恋とブラスと回り道 2

 授業が終わり先生が退室した瞬間に、教室中で吹奏楽部の子たちがスマホを取り出し、周りをきょろきょろと見回しては素早く操作をした。トークアプリで連絡をとっているのだろうか。

「何を必死に探しているのかしらね。幸せの青い鳥?」

「それにしては目が血走っているように見えるけれど」

 そんな楽曲はなかったような気がするし、そんな曲を演奏するにしてもそこまでして探すだろうか? 幸せはすぐそこにあるっていう話だし。

 とりあえず私には関係ない。せっかくの昼休み。今は目の前にいるクロロ、本名塩崎しおざき若菜わかなとの昼食を楽しむことにしよう。今日はエビフライが入っている。ほら、幸せはここにもあった。

「いた!」

 大声を上げる吹奏楽部員。戸口の方を見てもだれもいない。それを追いかけていった吹奏楽部員たち。少し心配になってきた。何か変なものでも見えるようになってしまったのか。

「危ない危ない」

「千谷君! どうした?」

 いつの間にか私たちの机のすぐそばに千谷君がいた。彼は1年F組の生徒。ここは1年B組。追い出したいわけではないけれど、何でここに?

「一菜ちゃんに会いに来たんだよ。うまく死角を使ってね。化学講義室に行こうとしたら白川先生に見つかっちゃったから」

「実験室はもちろん講義室も特別な理由がなければ飲食禁止だからね」

 実際は部活の交流の一環でお菓子パーティーをやる、というような他に場所がない場合は講義室で飲食することもなくはないけれど、さすがに昼休みは昼課外くらいしか認められていない。

「一菜、この男誰? どういう関係?」

 クロロが体を乗り出して顔を近づける。

「どういうって、昨日から化学部に仮入部しているから」

「聞いてないけど。そんな話」

 女子生徒が私たちに割り込んで入ってきた。何人かを引き連れている。メンバーを見てピンときた。吹奏楽部の人たちだ。

「コンクールの方はどうするの? 先輩たちもみんな千谷の能力と努力を認めてパートリーダーに推薦したんだよ。なのに最近練習に来ないし昨日は逃げだすとか、ほんと何やってんの?」

 彼女の髪の毛が逆立って湯気でも出そうな勢いで千谷君に迫っている。千谷君はするすると私の背後に回り込んだ。

「そうだね。みんなにとっては急な話で申し訳ないけれど、パートリーダーは降りるよ」

 彼の言葉に、吹奏楽部たちはあんぐりと口を開ける。

「それから吹奏楽部からは退部する。香取かとり先生と部長には話したし、退部届はもう提出してある。大丈夫、オレ一人いなくても金賞は目指せる」

「それ本気で言ってる? それで化学部へ入部? 何で? トランペットよりやりたいことでもできたって言うの?」

「そういうことになるね。オレは化学部に入る。だって一菜ちゃんが好きだから」

 そう言って私の肩をたたいた。

 すぐに分かったのは、千谷君が私に関して爆弾発言をした、ということだ。

「はあ?」

 吹奏楽部の彼女の逆鱗に触れたのは言うまでもない。野次とからかいの嵐も訪れる。

 吹奏楽部の他の人たちも一斉に押し寄せた。

 どういうことよ? はあ? カガク部? 千谷お前そんなこと一度も言ったことね―じゃねーか。 第3パートどうすんの? っていうかこの子のどこが?

 後ろから誰かに押されたのか人が出てくる。

「要するにその程度のやる気なんだろ」

 倫太郎がポンと爆弾発言2回目を繰り出す。さすがに聞き捨てならなかったのだろう、吹奏楽部の人たちは問い詰める対象を倫太郎に絞った。

 今のうちに、と千谷君を引っ張って人気の少ない自販機のところまで連れていく。

「どういうことよ! 一から説明して!」

 無駄に響く廊下で声を上げると、千谷君はまあまあとなだめる。

「十中八九オレが悪かった。隠し事してごめんなさい」

 眉間に寄せた皺はそんなことでは消えない。大災害に見舞われたのだからこれで許そうなどとも思えない。

「まず、オレが吹奏楽部にいたって知ってた?」

「いや。そもそも昨日千谷君のことを知った」

 吹奏楽部のことはあまり知らなかったし、クラスも違うからそもそも千谷君の存在すら知らなかったのだ。

「そうだよな。倫太郎君は音楽の授業で一緒だけど、一菜ちゃんは芸術の選択が違うよね? 体育や情報でも一緒にはならないし、仕方ないか。オレの方は噂とかで化学部のことは聞いてた」

 そーですか。広まっているのね。厄介ごとに巻き込まれた軌跡が。

「オレは小中と部活でトランペットを吹いていたから、高校でも吹奏楽部に入ってトランペットやろうと思ってた。それもあって勉強してここに入った。そこからは黒村くろむらが言った通り。猛練習して1年でパートリーダーをやらせてもらえるようになった」

「へええ」

 そんなにうちの高校、泉井せんい高校の吹奏楽部ではすごい人だったのね。

「でも何で辞めるの? もったいない。その、黒村さん? が怒るのもわかるよ」

「残念ながらオレのトランペットへの愛着もその程度だったみたいだね。練習しても限界が来ちゃったみたいだし」

「でも実際として研究は? 一応倫太郎と共同研究だけど」

「そうなの?」

「2人以上で組んだほうが、意見とか言い合って議論したり、お互いの弱いところを補ったり。メリットが結構あるみたいよ。ものによっては1人じゃ厳しい実験もあるみたいだし。現実問題として研究テーマをそんなにひねり出せないっていうのと、部費っていうものがあるけど」

「部費は大きいね」

 千谷君は笑った。吹奏楽部は一番お金がかかる部活だろう。たまに1g1万円する試薬とか10万100万する器具を見て驚くこともあるけれど、楽器は安くたって10万はするだろうし。ティンパニとかいくらするんだろう。しかもほとんどの楽器が1台というわけにはいかない。それを部活のためだけに揃えることになる。

「部費だけじゃ足りないからPTAやOBなどからの寄付で楽器を買う。その期待に応えるのもあるし、自分たちもいい演奏をしたい。吹奏楽部はみんなが1つの目標に向かって1曲1曲にかける。当然何時間もその曲や基礎練習に時間を全部つぎ込む。そうやって自分の技術をお互い調合させて演奏を作っていく。すべてはコンクールのために。

 でも、コンクールで発表するとか大会で勝つだけが目標じゃなくて、もっといくつもの目標を持ってもいいのかもしれない、と思ってね」

 千谷君の態度に、少し思い違いがあったことに気付いた。結果的ではあるけれど、寄り道ばかりしている私たち化学部のことを、時間の無駄だという人はいる。目標に向かって一心不乱に努力した者がこれからの受験や就活、ひいては人生の困難を乗り越えることができる、という人はいる。間違ってはいないのかもしれないけれど、私はそんな人たちが簡単に切り捨てたものは必要なかったなんて思わない。

 吹奏楽部での練習に耐えられなくなったと聞けば逃げかもしれない。そうだったとしても、彼が腰を据えて取り組めることが何なのかわかる日のために、たとえ浮ついた気持ちのためであっても彼を受け入れてもいい。私たちも、貪欲に研究につながる何かをつかんでみせる。

「今日から倫太郎と私で化学部のことと研究のことについてたっぷり教え込むから」

「よろしく」

 遠くから吹奏楽部の演奏の音が聞こえてくる。吹奏楽部の人たちは自主練に戻ったのだろうか。千谷君は外を眺めていた。

「あのさ」

「うん?」

「兼部でも、いいんだよ。化学部はいないみたいだけど」

「大丈夫。あきらめはついてるから」

 そのまなざしは、どこか覚悟を決めたように見えた。

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