コンクリート・ブラックボックス

コンクリート・ブラックボックス 1

 連日の雨でも、私たち化学部は地道に研究を進めている。

 テーマも決まり、試薬を揃えて、我ら1年生班はようやく先行研究の再現を始めることができた。1年生班といっても、私、水野みずの一菜かずな光本こうもと倫太郎りんたろうの2人なんだけれどね。私は授業についていくので精一杯だけれど、倫太郎はいろいろなことを知っていて、そのおかげでちょっとした謎を解いてしまうことがあったんだ。でも偏屈で何かと皮肉をつけるから早く行って準備しとかないと。

 ということで今、化学部の活動場所である化学実験室に向かっている。その手前にある化学講義室の廊下の窓を覗く。今のところ雨は止んでいるようだった。

「どんどん入れて―」

 化学エリアの廊下には三和土に出られる通用口がある。この前シアン化水素を吸い込んでしまった時は、倫太郎にここまで連れ出してもらえたからほんの軽症で済んだ。今はそこを先頭に体操服姿の生徒たちが短い区間を行ったり来たりしながら荷物を受け渡ししている。その中には仮入部の時に知り合った軽部かるべ君もいた。

「どうしたの?」

「部室棟閉鎖が決まったんだ。必要最低限のものだけ体育倉庫に移して、後は一時的に空き教室に運び込んでる」

 陽太ようた、早くー、と隣の男子が呼んでいる。ごめん、後で、と軽部君は荷物の受け渡しに戻った。

 運動部らしきガタイのいい生徒たちが外にいる人から手渡された荷物をバケツリレーの要領で次々と運び込んでいく。この間をちょっと通して、とは言いづらかった。ちらりと見えた段ボールの中身には布や本もあった。いつ雨が降ってくるかわからない切迫した中で荷物を運んでいるのが分かったから。

「わあ」

「どうした?」

 後から来た先輩たちは声を上げた。

「部室棟が閉鎖されることになって、荷物を空き教室に運び込んでいるみたいです」

「え? 何で?」

 圭希たまき先輩が聞く。隣にいた井生いおう先輩も頷いた。

「昼休みもこんな感じだったな」

 よく知ってるな、と思っていると、小木曽おきそ先輩が耳打ちしてきた。

「ほら、うちの部っていろいろあったじゃん? それで先輩たちが文化祭の人の入りが悪くなったらって心配してたから。後根うしろね先輩は演示実験が例年通りできるように先生方と掛け合っているみたいだし、井生先輩は化学の辺り一帯を掃除したり薬品管理マニュアルを作ったりしてたみたいだから」

 つい最近まで青酸ガスの事故が起きたばかりに活動場所の化学実験室が閉鎖、そして私たちが所属する化学部も活動停止状態だった。そんな中でも、先輩たちはできることをしていたんだ。

 いつの間にか雨が降り始めていたようで、積み上げられた荷物はもうなくなっていた。

「では各自活動再開して大丈夫でーす」

 ため息をつく部員たちは移動する体力もなくなったのか廊下で一休みを始めた。息を切らした制服姿の女子たちが頭を下げて回る。体力づくりの一環になるからいいのいいの、とさっきのセリフと同じ声が聞こえた。

 ベリーショートの髪型で、私より拳一つは高い背に引き締まったボディラインは日頃のトレーニングの成果の賜物だろう。少し丈が短くなったTシャツはそれを惜しげもなくさらしている。そしてわたしの耳にも入ってくる文武両道の噂と饒舌さから生徒会役員となり、次期生徒会長に一番近いとされる。宝井たからい有海ゆうみをじっと見た。

「ここは通路だ。もう少し何とかならないのか」

 井生先輩が彼女に文句を言った。

「あなたたちは……なるほど、化学部ってことですか。

 野郎ども、道を開けろ」

 床に這いつくばった生徒たちは彼女の命令に従ってアザラシのように寝返りを打って道を開ける。

「ではどうぞ」

 それでいいのかわからないけれど、とりあえず私たちは彼らを踏まないように歩くしかない。

「皆さん! 何してるんですかこんなとこで!」

 後ろで三つ編み姿の二渡にと先輩がきいきい怒っていた。

「まさか先輩たちも足止めされてたんですか?」

 炭谷すみや先輩が二渡先輩の後ろからひょっこりを顔を出す。そうなんだよ、と小木曽先輩が話し出す。

「部室棟からの荷物の運搬で大渋滞」

 それを聞いて2人はきょとんとした顔をした。

「荷物の運搬?」

「部室棟から?」

「そう。ここでバケツリレー」

「つまり、俺たちとは違う理由で足止めを食らっていた」

 さらに後ろから、指先でメガネをくいっと挙げながら倫太郎が歩いてきた。

「何があったの?」

「部室棟建て替えに対しての署名運動。何人もが紙を持って追いかけてきた」

 怖っ。

「それは失敬。3年生に頼んだから焦っていたのかもな」

 宝井先輩の言うこともそこそこに倫太郎は辺りを見回した。

「つまりそこの通用口から部室棟に置いてあった荷物を校舎内に運び込んでいたってことか」

「うん。部室棟を閉鎖するんだって」

 倫太郎は口を閉じた。

「そこまでひどいのか」

「1990年に建てられたからな」

 宝井先輩が答える。そりゃあ、古いね。

「気をつけろ。こいつは生徒会の権力だかを使って何か企んでいあがる」

 いつの間にか横にはクラスメートの前佛まえふつけいがいた。確か彼女は陸上部だ。彼女はメガネの奥から厳しい視線を宝井先輩に向けた。

「ほう、ホタルちゃん」

 そう呼ばれて前佛さんは顔を真っ赤にした。

「その呼び方はやめろっつってんだろ!」

 宝井先輩は前佛さんをヘッドロックした。前佛さんは小さい体をばたつかせる。

「部室棟閉鎖だって勝手に決めあがってえ!」

 えっ! 部室棟閉鎖って宝井先輩が決めたの?

「そんな一生徒が決められることなんですか?」

「まず部室棟っていうのは教職員の介入が制限されている。実質は生徒会の名目で運営しているんだよ。だから本来ならば治外法権で生徒たちが意思決定を行うことができる。

 だがね、今回は私の独断ではない。部室棟を使う部のトップで話し合って決めたことだ。生徒会としてそれを受理し、教員に話を通したうえで閉鎖が決定した」

 その言い方だと過去には独断があったんかい、とツッコミたくなるけれど、まず根本的な疑問が沸き起こった。

「そういえば、どうして部室棟を閉鎖したんですか?」

 いくらトレーニングになるとはいえ、あれだけの荷物を運び出したということはそれなりに長く封鎖、もしくは建て替えなど何か工事をするということだろう。

「しかも建て替えの署名を始めたばかりだろう?」

 小木曽先輩が言う。そっか、署名を集めているってことはまだ工事の計画すら始まってないのか。宝井先輩は大きくうなずいた。

「ここにいる部は何らかの形で部室棟を使っている。今はそれぞれの目標に向かって練習を重ねているころだ。もうすぐインターハイの予選も近づいている。我々はそうした現状を踏まえ、老朽化が進んだ部室棟の早急な建て替えを学校に要求している」

 なるほど、一応理屈は通るね。

 道路に面している部室棟は、利用する機会のない私でも目にしたことはある。確かにボロい。先輩の言うように喉から手が出るほど欲しい練習時間を削って荷物を運び出すということは、よほど耐久性に問題があって急いでいるに違いない。

「ただの老朽化なら建て替えだって検討するはずだ。倒壊してからでは遅い。署名運動だっていらないだろう?」

「学校側は建て替えを保留にした。PTAからも声が上がっているというのに。耐震工事なら行うとは言ったがそれでは意味がない」

 宝井先輩は周りを見回した。荷物を運び込んでいた部員たちがこちらに視線を集めている。彼らは行く末を固唾を飲んで見守っている。

「実は現在、体調不良を訴えて部活動に顔を出さない部員が続出している。実は例年こうした声が上がっていて、徐々に数が増えているようなんだ。このような状態が続くと人数不足で大会に出られなくなる可能性も出る。そのような状態に陥っているすべての部が、ミーティングや倉庫代わりなど何らかの形で部室等を使っている。だから一時しのぎではあるが部室棟の使用を中止し、これ以上立ち入りの必要がないようにすべての荷物を運び出すことにした」

 そう言って映画の別れのように宝井先輩は手を振った。化学部も部活始めるぞ、と井生先輩が声をかける。

「あれ、そういえばあの子」

 もう疲れから回復したどこかの部員が立ち上がる。

「蛍光灯の時のかわいい子だ!」

 それを聞いてひゅー、と一部の男子生徒が立ち上がる。あ、まさかあの時のサッカー部。

「そうだ、化学部って言ってたもんな」

「それとそこのメガネか」

 勝手に盛り上がるなか、地獄耳であろう宝井先輩は聞き逃さなかった。

「何かあったのか?」

「あー、あれはその、蛍光灯から僕たちを救ってくれて」

 軽部君、フォローになってない!

 ますます宝井先輩は聞き耳を立て始めた。話を聞き終わると、私たちの肩をポンと叩く。

「そうかそうか。そんなことがあったんだな!」

 化学部の先輩たちは家族を見送るような優しい笑顔を浮かべている。ちょっと!

「よし! とりあえず部室棟のことを調査してもらうからな! 明日の昼休み部室棟前集合だ!」

 ちょっと! 私の大事な昼休みが! クロロとの楽しい昼休みが!

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