恋とブラスと回り道

恋とブラスと回り道 1

 今日も実験室では実験が行われている。研究の一環の実験としては、経過観察をしているものだけ。私、水野みずの一菜かずなが所属する化学部では、一週間のうち一日だけ全体で実験をやる日があって、今日がその日なのだ。

 今日のテーマは金、銀、銅メダル。銅板から銀色のメダルと金色のメダルを作った。

 まずは銀メダルから。銅板を何となく丸い形に切り抜いて、亜鉛の粉末の入った水酸化ナトリウム水溶液に漬けて加熱する。すると、銅板が銀色になった。これは溶液に溶けている亜鉛イオンが銅板の表面を覆う、つまりめっきされたんだって。

 有名なものだと1つはトタン、鉄に亜鉛をめっきしたもの。

 もう1つはブリキ、鉄にスズをめっきしたものだ。

 そしてこの亜鉛でめっきされた銅板、銀メダルをあぶると金色になる。これは銅と亜鉛の合金、真鍮しんちゅうっていうんだ。金管楽器や五円玉はこれでできているんだって。

「すごーい。本当に金と銀みたい」

 3枚のメダルを流水で洗い流して眺める。蛍光灯の光を受けてきらきら輝くメダルたち。銅メダル以外は偽物だとわかっていても、その輝きは等しく美しい。保護メガネを外した今は特によく見える。実験中は常にハイテンションな二渡にと先輩に負けないくらいあまりに私が盛り上がっていたからか、気に入ったかい、と白川しらかわ先生が近づいて来た。

「オリンピックの金メダルは金でできているようだが、小さな大会のメダルだと真鍮製が多いだろうね。銀も錆びやすいから保存用には向かない。まあ、その効果を利用して中世の欧米貴族たちは銀食器を使っていた、という例もあるよ。硫黄などの毒が盛られていたら黒く変色してわかるように、と」

「ええ……」

 そんなにえげつない理由で使われていたとは。

「確かに、銀のアクセサリーも、ずっとつけていたり古いものになってくると黒ずんでくるよね。これも空気中の硫黄分と反応するからなんだって」

「でも、その錆が被膜となって中は無事なんですけどね」

 即席班の圭希たまき先輩と炭谷すみや先輩が解説してくれる。シルバーアクセサリーを持つことになったら気をつけなきゃいけないな、と心のメモ帳に書き込んでおいた。

「あと、この銀メダルのめっきも、表面が綺麗ってだけじゃない、中の金属を守るための技術だ」

 隣の班の井生いおう先輩もこちらの話に入ってきた。

「亜鉛が酸化被膜を作るからね。傷がついても亜鉛の方がイオン化傾向が高いから亜鉛の方から酸化されて中の銅は守られる」

 圭希先輩がノートに絵を描いて説明してくれた。

「あのー」

 いつの間にか戸口に人が立っていたことに気付いた。お客さんが来ていたようだ。

「誰に用がありますか?」

 白川先生が彼に尋ねる。制服を着ているから生徒が誰か先生を訪ねてきたのだろう、ということまではわかった。

「誰だろうね、あのイケメン」

 小木曽おきそ先輩がもう一つの即席班の仲間内に囁く。彼自身もアイドルのような二枚目だが、来訪客の方は少女漫画にでも出てきそうなハンサムな人だった。しかも背が高くて色も白い。かなり噂にもなりそうな風貌をしているというのに先輩方は誰も知らないと言う。

「実は化学部に入部したいと思ってきました。1年F組、千谷ちたに昂輝こうきです。どうぞよろしくお願いします」

 そう言って軽く頭を下げた。それを聞いてみんなが集まってくる。先生や先輩方は私と唯一の同級生、光本こうもと倫太郎りんたろうを前に立たせた。なぜか普段かけている黒縁メガネを外している。この2人が一年生だから、と私たちを紹介する。入部希望者が増えてくれるのはうれしい。彼は実験の机を覗き込んでこう聞いた。

「ところで皆さん、今何をしているところなんですか?」

「化学変化を見る実験で、めっきと合金の実験」

 部長の圭希先輩がざっと今までやっていた実験の原理を話す。

「本当にこいつ入部する気があるのか?」

 倫太郎がメガネを拭きながら囁いた。今日は保護メガネはしなかったらしい。実験終わりに水洗いしていたのか。

「どういうこと?」

「本気で入部を考えているなら、来る時間が中途半端じゃないか?」

 部活開始時刻から既に1時間は過ぎている。仮入部期間はとっくに過ぎたこの時期、体験入部としては来るのが遅い、といえなくはない。

「そうだけど補習とか課外授業とか委員会とか、遅くなる要因はあるんじゃない?」

「どうだか」

「1年生2人ー」

 圭希先輩の呼ぶ声で倫太郎を輪に連れていく。

「何でしょう?」

「時間も中途半端だから、ぱっぱと片付けて簡単な歓迎会やろうと思うんだけれど。2、3年生が実験の片付けやるから、2人で千谷君を連れておかしと飲み物の買い出しに行ってくれる? お金はみんなで出し合うし」

 いいですよ、と返事しようとしたとき、衝撃の事実が発覚した。

「俺、一銭も持ってないですけど」

 倫太郎が手を挙げて言う。

「ほんとに?」

「ああ。高校に財布すら持ってきていない。必要がないからな」

 先輩たちも目を丸くしている。

「理科系の部ってお菓子以外にもいきなり買い出しとかあり得るから千円くらいは持ってて!」

「というか小中学生じゃあるまいし……」

「ICカードとかも持ってないの?」

 確認したところ現金、電子マネー、プリペイドカードその他一切持っていないらしい。

「千谷君、ごめん。入部早々買い出しに行かせてしかもお金使わせることになっちゃいそうだけど」

「構わないよ。ただ、諸事情あってオレ今外に出ないほうがいいかも……」

「ええ?」

 外に出られないってどういうことよ。そしたら帰れないじゃん。いや、そういう問題じゃないかも。まさか、とは思う。私と倫太郎はこの部に入ってから続々と謎に付き合わされている。化学部に面倒ごとを連れてきたってことなんだろうか? 何かものすごく嫌な予感がした。

「どういう事情? それ」

 問い詰めても彼は必死になって目を逸らしている。

「え? 千谷君も嫌がってんの?」

 私たちの会話に不信感を抱いたらしい小木曽先輩がこちらに入ってくる。

「いえー、そんなことは」

「さすがに一菜ちゃん1人ってのはね。倫太郎、土下座して一緒に行け」

「ここで土下座はやめてほしいけれど。廊下に出てからやって」

 圭希先輩はため息をついた。土下座までさせるなという気分の問題ではなく薬品がこぼれているかもしれない床で、というおそらく安全面の問題だろう。

「でも本音を言うと、お金の問題はともかく今日は1年生同士で交流するのもいいかなって。そのほうが溶け込むのも早いし、千谷君1人で研究がしたいというならそれで結構だけれど、1年生2人の研究グループに入ることも視野に入れたほうがいいし。あと右も左もわからないのに片付けグループの中に取り残されても気まずいでしょ。

 万が一アレルギー持ちで食べられないものばかり買ってきても困るわけだし」

 圭希先輩の言葉に、千谷君は「そうですね」と頷いた。

「行こうか」

 ひとつに縛っていた髪を解いて財布を取り出すと、千谷君、そして倫太郎に声をかける。倫太郎はしぶしぶといった感じでついてきた。荷物持ちに任命されたらしい。

「ところでいくらくらい持ってる?」

 千谷君は腰に手を当てて「2千と700円くらいなら」と答えた。彼は結局マスクとその辺にあった白衣で正体をごまかして外に出ることにしたらしい。ちょっと不審者めいているけれど。

「よかった。私一人でこの人数分のお菓子代を建て替えるには不安があったし」

「おかしとジュースってそんな高いもんじゃないだろ」

 後ろでぶつくさいう倫太郎に、一文無しは黙れ、という視線を投げかけた。

 後日払う、という約束で立て替えた倫太郎の分は回収できたけれど、仮入部ということになった千谷君の問題は序の口に過ぎなかった。

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