求めてねェよ、ま、確かに両方居るとは思うがな。それで、どうよ?」


 そして宗一が塗装されていない獣道に突入する。


 こういった道は何度も昔に迷子になった経験があった幽也としてはかなり怖かったが、同時に懐かしく感じていた。


 宗一に置いていかれないように幽也はついていく。そして先程は呆れられてしまったため、幽也は回答の中身を改めて答えた。


「俺は……まあ、良い人しか居ない、と思うよ? だってほら、やっぱ皆良い人だし」


「やっぱ、お前はそう言うのか」


 暗くなってきた獣道を宗一が迷いなく歩くその後ろに幽也はついていく。


 宗一の歩く姿を見て、歩き馴れていると感じた幽也。結構ここに来てるんだろうか、と察した。


「兄貴だって良──「ここだ。こっちに作ったんだぜ?」


 言葉を遮るように、宗一が口を開く。指した方角はやはり木々が茂る道が続いている。


「何を作ったの?」


「あァ? 言わなくても分かんだろ? 召喚儀式用に色々だ!」


「おわ、ビックリした……そんな大きな声を出さなくても良いじゃん。もう夜だよ?」


 空を見上げれば真っ暗な星空が満天に輝いている。


 宗一は、すまん、とだけ呟いた。二人の間を初夏の生暖かい風が通り抜けていく。


 ひどく温く緩い風が木々を僅かに揺らす。ふと幽也は夜の林で昔遭った事を、思い出した。


 夜の林。迷子。野宿。


 幽也のトラウマを刺激した。


 がさがさ、がさがさという風で揺れた葉の擦れる音で幽也の肩が跳ねた。


 宗一は全く怖がりもせずにずんずん進んでいるのを見て、ビビってる場合じゃないと幽也は自らを奮い立たせてついていく。


 ちゃんとこっちの事見てるのかな、と幽也は不安だった。帰る選択肢は無いだろう。置いていかれないように宗一についていくしかない。


「……っ!?」


 幽也は見た。


 木々の隙間に、人とは思えないほどに大きな黒い何かが居た。


 見間違い? なんだあれは。


 幽也は頭を振って、もう一度何かが居たところを凝視した。その黒いなにかは影も形もない。


 見間違いかもしれない。挙動不審になる幽也へ宗一が何してんだコイツといったような目を向けた。


「どうした? 何か見えたか?」


「い、いや、何も?」


 多分ビビってるんだな、と幽也は気楽に考えようとした。


 幽也自身、多少自分が怖がりであるという自覚はある。時間場所構わず迷子になっていたのだが、その記憶の殆どが幽也のトラウマになっている。


 恐怖から幻視したのだと、勘違いと考えたのも無理はない話だろう。


 幽也には霊感も何もないので、特に霊とかは見えたりしない筈だと自分に言い聞かせる。


「おーい?」


「見間違いだ。たぶん。きっと。絶対、見間違い」


 宗一はぶつぶつ呟いている幽也に声をかけた。


 宗一からすると、正直幽也が一番怖かった。




 それから恐怖を紛れさせるためになんとか軽い近況報告のような雑談をしながら幽也は宗一の後ろを歩いた。


「そういや、昔お前は迷子によくなってたよな」


 今現在、幽也が高校二年であることは宗一は知っているし、幽也は宗一が大学浪人一年目であることを知っている。


 だから必然的に最近の話といってもあまり幽也からは意味もなく踏み込んだりはしない。つもりだった。


「あぁ、うん。その節はご迷惑を」


「そのせいでこういう場所、全然怖くねェんだよなァ」


 彼女はできたのか、と宗一が聞けば気になる人がいると幽也は答えた。


 大学入れそうかと幽也が聞けばお前が気にすることじゃないと宗一に突っぱねられた。

 すぐに話題に困って大学という浪人生に対してデリケートな話題を幽也が振ったのは恐怖で頭が回っていなかったからだ。


 半分くらいトラウマを掘り返された事に対する反撃という意識はあったけれども。


「いや、そういや一回こういう森っていうか林でも迷子になってたよな、お前」


「そう言われてみれば、あった気がする」


 二人昔を懐かしむような話もした。


 基本的に幼少の幽也の迷子癖に対しての宗一の文句ではあったものの、幽也は久々の宗一との会話を楽しんだ。


 一応、幽也にとっては迷子はトラウマものである。掘り返されたら反撃はする。した。


「あのとき、なんか同じような迷子に会ったよな。なんだっけ、迷子ちゃんだっけ?」


「まよちゃん、じゃなかった?」


 兄弟間において普段通りの会話だったと、幽也は懐かしんだ。


 最後にこんな会話をしたのはいつの話だったか。それは、年単位で昔の話だったように幽也は感じていた。


 宗一は、いつも通り笑っていた。


 勿論あの悪い笑顔ではあるが、楽しそうに、笑っていた。


 それが幽也には嬉しかった。




「おし、着いたぜ」


「……ここ? 何もないじゃん」


 林の中にあった小屋。そこに二人揃って入っていく。


 細い木で骨組みされたボロ屋であり、入り口の真反対に割れた硝子が刺さっただけの窓枠があるだけで家具の類いもない。


 腐蝕で壁も所々穴が開いていて、床板も、踏めば抜けそうなほど沈み、音も鳴る。


 酷い場所だ、と幽也はいつもなら臆する所で。


 呑気に踏み込んだ。


「そうだな。だって──」


 入り口側の床板が鳴る。


 幽也は振り返る。


 そもそもこの時、宗一は幽也の前に居た。入り口に背を向ける形で幽也は立っている。


 つまりは背後に──第三者が立っていた。


「──もう終わってるからな、悪魔との契約」


「っっっっ!!!!」


 宗一の言葉と同時だった。


 背後の存在を見ることも叶わずに、幽也は目を切り裂かれ視覚を失う。


 何にやられたか。

 何でやられたか。

 何も分からずに幽也は尻餅をつき、それから後ろ手を突く。


 脆すぎた。床板を叩き割って貫いてしまう。


 割れた床板の鋭利な断面で手首を引き裂いたが、しかしその痛みには微塵も意識が割かれない。


「はァ!! 良いなァ!! 流石悪魔!!」


 宗一が幽也の目を潰した存在に賛美の声を上げる。


 悪魔と呼ばれた何かは、少しだけ迷いを見せるように間を置いて問いかけた。


「殺してしまって良いのか? 契約を始動させるが。反故にすれば」


 迷いがあれば揺さぶられてしまうだろう。それほどまでに、その声音にはこれからする行為に対する憂いが滲んでいた。


 しかし、宗一は飄々とした様子で悪魔と呼ばれた何かの言葉を遮るほどに食い気味に答える。


「分かってる。契約破るわけないだろ、そいつのレアティファクト? っつーのを取り出す代わりに、ってやつだろ」


 長い長い息を吐いた宗一は、楽しそうに、愉しそうに、笑う。


 決定的な一言を、言った。


「──殺っちまって良いぜ?」


 会話の間、幽也は腕が嵌まったことに遅れて気付く。しかし、引き抜こうとしたが焦り、反対の手も床板に嵌まってしまっていた。


 そして、焦りのあまり彼の兄がなんの躊躇いもなく悪魔と呼ばれた何かに対して幽也を殺せと言ったことを幽也は聞かなかった。

 それは幸運と言うべきなのかもしれない。彼は終わりに気付く事が出来なかったから。


「今更の問答だったか。したらば今、代償を戴く」


 次の瞬間幽也は床板に押し倒された。


 それから胸の中央に生まれた熱に悲鳴を上げようとした。焼かれるような熱さに、喉から競り上がってくる何かが一瞬にして喉に詰まって、声の代わりに何かが吐き出された。


 吐血した。仰向けに倒れている状態で吐いたのだ、己の吐いた血で溺れそうになる。


「が、ごぼっ……!!」


 幽也は、見ることができないまま、想像を巡らす。


 わからない。

 何をされた?

 何を吐いた?


 大事なものが失われていく。手足が痺れる。もがこうとするが胸に何かが刺さっている。


 動けない。

 あれ、何でだっけ。

 まずいことはわかる。

 でも何がダメなの。

 まずいことはわかる。

 このままだとダメになる。


 もうダメだ、わからな────。



 幽也は、最期まで己が死ぬ事に気付けなかった。


 幽也がもがく程の力も失ったのか、遂にぐったりと倒れた。その様子を見て宗一は、笑った。


「──はーぁ。やっと、死んでくれたわ。」



 幽也の死体を見下ろして、宗一は嗤った。


 幽也の手がその言葉に反応して僅かに動いた。悪魔も宗一と一緒に笑っていた。

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