青酸カリのメッセージ 2
私たち化学部にとって、確かに水酸化ナトリウムを量り取り、水溶液を作ることは何回かやったことがある。倫太郎が復習、というのも一理ある。けれど、水酸化ナトリウムは、今知っている薬品の中では一番きちんと量り取ることが難しい試薬だと思う。
まず、粒の大きさ。直径3、4ミリメートルはある。ここからしてピッタリ何グラムは量れない。フレーク状のものもあるみたいだったけれど、いつ開けたか分からないよね、といいながら試薬瓶を先輩たちが棚に戻した。瓶に粉が噴いていたから、開けたら水酸化ナトリウムの粉が飛び散ったかもしれない。それは危険だ。水酸化ナトリウムは皮膚や網膜を侵してしまうというのだから。
でもこの問題は、いたって単純に解決する。実際に量り取った分を正確に記録して、必要な濃度になるだけの水の量を調整すればいいのだから。メスフラスコを使うときには注意しなければならないけれど。
もう1つ厄介なのは、水酸化ナトリウムは放置しておくと、どんどんべたべたになって重くなっていく。空気中の水蒸気を吸収して溶けてしまう、潮解性という性質を持っているかららしい。初めて量り取った時は薬さじを使わなければ薬包紙からビーカーに移せなかった。しかも薬包紙にはべったり水酸化ナトリウムの溶けた跡が残っていた。しかも、かなりもたもたしていたからふたをすることを忘れ、危うくすべての水酸化ナトリウムが溶けてしまうところだった。ビーカーに直接量る方法もあるらしいけれど、あまりに濃い水酸化ナトリウムはガラスをも溶かすらしい。小学生のころからそんなものを使っていたのか、と身震いした。もちろん、小中学生が扱うものは薄めてあるというけれど。
一方の倫太郎は、どこで覚えたんだろう、というくらい器用にできていた。
そんなことを考えていたせいか何とか睡眠学習せずに2時間を乗り切った私は、晴れて化学実験室に来た。もちろん部活のためである。
「こんにちはー」
戸を開ける。今日も返事がないので、そのまま足を踏み入れた。何となく甘い香りがする。
化学実験室をくるりと見回す。ちょっと蒸し暑いのに窓は開けていない。一番奥の前の机には、何かの実験の用意がされていた。薬品の瓶。薬さじと薬包紙。火の点いていないガスバーナー。三脚と金網に乗せられた蒸発皿。かなりぼろい雑巾。だというのに誰もいない。
とりあえずガスバーナーを確認する。ねじも触って確かめたら閉まっているし、元栓も閉まっている。
この薬品は何だろう。ラベルを見ると、フェロシアン化カリウムと書いてある。確か3年生の2人、
机のすぐそばで、白衣姿の井生先輩がうずくまっている。
「井生先輩!」
肩をゆすって 声をかけても、うめき声をあげるばかり。それどころか、なんだか頭がガンガンする。少し気持ち悪い。
「いおう先輩、いおー先輩」
声をかけることすらつらくなってきた。
「水野!」
誰かから呼ばれた。倫太郎だ、と分かった時には、肩を担がれていた。
「窓は開けた。とりあえずたたきまで出るぞ。動けるか?」
「うん……」
言われるがままに二人三脚の状態で非常階段近くのドアの外まで連れていかれる。ゆっくりと座らされた。
「気分は?」
「頭がガンガンする……気持ち悪い」
眼鏡越しの潤んだ瞳と対峙する。倫太郎は鼻と口を覆うようにタオルを巻いていた。顔が何となく火照っているような気がする。返事をした後は目を背けてしまった。
「どうした?」
圭希先輩の声が後ろから聞こえる。開けっ放しになっていた扉に気付いたのだろう。倫太郎は一旦タオルをとった。
「実験室で井生さんが倒れている。多分有毒ガスのせいで。現に彼に近寄った水野が中毒症状を起こしている」
「嘘……」
「これから井生さんを運ぶ。協力してください」
「分かった」
圭希先輩はカバンから取り出したマスクをつけ、先に準備ができた倫太郎を追いかけた。程なくしてぐったりした井生先輩が運ばれてきた。
「どうしたんですか?」
「実験室に有毒ガスが発生したみたい。実験室は封鎖してきた。井生と一菜ちゃんが吸い込んじゃったみたいだから、救急車を呼ばなきゃ。先生方もいないし」
「有毒ガスですか!?」
3人は目を丸くしている。
「とりあえず私が研究室から通報してくる。
「はい」
二渡先輩は圭希先輩と入れ替わり、私のそばへ来た。
「あと毛布と酸素スプレー!」
井生先輩の白衣を脱がせ終わった倫太郎が叫んだ。
「酸素スプレーか。陸上部やサッカー部からか借りてくる」
「地学講義室に毛布があったはずだからとってくるよ」
小木曽先輩と炭谷先輩がそれぞれの方向へと向かっていった。二渡先輩が「きつくない?」と声をかけてくれた。
「大丈夫かっ」
「一菜ちゃん、今はどう?」
「私は、少し休めばもう大丈夫です」
優しく問いかけてきた二渡先輩に答えると、井生先輩の方を見た。どうやら意識はあるらしく、倫太郎の声に反応している。
「井生さん!」
白川先生は井生先輩の方へすっ飛んで行く。とりあえず意識はあるというのに白川先生は必死で「聞こえるか、聞こえるか」と叫んでいた。そういうもんかあ、そうだよねえ、先生は生徒を命がけで守る立場だしねえ、と少しぼんやりする頭で考えていた。途中で毛布が掛けられ、酸素スプレーが傍らに置かれる。
ともかく迅速な救急のおかげか搬送先の病院でも軽症と診断され、私はその日のうちに帰路についた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます