青酸カリのメッセージ 10
始める、と一言言って、倫太郎は塩酸の瓶を開ける。白煙を上げたことに躊躇せず駒込ピペットを瓶に差し込む。濃度が薄いし厳密なものでないから許される行為だ。
駒込ピペットを取り出すと、ほんのり黄色を帯びた液体が吸い上げられていた。それを流しに置かれたシャーレに注ぐ。やがて粉と混じりあっていった。ほんのり甘い香りがする。あ、これだ。このクスリっぽい甘いにおい。あの日嗅いだのはこの匂いだった。
はっと我に返る。急いでマスクを着けてクロロの口にハンカチをあてた。
「杏仁豆腐の匂い、じゃないの?」
「なるほど。ベンズアルデヒドか。これで正真正銘、この粉が毒ガスのもとだということが証明されたよ」
倫太郎はクロロの方を見て口角を上げる。その瞬間、クロロはよろよろと後ろに後ずさった。
「言っておくがベンズアルデヒドは無害だ。だが青酸ガスの発生方法の1つには、副生成物としてベンズアルデヒドも発生するものがある。
あの日毒ガスが発生する可能性があるものとしては、とあるバカの本来の実験に用意されていたもの以外だとすると、ゴミ箱に放り込まれたチャック付きの袋に入っていたこの粉、それから塩酸のしみ込んだ雑巾くらいだ。原理もいたって簡単なものだよ。雑巾にしみ込んだ塩酸と穴だらけの袋に入った粉が反応してベンズアルデヒドと青酸ガスが発生したんだ。それに気づかずに2人の人間が青酸ガスを吸い込み中毒を起こした。過程だけ見ればただの事故だよ」
蛇口をひねってちょろちょろと水を流す。シャーレに注がれた水はやがてあふれて排水溝へと流れていった。
「過程だけ見れば確かに事故。でも、じゃあその粉の正体って何なの?」
「水野のすぐ近くにもあったじゃないか」
「は?」
「化学物質名としてはアミグダリン。一般人が手に入れるとしたら、種の粉末。
例えば、君たちが仲睦まじく食べていた、ビワの実の種」
ビワの種。クロロをちらりと見た。足がガクガク震え、汗が噴出している。
「それって確か若いアーモンドや梅に含まれる毒だよね? 熟した果実にも含まれるの?」
「もちろん果肉自体にはほとんど含まれていない。だがバラ科の植物の種子、リンゴとかサクランボとかモモとか、には含まれている。だが普通種なんか食べないだろう。それに中毒を起こすには相当な量が必要だ。あるいは今回のケースのように、種をすりつぶすなどして反応しやすいようにしておかないと」
「その証拠に袋がすごくボロボロになったってこと? 袋に種子を入れて、その上から叩いたりすりつぶしたりしたから」
「残念ながらこれでは人は殺せない。ただ毒ガスが発生するのは事実。大量に飲み込めばそりゃあ自殺ならできるかもしれないなあ。大量の粉末を飲み込んで、胃酸と反応させる。即死とは言われているが、胃が焼けるような激しい腹痛が襲い、息ができないとのたうち回って死んでいく。死体の姿もきれいとはいいがたい。体は真っ赤にはれ上がりアーモンド臭を発する。うまく死ねればまだいいとしても脳への酸素供給を止めるというから命が助かっても一生チューブだらけの植物状態――」
「いやあああぁーーーーー!」
クロロは耳を抑えてうずくまってしまった。
「クロロっ、クロロ!」
ガタガタ震えるだけで何も言ってくれない。
「どういうことよ! 倫太郎!」
「サプリメントどころか市販品ですらねえっていうのは気付いているよな。他人を殺すには使えねえ作るのだって相当な手間と金がかかる。化学実験室に落としたってことは常に持ち歩いていたってことだ。そして今お前の目の前にいる塩崎の姿を見てわかる真実は一つしかないだろう」
準備室の入り口でうずくまって泣いているクロロ。
ビワの木があるのはパパの実家。でも、そのパパがいるのは――。
「やだあ……死んじゃ嫌だあ!」
涙と鼻水が止まらない。クロロに抱き着いてわあわあ泣いた。
「いやだあ! 置いてかないでえ!」
「……そだね」
クロロはポツリとつぶやいた。
「誰かの死ほど、悲しいものはないわね」
暖かくなめらかな手が頭をなでる。はたと泣き止んでいる自分がいた。
「きっと私もそうだったのよね。パパが事故で死んだ日、こんな風にママに抱き着いてわあわあ泣いてたんだと思う。ママもずっと悲しかったんだね。
お父さんは、すごくいい人。ママを明るくしてくれた人。私のこと、わかちゃん、って呼んで可愛がってくれる人。でも、新しい家族の中で幸せに浸っていくほどパパのことを忘れていくのが怖かった。塩崎若菜に染まりきってしまう日が来るんだって、涙が流れた。
言い訳させてもらうと、実際サプリメントだったんだよ。ビワの種の粉。製造中止になっていたのが引っかかって、調べた。成分と副作用は光本君が言った通り。でもね、嫌になったらこれでパパのところに行けるんだって、こっそり持ってた。
実は少しだけ嘘ついちゃった。パパの実家からはもうビワは送られてこない。私がおねだりしたからお父さんが買ってくれたの。それもたくさん。いい人だよね。ママは食べないって言った。お父さんも遠慮してね。
1人でビワの実を食べながら、種を手に入れてパパのところにいつでも行けるんだって思ったら、もうちょっとの辛抱だねって思って。お父さんとママとあーちゃんとの生活も、少し気が楽になった気がした。なんでだろね、本当に……」
クロロはポケットからティッシュを取り出して、鼻を拭いた。
「こればかりは、癒えることのない苦しみだ。でもな、塩崎。お前の行動は、その苦痛をまた誰かに味わわせるものだったんだぞ」
倫太郎はバッサリと言い切った。私は、身近な人の死を知らない。何も答えられない。
「そうね。一菜が毒ガスを吸ったのも、私のせいでしょ? あなたたちの活動を奪われたのも、先生が倒れたのも」
誰も否定しなかった。
私はクロロの体をギュッと抱きしめかえす。
「でも私は生きてる。白川先生も化学部のみんなも生きてる。もちろんクロロも、クロロのパパさんとの思い出も」
クロロの息遣いが変わる。そのまま腕の中で続けた。
「クロロならこれからずっと楽しい思い出を引き継いでいけるよ。私や、倫太郎や、白川先生や、ママさんやお父さんやあーちゃんやもっとたくさんの誰かに、これからずっと、もっと楽しい思い出をくれる?」
クロロは無言で頷いて、涙をぬぐった。
大丈夫。私たちは笑いあって、ビワを食べていたんだから。楽しかった思い出は、ずっと心に残っているよ。
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