青酸カリのメッセージ 7
3限に入れたわよ。保健の先生に1限の前に呼び出されて一言、そう言われた。
時間通りカウンセラー室に行くと、保健の先生と白川先生、そして彼らと対面する形で井生先輩が座っていた。
「まさか本当に来るとはな」
そう言って井生先輩は立ち上がった。
「申し訳ないけれど、
堀見先生、っていうんだ、と全く関係ないことを考えていると、堀見先生は何でよ、と言いたげに無言で席を立って私たちと入れ替わるように出ていった。
「まず、水野には迷惑かけたと聞いている。すまなかった」
井生先輩は深々と頭を下げた。
「光本の話も聞いている。命の恩人だ、とな」
倫太郎にも頭を下げると、私たちに席を勧めた。
「で? 外部の人間がいたら聞きづらいことを聞きに来たんだろう?」
自身もどっかりと椅子に腰を下ろし、手を組んだ。
「君たちも気付いたってことか」
「あなたが倒れるほどの事態だからな」
「僕も君たちに迷惑をかけてしまったね」
このやり取りを聞いていた井生先輩の目が泳いだ。倫太郎が井生先輩の目を凝視する。
「ここからが本題だ。井生さん、あなたはシアン化カリウム、いわゆる青酸カリを作ろうとしていた。違うか?」
「ああ、そうだ」
「目的は何だ?」
「受験のストレスで死にたくなった」
井生先輩はさらりと答えていった。白川先生は苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「今の時期で、ですか?」
「もう1年ないんだよ」
死んだ魚のような目で見つめられる。まだ1年生だからって思われるのかもしれない。そりゃあ、人によって時間の感覚は違うかもしれない。希望校と実力の差にギャップがありすぎたり、家庭の事情でプレッシャーをかけられたりしている、そうなのかもしれないけれど。
「仲間はいなかったのか?」
白川先生が話しかけても、うんざりした表情を見せるだけだった。散々聞かれたんだな。少なくとも圭希先輩とはそこまで仲いいようには思えない。
井生先輩は居住まいを正した。
「もういいでしょう。俺は化学部をやめます」
「え?」
「後輩に迷惑かけた。先生も倒れたって聞いた。全部俺のせいでしょ?」
「それは……」
「原因がそうなんだから。俺自身の問題は俺が何とかします。だから――」
「やだね」
答えたのは白川先生ではなく倫太郎だった。
「ちょっと、倫太郎が口出すところじゃ――」
「自殺を考えるんだったらもっとおあつらえ向きの方法があったでしょう」
「は?」
次のセリフを聞いて思わず本音が出てしまった。白川先生もドン引きしている。
「シアン化カリウムは確かに即死できる。だが苦しい。ドラマとかで見たことがあるんだろう? 死の間際にもがき苦しむ。シアン化水素で死のうと考えたならもっと苦しいぞ。今回の比じゃない。それを知っていてシアン化カリウムを選んだのか?
それから仮に人を殺すために作ったんだとしても、毒だと分かるほど苦いという。足も付きやすい。
もう一度聞く。シアン化カリウムを作った目的は何だ? 本当に受験のストレスから逃げようと死ぬために作ったのか?」
井生先輩は身を乗り出した。こめかみをぴくぴくさせている。聞いた本人はいたって真面目な顔でその返答を待っている。
「本気で言っているのか?」
「白川先生が何も言わないなら俺から言わせてもらう。お前が考えている以上に深刻な問題なんだよ。
まずな、学校で事故が起きた。こうなれば教育委員会やらなんやらが調査に入る。調査が入れば余計な仕事が増え本来の活動、授業などが後手にされるだけではなく、学校の信用問題に関わる。本当にお前が自殺を考えていたなら、そういう調査も入る。いじめ、体罰、指導上の問題、挙げていけばきりがない。マスコミだってこんなにおいしい餌を放っておかないだろう。
それから化学部をやめると言ったな。お前が辞めるのは結構だ。だがな、残された俺たちの方はそれじゃ終わらない。現に活動停止、再開されても制限がつくかもしれない。場合によっては廃部だったかもしれない。
井生さん、一瞬でもこんなことを考えたのか? 今どうしてこの程度の処遇で済んでいるのか考えてもいないのか?」
比較的淡々と、それでも言葉には鬼の気迫を込めて、倫太郎は言った。白川先生は顔を背けていた。そうだった。部活動で青酸中毒になったんだ。教育委員会に話を聞かれたりマスコミに追いかけられたりしなかったことを疑問に思わなければならなかった。全部学校側がうまくやったのだろう。私たちの保護と引き換えに、白川先生が削られている。
「先生、ごめんなさい……」
「謝ることはない。こっちは当たり前のことですよ。実を言うと、自殺を考えたかもしれないって知っているのは僕と堀見先生含めて数人。他の先生方には事故だと説明していまする。断定できないうちはそういう話を広げたくないので」
未だにクマの残る顔でほほ笑む。
「はっ」
井生先輩がふんぞり返る。次のセリフは「そうだろうな」だった。
「学校が必死こいて隠しているのも学校の名誉を守るため。俺に優しく寄り添ってくれるのも教育委員会から文句を受けないため。あなたのためあなたを思ってよりよっぽど清々しますよ。
俺は、青酸カリを作りたかった」
数秒の沈黙の後、「何の話ですか」と聞いてしまった。
「青酸カリを作った理由だ」
倫太郎はそのまま待っている。白川先生はメモを書く手を止めていた。
「実はブログを書いているんだが、ネタを探していたら偶然青酸カリの作り方を知った。しかもフェロシアン化カリウムから。本当にできるのなら作ってみたかった。作って何かしよう、じゃなくて。もちろん何もかも調べたさ。青酸カリの性質から反応式、詳しい方法、処理の仕方まで全部。先生も他の部員もいない、そんな日が来れば作ってみようと考えた。それがたまたまあの日だった。フェロシアン化カリウムがあったから。準備していた時は今しかない、それだけだった」
淀みなく話す彼の話をあっけなく聞いていた。内容を理解してすぐに頭に思い浮かんだのは、自分勝手、だった。
「その話、本当か?」
白川先生は尋ねる。井生先輩は「そうです」と答えた。
「井生さん、その話が本当なら用途外使用、世間でいう横領だぞ。学校の備品で何をしたと思っている」
白川先生はドスの効いた声で言った。私たちが使っている薬品は、学校で購入したものだ。
「天罰だと思っています。マッチを出そうとしたら甘いにおいがして、それを嗅いだら立っていられないほどの頭痛と吐き気が襲ってきた。なるべく遠ざかろうとして、這って、椅子につかまり立ちしようとしていたら、水野に声をかけられました」
たぶん私と同じ匂いを嗅いだのだろう。
「……井生さん、あの日のことを事細かに説明しろ」
口を開いたのは倫太郎だった。むすっとしながらも井生先輩は答える。
「青酸カリが欲しかったから――」
「時系列順で話してください。後根さんが実験室から離れた経緯から」
「――あの日ももちろん普段通り鉄イオンの実験を行おうとして、フェロシアン化カリウムとフェリシアン化カリウムを用意した。白川先生、あなたが薬品庫の鍵を開けたんだからそこまでは知っていますね。あなたは何かで呼び出され、そしてこれもたまたま、後根のスマホに電話がかかってきた。彼女は長丁場になりそうだということだけ伝えて実験室から出ていったんだ。
俺は必然的に1人で準備をしていた。とりあえず実験台を拭いたり、薬さじを用意してみたり、落ちていたゴミを捨てたりしたが、フェロシアン化カリウムが残ってた以上、青酸カリのことが気になって仕方がない。いつもは早いお前たちも来ない。青酸カリを作るなら今だ、と思って急いですべての窓を閉め戸を閉め、ガスバーナーなどを用意し、マッチをとろうとした。そうしたら甘い匂いがして頭痛と吐き気がした」
「実験はしてない……?」
「それどころかフェロシアン化カリウムの瓶にも触っちゃいない。あれ、新品だろ?」
「何で甘い匂いを嗅いだんですか?」
「実験室のあのあたりでそういうにおいがしたんだよ。まさかシアン化水素だとは思わなかった」
「え、ちょっと待って、えーと……サプリメントの袋は?」
「はあ? んなもん知らん。確かボロボロのチャック付きの袋がゴミ箱の中にあった気がするが」
「最後の質問はともかくとして、井生さん、本当に実験していないんですね?」
白川先生が正対する。井生先輩ははっきりと、していません、と答えた。ノックの音が聞こえると、保健の先生、堀見先生が入ってきた。
「4限の時間です」
少しピリピリした感じで入ってきた。交代しなさい、と言いたいのだろう。私たち3人は部屋を出た。
「おい、水野。最後の質問は何だ?」
倫太郎が詰め寄る。仕方なく友人がサプリメントの袋を実験室でなくしたかもしれない、という話をした。
「悪いけど見つけたとしても捨てるしかないし、そもそも必要のないもの、特に口に入れるものは実験室に持ち込まないでほしい、と言ってくれますか」
「そうですよね」
実験室での飲食はご法度だ。白川先生の言う通り必要がないなら持ち込まないほうがいいに決まっている。すっかり見落としていた。
「クロロってやつのことか?」
倫太郎に聞かれて、心臓が跳ね上がった。
「う、うん」
「本当は何て言う名前なんだ?」
クラスメートなのに知らないの? という言葉を飲み込んで、「塩崎若菜だよ」と答えた。
「それじゃあ、何でクロロって呼んでいるのですか?」
白川先生は私の目線に合わせて少し腰をかがめた。死んだ魚のような目をしている白川先生の瞳が、こちらをじっと見る。倫太郎もこっちを見ていた。
「実は同じ小学校に通っていたんですけど、その時は黒尾若菜でした。当時学校で流行っていたアニメに出てくるカエルのキャラクター名をもじってみんながクロロって呼んでいたんです。
塩崎若菜として現れた彼女を何て呼んだらいいかわからなくて、名前で呼んだりもしたんですが、クロロと呼んでって本人が言ってくれたので、そのまま呼んでいます。どうやら中学生の時にお父さんが亡くなってそんなに経たずにお母さんが再婚したみたいで」
「本人はいいって言っているわけか。でも、他の人たちはそのことを分かっているんですかね」
白川先生は倫太郎のことをちらりと見た。
「塩崎と同じ中学だった人間なら事情は知っているかもしれないが、少なくとも俺は知らなかった。いちいち説明して回るわけにはいかないだろう? 大概の連中は疑問に思うだろうし、捉え方によってはいじめに見えるかもしれない。下手をすれば塩崎の名前がクロロだと思う奴も出てくるぞ」
「そりゃそう……だよね」
本名以外の呼び名は、本人がいいと言っていても誤解を招くことだってある。由来を知らない人たちが冗談交じりに呼ぶようになったりしたら、嫌だ。
「でも少し見えてきたな」
倫太郎がつぶやいた。何が、と聞こうとして白川先生に4限が始まりますよ、と急かされた。4限は英語だった。
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