化学部の探偵

平野真咲

気体になってしまうから

気体になってしまうから

 昼間の闇の中で、鮮やかな緑の光を放つ液体が水槽の中へと流れていく。おおーっと歓声が上がった。最後の1滴が流れ落ちるとともにふっと体育館の電気がつく。ステージ上の白衣の人たちがブラックライトを当てるとこのような蛍光色が見えます、と説明を始めた。

 やっぱり、化学部に入りたい。

 きっかけは中学3年の夏。息抜きのつもりで来た高校の文化祭。ふらりと入ってみれば悲しいほどに閑古鳥が鳴いていた化学部の実験ショー。だが、いざ始まってみると目が釘付けになった。テレビで見たことのある液体窒素の実験は、アサガオは手で握るとちゃんとバラバラと崩れていったし、バナナでも釘が打てて、二酸化炭素はドライアイスになり、酸素は青い液体になった。いろいろ説明してくれたけれど、細かい説明は頭に入っていない。

 ただ、もっと見てみたいと思った。受験勉強での理科は苦痛でしかない。けれど液体窒素の実験や、テレビで見る泡が出てくる実験など、まだまだ知らない別世界の科学。厳しい規律と休みない練習とレギュラーの奪い合いしかなかった今までの部活には入らない。引退してからそう誓った私には、受験勉強を頑張る大きな理由ができた。その甲斐あって難関校ともいわれたこの高校に念願かなって入学、今しがたも数々の部の勧誘の嵐を断ってきた。

 校舎の一番奥のほう。化学講義室と書かれたプレートのついた教室には明かりがついている。物音も聞こえてくるので、きっと化学部の人たちがいるに違いない。開いていた戸口から中を覗きこんだ。

「こんにちはー」

 2人の男子生徒がぎょっとしたようにこちらを見る。

「おい、もう来たぞ」

「ごめん、準備できていないから奥の化学実験室っていう教室で待っていてもらえる?」

「荷物は黒板から遠いほうの机の椅子下げて机の上に置いてください」

 細目の生徒の方が背の高い生徒に「ってつけ加えろ」と小言を言う。背の高い生徒、結構な今風のイケメンという感じの生徒は「すいません」と軽く笑った。それを見て細目の生徒は顔をしかめる。

 私は指示された通り、奥の化学実験室に向かった。中には誰もいない。すべての実験机の上には椅子があげられており、備え付けられた蛇口は西日を反射している。教卓にはいくつかの白衣と実験メガネが用意されていた。

 静寂そのもの、といいたいところだったが、奥の方で水がジャージャーと流れる音がしていた。

 私は水の音がする奥の方へと向かう。窓際にある流しの蛇口だった。そんなに勢いはよくないものの、2つある蛇口の両方が水が出しっぱなしなのだ。

 辺りに人の気配はない。そーっと蛇口の方へ手を伸ばした。

 私の右手に誰かの手が重なる。

 そちらを見ると、男子生徒が立っていた。黒縁メガネ。他にこれといった特徴もないが、どこかで見覚えがあるような気がする。

「どうしてこうなっていると思う?」

 彼は流しの辺りを見回すと、こう聞いた。思わず2,3歩後ずさる。

 答えにもならない「え、えーっと」なんて言葉を繰り返す。聞いてくるってことは、水を止めようとしていたのは間違いだったということだろう。

「お前、ちゃんと学力試験を受けて入学してきたんだよな?」

「あ、あったりまえでしょ!」

 前期試験も後期試験も5教科の試験を受ける必要がある。この高校は内申書よりも試験をかなり重視するようだから、必死で勉強してきたのだ。彼の方は露知らずといった感じで私の足元に視線を落とす。私も彼の足元へと目線を移動させた。上履き代わりのスリッパは青。私と同じ色なので彼も1年生だ。

「まあ仕方ない。小中学校の実験など準備されたとおりにしか行わないのだから」

「あなたは分かってるってことなのよね?」

 彼はじっと私の目を見つめ返す。

「化学部に入るんだろう? だったら、準備運動として考えてみたらどうだ?」

「え?」

「知りたいと思ったことを仮説を立てて理論的に検証し、結果から考えられることを論理的に導く。化学ばけがくもとい科学の本質だ。考えるだけの証拠はそろっている」

 なぜ水が出しっぱなしになっていたのか。前提として水は無駄遣いできないはずだ。普通これだけの水を出しっぱなしにして場を離れるということはしない。

「水は出しっぱなしにしておかなきゃいけないってことだよね」

「そうだ」

 では何のために?

 流しにはビーカー1つとメスシリンダーが2つ、ガラス棒が2本。それぞれが蛇口の水を浴びている。何か実験を行っていて、その片づけをしていたようだ。

「これって、今これらの実験器具を洗っているってこと?」

「今の状態はそうだろうな。当然ながら実験器具を洗うときに大量の水をかけなければならないわけではない」

 そりゃあ、今までの理科実験でもそんなことしなかったよね。

「そして実験器具の片付けをするからといって窓を開けておく必要もない」

 彼に言われて窓を見た。窓の1つが全開になっている。言われてみれば、誰もいないのになぜ窓を開けてあるのだろう? 私は流しから離れて他の窓の様子も見た。

「あれ、開いているのはここだけ……」

 流しの近くの窓は開いているが、それ以外の窓は閉まっている。逆に言えばここさえ開ければよかったということなのだろう。

 ドアを開ける音がした。化学実験室には先ほど私が入ってきた廊下に通じる出入り口のほかにもう1つ出入り口がある。おそらく化学準備室の方のにつながっているのだろう。そちらの出入り口から出てきたのは白衣姿の男性。確か化学担当の先生だった。

「もう来てたんですね。確か1年B組の光本こうもとさん、と水野みずのさんでしたよね」

 水野は私の苗字だから、メガネの彼は光本というらしい。コウモト……思い出した。同じクラスである。

「今片付けますね」

 先生は流しの水を出したままスポンジを手に取る。私たちは流しから離れた。

「もしかして、何か危険な薬品を流していたってこと?」

 先生に聞こえないように小さい声で話す。

「さしずめ塩酸の希釈、というところだろうね」

 周囲に思いっきり聞こえるくらいの声で彼は言った。先生は私たちの方を見る。

「そうだけど、どうしました?」

 当たっちゃった。

「何で分かったの?」

「まず窓を開けているということは何か気体が発生する実験をした可能性が高い。蛇口の水を出しっぱなしにしていたのは、器具についたまたは流した薬品を水で流したかったから。それに流しの近くで行える実験は薬品の希釈くらいだ。ビーカーとメスシリンダーとガラス棒が使われているしな」

「えっ、流しで実験?」

 私は光本君と先生を交互に見る。

「椅子を上げたまま実験するわけないだろう。片付け終わったというわけでもない。実験後は濡れ雑巾で机を拭くのが鉄則だからな」

 改めて机を見てみるとどの机も水拭きの跡はない。教卓も白衣や実験メガネでスペースを埋め尽くしている。先生が実験したのだから片付けはきちんと行うはず。なるほど、実験していたと考えられるスペースも限られている。よく考えれば危険な気体が発生する実験をするなら全部の窓を開ける。流しの近くの窓しか開けなかったのも流しの近くで実験していた証拠だろう。

「塩酸って、あの塩酸ですか」

「ええ。塩化水素が水に溶けたあの塩酸です」

「でも何でこんな狭いところで? アンモニアだったら臭いからわかりますが」

「濃塩酸、つまり濃い塩酸ですね、は瓶を開けると白煙が出るんですよ。白煙の正体は塩化水素。もちろん吸い込むと有毒です。しかも匂いもすごい。刺激臭というものを身をもって感じます。

 本当はドラフトチャンバーという排気装置を使わなければならないのですが、如何せん故障中でして」

 先生がちらりと奥の方に視線を向ける。ガラス窓がついた箱型の大きな装置があった。あれがドラフトチャンバーというものだろう。

 しかし、塩酸は今までにも危険ということは知っていたけど、まさかそんなものだったなんて。

「危ないからこそ希釈されたものを使うことが多い」

 光本君が私の心を読んだかのように説明を加える。

「塩酸は使用頻度が高く、一気に作ってもどんどん空気と反応してしまうのでこまめにつくる必要があります」

 先生はガラス器具を隣のカゴに並べ始めた。邪魔しちゃ悪いので光本君に聞く。

「ちなみに、ここまで水を出しておくのは?」

「さっき塩化水素が出るといっただろう。液体っていうのは絶えず蒸発する。放っておけば塩化水素がどんどん気化していく。窓を開けているだけでは十分とはいいがたい。ではどうするか。塩化水素は非常に水に溶けやすい。ということは水と一緒に流してしまえばいい」

 水を流していたのも、窓を開けっぱなしにしていたのも、すべて有毒な塩化水素が化学実験室に残ってしまわないようにするためだったのだ。

「化学部って、やっぱり危ない薬品とかもたくさん使うんですよね」

 濃い塩酸でさえ危険物なのだ。きっとまだまだ危険な薬品はたくさんある。私に扱えるだろうか。

 この液体窒素っていうものはですねー、マイナス196℃で液体になった窒素なんですよ。こんな超低温の液体ですからこの中に手を突っ込むと1秒くらいなら手の熱で気化してくれるんですが、それ以上は手が凍ってさっきの花びらみたいにバラバラになっちゃうんすよね。

 文化祭の実験ショーの説明がフラッシュバックする。ああ、そういえばそんなことを言っていた。

「そりゃそうだ。だが、100%安全なものなど存在しないよ」

 光本君がぼそりという。

「生命維持に必要な酸素だって多すぎれば中毒になるし、忌み嫌われてきたダイオキシンだって空気中に微量には含まれているから知らず知らずのうちに摂取している。要は濃度の問題だ。

 大事なのはその物質がどんな性質であるのかを知り、どのように使うかを考えること。化学っていうのはそのための学問だ」

「そうだね。そしてその基盤の上に、我々の生活は成り立っている」

 先生がそう付け加えると、がやがやと人の話し声と足音が聞こえてくる。

「先生! 鍵開けてください!」

「新入生来ちゃってますから」

 制服姿の男女が先生に呼びかける。先生は「今開けます」と化学準備室の方へと消えていった。

「2人も新入生だよね?」

 髪を後ろでちょこんと束ねた女子生徒が聞く。彼女は体育館のステージで説明をしていた人だ。彼女の後ろには何人かの男子生徒がついてきている。

「はい」

「じゃあ、こちらへ」

 彼女の後ろにいた男子生徒たちの前に通される。みんなそれぞれ期待と緊張の入り混じった顔。

 そう、これから学んでいくのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る