水銀の輝き

水銀の輝き 1

 体験入部は今日が最後。来週から正式に部活動が始まる。私はバッグから取り出した入部届を確認する。水野一菜。ちゃんと日付も親の名前も印鑑も書いてある。

「お願いします」

 私は化学部顧問の白川しらかわ先生に入部届を渡した。白川先生は私のクラスの化学も担当している。やせぎすで普段から疲れ切ったような顔をしているので授業を受けている身としては少し心配になってしまうが、本人曰くこれが通常通りなのだという。

「こちらこそ、よろしく」

 白川先生は入部届を受け取ると、机のファイルの束から1つを引き抜いて入部届をしまった。化学研究室は雑多に本や荷物が置いてあって、つまりはものが溢れかえっているせいであまり職員室特有の間の悪さは感じないけれど、やっぱり入室するのには緊張する。

 夏休み前に来た文化祭での液体窒素の実験。そしてこの前の新入生歓迎会でのブラックライトの実験。

 やっぱりやってみたい、と入部を決心した。

「ちょっと変なことを聞くけど、ここに置いてあった蛍光灯を片付けたのって、水野みずのさんではないよね?」

「はい。もしかして昨日換えた蛍光灯ですか?」

 昨日の部活中、1つだけ切れていた蛍光灯があった。それはその日のうちに白川先生自身が3年生の先輩に手伝ってもらって換えていたはずだ。

「いや、それは昨日のうちに井生いおうさんにゴミ置き場に持っていってもらったんです。

 実は研究室の蛍光灯も切れたから今朝持ってきたはずなんだけれどね。先生方は誰も知らないとのことで。というかおそらく自分から換えるか微妙ですし」

 だからあまり明るくなかったのか。頭上を見上げてみると、点いていない蛍光灯があった。

 私とてそこまでボランティア精神があるわけではない。それに、校舎の一番隅にある化学研究室にわざわざ来る用事もない。

「当たり前ですよね。教室や昇降口からも遠いですし。あまり気にしないでください」

「はあ」

 そんなやり取りのあと化学研究室を出たところで、妙な光景を目にした。

「どうしたの」

「水野か」

 片手にスクールバッグ、片手にゴミ袋。化学研究室の前を通る彼は何者だろう、と知らないふりを決め込みたいが、そのまま化学実験室に向かわれても困る。仕方ない、クラスメートの彼、光本こうもと倫太郎りんたろうに声をかけた。

「どうしたの」

「ゴミ捨て担当にじゃんけんでめでたく決まったがゴミ捨て場が分からない」

「私に言われたって困るけど」

 なんか校舎の端にあったような気がするけど、教えられるほどこの学校のことを知っているわけではない。ここは回れ右して白川先生に聞くしかないだろう。

「先生」

「光本さんの話は聞こえたよ」

 事情は聴いていたようで、白川先生は彼に化学実験室と準備室のゴミを回収するよう指示した。

「誰か研究室に置いてあった蛍光灯を持って行った人はいますか?」

「いいえ」

「さあ」

 奥にいた先生は化学実験室で準備をしていた先輩たちに声をかけた。案の定誰も知らないようだ。

「ゴミ回収し終わりましたが」

 光本がゴミ袋を見せる。

「ご苦労様。では行きましょうか。水野さんも」

「私もですか?」

「ゴミ捨て場くらいは知っておいたほうがいいでしょう」

 そりゃあ、教えてあげられなかったのだから行くべきか。

 かくして白川先生にゴミ捨て場の位置を教えてもらった。グラウンドの外れ、プールの脇にあって、近くに鉄格子でできた戸がついた門がある。おそらくこれが北門だろう。北門だろう、と憶測なのは、私が普段入ってくる正門や体育館脇の南門と違って北門は今の今まで用がなかったので名前しか聞いたことがなかったのだ。

 プレハブみたいな白い小屋に可燃ゴミと資源ごみを分けて入れると説明してくれた。光本がゴミを入れた後、白川先生は隣の物置を開けて中を覗いていた。

「そっちは何なんですか?」

「古紙リサイクルに出すものやそれこそ蛍光灯のような特殊なゴミを入れている。普段鍵がかかっているはずだけど」

 興味本位で中を覗いたけれど、蛍光灯どころか何もなかった。扉を見てみると、引き戸に鍵穴がついていた。

「さっき回収を見送ったところだから」

 私たちのもとにおじいさんが近づいてきた。

「そうだったんですか。もしかしたら未使用の蛍光灯が間違って捨ててしまったと思ったのですが」

「それがな、蛍光灯が1本もなかったんだよ」

 おじいさんが腕を組んだ。

「どうかされました?」

「いや、新年度に向けて教室の蛍光灯を換えてほしいと頼まれて確か3本くらい蛍光灯を換えたはずなんだが、はて」

「実はこちらでも1本出したはずなんですけど」

「蛍光灯回収は1か月に1回しか来ないはずなんだが。古紙とかペットボトルとかはたくさん積んだけどな」

 おじいさんはポケットから鍵を取り出して物置の鍵を閉める。そのまま「残業代も出ないしなあ」とぶつくさ言ってどこかへ行ってしまった。

「さっきの方は?」

「校務員の一藤いっとうさん。学校のゴミ管理は一藤さんがやってくれているはずだから、見てないってことはここじゃないところに出したのかな」

「でもそれだと一藤さんの話もおかしいことになりますよね」

 3人とも黙っていた。

「ちょっとまずいことになったかもしれません」

「誰かが善意で持っていったということはありませんか?」

「しかるべき手順を踏んで処理されるならな」

 光本が言った。白川先生も小さくうなずく。

「どういうこと?」

「ゴミ出しにおいて蛍光灯は数ある製品の中でも特に注意が必要だ。水銀が含まれているからね」

 そっか、確かそんな話を聞いたことがある。

「でも何で水銀が必要なの?」

「真空放電を利用しているからです」

 白川先生が言う。

「希薄な気体の中に高電圧をかけて電気を流すと、その気体特有の色を発する現象のことだ」

 光本がさらりと答える。白川先生が話を始めた。

「蛍光灯の仕組みは、こうです。まず、蛍光灯に直接放電できないので、スイッチを入れるとまず蛍光灯につながれた点灯管に放電されます。そして点灯管に放電されることによってはじめて蛍光灯に電流が流れます。

 電流が流れることによって両端にあるフィラメントが加熱されて電子が放出されます。その電子が封入されている水銀の蒸気に衝突して紫外線が発生。その紫外線が蛍光灯の内側に塗られた蛍光物質にあたって可視光線が出ます。蛍光灯はこの可視光線を照明器具として利用したものです。白熱灯の何倍も発熱効率がいいものですから、発光ダイオードが発明されるまでは水銀処理の手間を考えても重宝されました」

「つまりは分解したり割ったりしなければ特に問題はないが、信頼できるリサイクル業者に頼まないと水銀汚染の可能性があるということだ。少し前は切れた蛍光灯を使った実演実験もあったけれどやる人いないだろうしな」

 どんな実験なんだろう。

「でも何よりここにないということは、また蛍光灯をもらってこなければなりませんね」

 肩を落としてとぼとぼ歩く白川先生の後ろをついていくことになった。後で光本から聞いたはなしから、私たちの教室のゴミ箱も袋がかかっていないむき出しの状態だったのだ。だから白川先生の後をついてきて正解だった。一緒にゴミ袋ももらってこなくては。

 白川先生についていくと、化学実験室や研究室の手前にある化学講義室の近くの階段にドアがついていた。ここが用具室らしい。頼んで蛍光灯のついでにゴミ袋も取ってきてもらった。用具入れは鍵はかかっていないらしく、白川先生はそのままドアノブを回して入っていった。

「こんなところにあるんだね」

「ああ」

 ものの数分もかからず白川先生が戻ってくる。

「申し訳ないけど、どちらか蛍光灯を換えるのを手伝っていただけますか」

 鶴の一声で私がやることになった。光本は教室のゴミ箱にゴミ袋をセットしに行かなければならない。教室は遠いのでそっちを私が代わるのは嫌だ。

 手伝うといっても、先生に新しい蛍光灯を差し出し、古い蛍光灯を受け取って箱にしまうだけだった。

 揃って出てくる私たちを見て、化学研究室へ入ろうとした常岡つねおか先生はぎょっと驚いていた。

「白川先生……?」

「どうかされました?」

「ゴミ出しに行って蛍光灯を換えただけですよ」

 戻ってきたらしい光本が廊下で仁王立ちをしている。常岡先生はぱちんと電気をつけて「ああ、そう」とお茶を濁した。

「生徒にやらせんように」

 それだけ言って入っていった。白川先生は私のことを見て、しまった、という表情を浮かべた。

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