青酸カリのメッセージ 4
自転車を引きながら倫太郎の隣を歩く。お店のガラスに映る私たちはどう見えるだろう。倫太郎はなかなか話を切り出さなかった。そもそも誘ったのは向こうなのに。
「何であんな勢いで私たちを出したんだろうね」
昇降口でつぶやいたのが意外にも聞こえてしまった。
「一緒に帰るか?」
「へ?」
「その件で少し話がしたい。途中までは一緒だろう?」
そのまま待ち合わせて歩き出すも、2つも信号をわたり、近くのドラッグストアを過ぎ、今の今までこうして歩いている。
「昨日の実験室」
ふいに沈黙は破られた。
「机に置いてあった試薬、見たか?」
「うん。フェロシアンなんとか。確か井生先輩と圭希先輩の研究で使っているやつ」
「フェロシアン化カリウム、な。正式名称はヘキサシアノ鉄(Ⅱ)カリウム。まあわかっているならいい。
ところで、井生はどんな実験をしようとしていたと思うか?」
「そりゃあ、ガスバーナー、三脚、金網、蒸発皿が用意されていたってことは、そのなんとかカリウムを加熱する実験をしようとしたんだよね? 他に必要そうなものは一通り揃っていそうだったし」
「ヘキサシアノ鉄(Ⅱ)カリウムを加熱するとシアン化カリウム、つまり青酸カリになる」
「青酸カリ……って、あの?」
「そうだ、刑事ドラマや推理小説なんかで毒殺するのに使われるあれだ」
実は「青酸」とか「アーモンド臭」という言葉をどこかで聞いたことがあるような気がしていたのだ。その手のものはあまり見ないが、前に某探偵マンガで聞いたことがあった。
「じゃあ青酸カリが青酸ガスになって、アーモンド臭がする?」
「だいぶ整理したほうがよさそうだな」
倫太郎はため息をついた。
「まず青酸カリの気体イコール青酸ガスではない。そもそもシアン化カリウムとシアン化水素は違う物質だ」
「あ、そうだね」
それぞれシアン化物イオンとカリウム、水素が化合した物質という意味だ。青酸カリはシアン化カリウム、青酸ガスはシアン化水素と呼ばれていたのに、すっかり忘れていた。
「だが、実は水野の考えはあながち間違っていない。シアン化カリウムは放置しておくと空気中の二酸化炭素と反応してシアン化水素になる」
「ウソっ。二酸化炭素は空気中には0.03%しか含まれていないのに?」
たしか小学校で習った記憶がある。
「生物は常に二酸化炭素を排出している。試薬はそもそも放置しておけば空気中の酸素や水蒸気と反応していくだろう?」
まあ、そうだけれど……。水酸化ナトリウムが脳裏をよぎった。
「酸素や水蒸気と反応するのは、割合が多いからわかるけれど、二酸化炭素と反応するってよっぽどじゃない?」
「水酸化ナトリウム水溶液も二酸化炭素を吸収するぞ」
「そうなの?」
「ああ。微々たる量だが炭酸水素ナトリウムや炭酸ナトリウムになる。だから中和滴定を行って濃度を求めるんだよ。それ以前に水野は量りとりで苦戦していた――」
「あーあーいいですー」
自転車のハンドルをつかんているので片耳だけを塞ぐ。蒸し返すな、この野郎。
「話を戻すと、シアン化カリウムからシアン化水素が発生する。シアン化カリウムからアーモンド臭がすると勘違いしている人間もいるが、このシアン化水素のにおいこそがアーモンド臭の正体だ」
「そうなんだ……何でそんな勘違いを?」
「小説やテレビドラマの中ではシアン化カリウムを飲み込んで死ぬ。シアン化カリウムは細胞内の酵素と反応して酵素の働きを妨げる。また胃まで届くと胃酸と反応する。いずれの場合もシアン化水素の発生を伴うから、アーモンド臭がするというわけだ。ちなみにアーモンド臭という名前の由来は収穫前のアーモンドがこのような香りを放つことから。実際、若いアーモンドや梅なんかはアミグダリンというシアン化合物に似た仲間の物質が含まれているし、においのもとはシアン化水素だ。吸いすぎなければ中毒を起こすことはないがね」
「へえ。じゃあ若い梅を食べちゃいけないっていうのも、そういうこと?」
「そういうことだ」
結構身近な世界の毒たち。少し恐ろしくなった。井生先輩は、あの日実験室でその恐ろしい扉を開けようとしていた。
「井生先輩は、何でそんな実験をしようとしていたんだろう?」
私ははたと立ち止まった。倫太郎も隣で立ち止まっている。
「3年生2人の実験テーマは鉄イオンについてだ。固体のまま加熱する実験が必要とは思えない。しかも窓を閉め切っていた」
「そうそう。しかも珍しく入り口も閉めていた」
「となるとある可能性が出てくる。井生さんは、シアン化カリウムを生成しようとしていたんじゃないか?」
私は絶句した。背筋が凍っていくのが分かる。倫太郎は続けた。
「シアン化合物は工業的な利用があるために流通自体はしているが、毒劇物に指定されているから一般人が手に入れることは難しい。高校でも購入しないだろう。井生さんは、何らかの理由でシアン化カリウムを手に入れたかった。
飲むには即死するといえども、かなりの苦痛を伴う。しかも苦いという。さらに実験室で作った純度の低いものであればかなりの量を用意しなければならない」
「そんな! 井生先輩がそんなこと考えるなんて!」
「現にお前も巻き込まれただろう!」
わなわなと震えていた。こんな表情を見たことがなかった。
「それこそ大量に必要だがシアン化水素を発生させようとしていたのかもしれない。そうだとしたら? 運が悪けりゃ井生だけじゃなく水野もお陀仏、俺も後根さんもその他の周りの人間もどうなったか分からない。それでもか?」
顔を寄せた瞳の中には、怒りが宿っていた。私を助けてくれたあの瞳は、残っていなかった。
「知らなかったの、かも」
「そんな下調べ不足の状態で実験なんか絶対にやってはいけない」
捨て台詞を吐いて倫太郎は自分の自転車に乱暴にまたがり、行ってしまった。通る車の風圧だけが彼を追いかける。
危ないと考えたから、窓を開けて換気して、有毒なガスを吸い込まないように口と鼻を覆った。それでも、私や、井生先輩を助けてくれたんだよね。
道のど真ん中だというのに、ぽろぽろ涙をこぼしていた。
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