水銀の輝き 2

 化学実験室の戸を開けた時、目に飛び込んできたのは机を囲んで本を読んでいた5人の先輩たちだった。化学実験室はここまですっきりと片付いているというのに。

「うわー、これ絶対にできないよね」

 盛り上がっている先輩たちに白川先生が近づく。

「あれ、新入生は?」

「来ませんね」

「いませんが」

「やっと来たようで」

「ほんとですよ」

「いつまで待たせるんですか」

 それぞれ不平不満を白川先生に浴びせると、示し合わせたように立ち上がった。部長が歩み寄ってくる。名前は後根うしろね圭希たまき。髪を後ろでちょこんと束ねている綺麗な先輩だ。白川先生は私たちが遅れた理由を話した。

「確か井生いおうが捨てに行ったんだよね」

 圭希先輩は井生先輩の方を見た。井生流治りゅうじ先輩は圭希先輩と同じく3年生で副部長。

「ちゃんと北門近くの物置に置いてきましたから。何本か蛍光灯があったし」

 ギッと睨みを効かせて白川先生の方を見た。

「誰も来ないので私たちの研究の途中経過報告会でも、と思ったんですがそれも先生が来ないと鍵を開けられませんから研究テーマ探しくらいしかできませんので」

「劇毒物はまだしも、食塩みたいなどこでも手に入りそうなものや俺らが作った結晶もパソコンも白衣すら取り出せないので本当に何もできませんでした」

 白川先生は圭希先輩と井生先輩の言葉に平謝りしていた。

「化学準備室と薬品庫は校内一のセキュリティですからねー。それでいて化学研究室は意外と簡単に侵入できますけどね。一応声はかけたんですけど。あ、雪崩起きないように慎重にやりましたから」と小木曽おきそ俊介しゅんすけ先輩。

「先輩たちがやっている鉄イオン、私たちがやっている界面活性剤、それ以外にも結構歴代の先輩方がやってしまっているテーマがほとんどですね」と二渡にと安美あみ先輩。

「後はいろいろ制約がありそうな実験。例えばさっきの蛍光灯の」と炭谷すみや侑樹ゆうき先輩。この3人が2年生である。

 私たちは見せてもらった。へえ、電子レンジで蛍光灯を加熱……。

「それこそ蛍光灯があってもどこにそんな大きさの電子レンジがあるんでしょうねー」

 小木曽先輩の話に、先輩たちはうんうん頷いていた。

「それはそうと新入生はもう1人いませんでした?」

軽部かるべ君ですか? サッカー部と迷っているって話でしたよ。兄貴がサッカー部って話ですから」

 そういう小木曽先輩こそサッカー部のエースにも見える甘いルックスと明るい性格である。実際、今までは彼目当てと冷やかしで見学に混じる2年生も何人か見かけた。

「2人でも大歓迎、ですよね?」

 二渡先輩の長い髪が揺れた。顔を隠すような前髪から表情をのぞかせる。

「まあ兼部してくれてもいいと思いますけどね。今のところは誰もいませんが」

 炭谷先輩が頬杖をついて柔和な笑顔を見せた。

「まあでもそうやって紹介する時間も無くなってきちゃったね」

「じゃあ器具の位置でも教えます?」

「それがいいよ!」

 先輩たちの満場一致で、今日の部活は器具がどこにしまってあるかの説明となった。

「じゃあまず荷物を置いてもらって」

 白川先生に言われて先輩たちが荷物を置く机に荷物を置かせてもらう。どんな薬品が床にこぼれたのかわからないので床には絶対に置けないのだ。こうできるのはありがたい。中学生の時はテニスコートの近くのコンクリート部分に荷物を置いてからカバンが汚れたし、活動場所近くなので必要なものがすぐに取り出せる。

「ガラス器具はこの棚。ビーカー、ろうと、メスフラスコ――」

 圭希先輩は足元の引き戸や引き出しをひとつづつ開けまず戸棚にあるガラス器具などの位置を教えてくれた。何が入っているかまでじっくり見させてもらった。

「スタンドはこの辺に転がっている」

 井生先輩が戸棚の隅にあるスタンドを指さす。

「あー、これは文化祭の時の立て看板だね」

 じっと見ていたのが気になったのか、炭谷先輩が看板を引っ張り出した。この辺片付けなくっちゃねー、と先輩たちが肩を落とした。

「この辺りに三脚と金網。それから試験管は大体ここで干してる」

 北側の窓の手前にはちょっとした収納スペースがある。小木曽先輩が指し示すその上はこれらの器具でごった返していた。

「それから、この下にガスバーナーがあるから」

 二渡先輩が長い髪を耳にかけスカートを整えながらかがむ。収納の引き戸を開けて中を見せてくれた。雑多に積み上げられたガスバーナーがかごの中に入っていた。

 教卓まで回って、正面についた引き出しや引き戸を開ける。ガラス棒、温度計、薬さじ、ピンセット、駒込ピペット、マッチなど細々したものや電子天秤やスターラーなど小さな器具が入っているのだという。

「結構収納スペースがあるんですね」

「実験器具の種類が多いからね。でも実験を行う上で基本的なものはそろっているから」

 確かにグループ単位で研究をするとなると、これだけの種類が必要になるだろう。先輩たちは人数が少ないので、3年生は鉄イオン、2年生は界面活性剤の研究で1つずつの班を作って研究している。

 最後に流しの近くと電気炉やドラフトチャンバーなどの大きな器具の説明を受けた。ドラフトチャンバーの中も片付けられ、すぐに使えるようになっているらしい。

「この下は何が入っているんですか?」

 光本がかがみこんで開けようとする。

「ここ湿気がすごいんだよ! だからなーんも入れてない!」

 いつの間にか髪を三つ編みでおさげにした安美先輩が、突如流しの下の引き戸をガラッと開けた。

「一体……?」

「あたしみたいに長い髪の人はまとめないとね。水野さんも」

 安美先輩は鼻息を荒くして仁王立ちしていた。ああ、そうだった。この人はなぜか実験中はこんな風にテンションが高くなる。さっきかがんだ時に髪が床につきそうだったからまとめたのか。

「先輩っ、準備室や薬品庫は行かないんですか?」

 安美先輩はその調子で圭希先輩に詰め寄っている。

「まあ、行ったっていいけど……」

「向こうも使うからな」

 圭希先輩と井生先輩の判断で、化学準備室や薬品庫、そしてついでに化学講義室の説明もしておこう、という話になった。常岡先生が作業していたので、化学準備室は電子天秤やその他細々とした備品の場所、薬品庫も中を見るだけだった。化学講義室に至っては説明されたのは使用頻度の低い電熱器具や延長コードが置いてあることだけだった。そりゃあ2年生は本の片づけをお願いされるよ。

「文化祭の時の――」

 去年の夏、私はここに来た。一応化学の授業で入ったことはあるが、改めて入ってみると全然雰囲気が違う。机の配置も動かしていたはずだし、お祭りの感じは全くなかったけれど、確かに去年、ここで実験ショーを見たのだ。

「文化祭の演示実験、見に来てくれたんだ」

 圭希先輩が聞く。

「演示実験、って言うんですね」

「そう。1年生ももちろんやってもらうし、できそうならポスターも貼ってもらう」

「ポスター、ですか?」

「自分の班の研究のポスター。動機と行った実験の結果、考察、今後の展望を1枚の紙にまとめてもらって、来た人に発表してもらう。ただ、2ヶ月だと実験を始めたばかりってところだから難しいかな」

 研究のポスター発表、それはこの部の活動の目標の一つだ。この部に入ったら何か1つはテーマを決めて研究をする。とにかく入部した今、やるべきはテーマ探しだ。入部動機がかの演示実験なので、体験入部の中で話を聞くまで研究なんて全く頭になかった。

「ま、1人でやるか、2人でやるか、あるいは先輩たちの研究を引き継ぐか、俺たちか2年生のどちらかの班に入るか、それによってもだいぶ違うだろ」

 井生先輩が言う。

「一菜ちゃんは前に聞いたからいいとして、光本君はやりたい研究とかある?」

 圭希先輩は光本に聞く。

「いえ、特には」

「なら、一旦2人で組むこと前提でテーマ探したほうがいいんじゃないか」

「私もそう思う。作業も分担できるし、グループでやったほうが楽しいと思う」

 そろそろ終わりにしようか、と圭希先輩が言う。講義室の時計はもう6時を回っていた。

「では来週から本入部が始まります。白衣の用意とかも必要だけれど、まずは研究テーマを決めるところから始めましょう」

 はい、と答える。2年生たちと合流して解散となった。

「軽部君、入らないんだね」

 昨日来ていたもう1人の新入生部員のことを思い出す。私よりも背の低い彼は、ケミカルガーデンやスライムづくりを楽しそうにやっていた。小学校のクラブ活動で科学クラブに入っていたらしい。小木曽先輩の言うように、サッカー部と迷っているとは言っていた。中学校でもベンチメンバーながらそこそこ活躍していたらしい。

 光本は考え込んでいる。

「どうしたの?」

「井生先輩だよな、蛍光灯を捨てに行ったのは」

「そうだけど」

「まだその話か」

「お願いだから早く帰ろうよ」

 私たちの様子を見ていたらしい井生先輩と圭希先輩が声をかけてきた。

「それじゃあ1つだけ。ゴミ置き場の鍵って鍵がかかってますよね。鍵はどこにあるんですか?」

「職員室だ。声をかければすぐ借りられる」

「薬品瓶とかと一緒にゴミに出す関係か、飲料用の瓶や缶もあっちに置かなきゃいけないからね」

 2人がそういうのだから、職員室の先生に断れば物置の鍵を持ちだせるということだ。つまり、誰でも蛍光灯を持っていける。

「なら蛍光灯を持って行ったのは1人しかいない」

 たったそれだけ言うと、光本は荷物を持ってすたすたと行ってしまった。待ってよ、と彼を追いかけずにはいられなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る