第3話 バカ夫。

 10月になって、関東はずっと晴天が続いている。乾いた心地よい風が原田の街にも吹き抜けていく。休日には、原田商店街連合主催で盛大な秋祭りも行われ、街にはたくさんの人で溢れかえる。神輿には市内の農村で採れた大根やニンジン、ネギなどがくくりつけられ自然が豊かなことをうかがわせる。

 原田川沿いにある雑居ビルの1階で『鬱憤館(うっぷんかん)』の店主・北川洋太郎は、今日も定刻の深夜12時にシャッターをボロロロロとあげて開店の準備をする。準備とは言っても明かりを点けて、ドリンクのグラスと氷を準備すれば、終りである。洋太郎は3席ほどのカウンターに真っ赤なバラを一本ざしで飾ると、BGMにジョニ・ミッチェルをかけた。


    *


 「バタバタバタバタバタバタバタバタバ、ブオーン」エンジンの乾いた音がけたたましくドッグの中に響き渡る。

「うーん、イヤラシイ音、たまんないな。マフラーを変えただけでこんなにも雰囲気変わるんだ・・・」松永(まつなが)雄一(ゆういち)は、横浜・港北にある空冷フォルクスワーゲン専門のショップ「DOPE」で店長の岡島に興奮気味に言った。

「でしょ、これで馬力も3~5はアップしてると思うよ」岡島は言った。

「あとは、どうカミサンに報告するかだな」雄一は腕を組んだ。

「飲み会の出費を控えるしかないんじゃないっすかね」岡島は笑った。

「部下を連れまわすと結構金かかるんだよね」

「はい、お会計。49800円、工賃5千円込みでね」

「はいはい、カード一括でね」

「毎度あり」


    *


 フォルクスワーゲン社の出す車は1970年代まで空冷エンジンが主流だった。丸っこい独特な「かぶとむし」と言われるビートルは世界中で大人気になった。その独特なエンジン音や愛くるしい形からいまでも世界中にファンが根強く残っており、部品も新品で手に入るような仕組みが整えられている。そのシンプルな構造でオーナーたちは愛車をさらに格好よくするためにカスタム(改造)していくのが、何より楽しいのだ。たとえばタイヤのホイールをアルミにしたり、車高を下げて速そうに見せたり、エンジンそのものをポルシェのエンジンにしたり、さまざまだ。

 また、車種もバリエーションがある。普通のビートルから、バスの形をしたタイプ2、セダンが基本形のタイプ3、スポーツ車のような流線型が美しいカルマン・ギア。とくにタイプ2のバスはヴィンテージになると4,500万はする人気車種である。


    *


 一目惚れだった。1人目の娘が生まれ、妻の瑠奈(るな)がいよいよ1人の女性から母親になっていったそのころ雄一は悶々とした日々を送っていた。たしかに赤ん坊は可愛い。しかし

赤ん坊は妻の愛を全面的に奪い取っていった。よく世間の旦那衆が浮気するのもこの時期が多い。雄一は或る日、エロサイトを見るついでに若いころ乗っていたワーゲンのサイトを見ると、真っ赤な1965年式のヴィンテージが売りに出されているのを知った。一目惚れしてしまったのである。来る日も来る日もその車のことが頭から離れない。早くしないと他の誰かに買われてしまう、そう思うと胸が締め付けられた。

 雄一は気がつくと横浜・港北にある空冷フォルクスワーゲン専門のショップ「DOPE」にいた。(やはり美しい・・・写真よりずっとよく見える・・・)雄一は真っ赤な1965年式のヴィンテージが「ここから、私を出して」と叫んでいるように見えた。


    *


「ほらさ、おれパチンコも競馬もやらないじゃん。酒は人並みだしさ、ねえ、考えてくんないかな・・・」雄一の説得は毎日に及んだ。

「今の車とは違ってさ、人間が五感を駆使して維持していくわけ。かわいいでしょ」雄一は必死に説得する。

「いくら?」瑠奈は呆れた声で訊く。

「180万」

「どこにそんなお金があんの」

「働く!現に今だって7,800万は稼いでるんだから、不可能じゃないでしょ?」

「家を買う件はどうすんの?」

「家を買う貯金、ちょっと崩してさ、俺もこれから1000万目標に頑張るから」

「・・・もうしらない。勝手にして」瑠奈は赤ん坊をゆすりだした。

雄一はこれを車購入の許可と判断した。

    *


それから3年がたった。松永家は原田市郊外に新築の戸建てを買った。坂の途中にある家なので、1階部分がガレージになっている。妻の買い物・送迎用のミニバンとあの赤いワーゲンが鎮座している。原田市には駅前や郊外の大型ショッピングセンターに行くためか車が必需な家が多い。こうして妻・夫と2台の車を持つ家も少なくないのだ。

「あのさ、」瑠奈が切り出した。

「2人目、できちゃったみたい」

「そ、そうか、にぎやかになっていいんじゃない。真菜(長女)も喜ぶよ。」

雄一は少し焦ったが、これも神の思し召し(おぼしめし)と考えた。


    *


ワーゲンは案の定、故障のデパートだった。

ワイパーが片方外れて吹っ飛んだ。ブレーキワイヤーが切れて死にそうになった。

サンルーフは閉まらなくなった。オイルが漏れた。バッテリーが上がった。

そのたびに雄一は

「これが、最後!もう壊れないから」と言っては2万、3万とお金が吹っ飛んだ。

ついにはエンジンがいかれた。50万。さすがに言い出しにくかったが、幸運なことにボーナスが良くて120万入ったので許しが出た。どさくさにまぎれて1200ccのエンジンを1641ccにボアアップした。スピードとトルクが格段に変わるのが実感できた。


    *

「パパ、ご飯」真菜が叫ぶまで雄一は気がつかなかった。

雄一は休日をほとんどガレージで過ごすようになった。部品1つ1つを社外製にカスタムしたり、オーディオに凝ったり、車を鏡面のように美しく磨くのである。

イベントにも出ていった。SNSで知り合った友人や、車の店の仲間たちとフォルクスワーゲンでツーリングに出かけるのである。フォルクスワーゲンが一堂に2,30台が集まるとそれはそれは圧巻だった。その場で情報を交換したり、人の車をああでもない、こうでもない、と批評するのだ。こうして他の車を見るたびにさらに自分の車のスペックを上げたくなるのだ。


    *

 

瑠奈は瑠奈で韓流アイドルに夢中になった。家事以外の時間は、パソコンにかじりついて、アイドルの動画やファンのサイトを見始めた。1日の中で唯一の楽しみな時間であった。

そんなある日のことだった。買い物に出かけようと日本車のミニバンにのるとフロントウインドーに紙片がワイパーで挟まれていた。名刺?、瑠奈は紙片を手に取った。


     いらいら解決!あなたの鬱憤、晴らしてみせます!

                    発散堂

                    社長・北川洋太郎

         電話042―6×4×―21××



 瑠奈はなぜかわからないがその場で捨てる気にはなれず、ポケットにしまい込んだ。

 

    *


 夫婦の仲は、どんどんと溝ができていった。雄一が帰宅する深夜にはだいたい瑠奈はDVDかパソコンに夢中になっている。2人の会話はもっぱら娘のことだけになり、たまに雄一が口を開くときは、金の無心のときだけである。だから瑠奈はなるべく雄一の話を聞きたくなかった。

「あのさ、俺もそれなりに出世して充分稼いでるわけ。どんな苦労をしてるか全然わかってないでしょ、たまには労い(ねぎらい)とか、感謝ってものはあなたの口からは出ないわけ?」

雄一はある時、痺れを切らして言ってしまった。

「はあ? あなた1人で稼いでると思っているの? あなたの稼ぎは家族がいて、家族のものなんだから、勘違いしないで。稼ぐ人が家族を食わしていくのは当たり前のことだわ、もうあと2月もすれば赤ちゃんができるんだから、甘えたこと言わないでよ」瑠奈は言った。

「もういい!」雄一は、その日家を飛び出して鳩川駅前の焼き鳥屋でやけ酒した。(もういつからHなんてしてないだろう・・・)ふと男性特有の生理現象が頭をもたげた。

「原田の街にでも繰り出して遊んじゃお」雄一は飲むと酒癖が悪い。


    *


 雄一は原田の行きつけのショットバーでバーボンのブラントンを次々に胃に流し込んだ。

店内にはDonald Fagen (ドナルド・フェイゲン)のKamakiriad のアルバムが流れている。(なんで俺は、こんなに働いて、家も子供もできて、こんなにもさみしいのだろう)

雄一は自己憐憫を繰り返した。(いっそ家出でもして、家族に知らしめてやろうか、俺がいかに稼いでるかってことを・・・)酔うほどに腹が立ってくる。


    *


 雄一は駅の南に来て川沿いを歩いた。風俗にでも行ってみようかと思いついたのである。

ドタッ、雄一は転んだ。酔っていて足元の看板の支柱につまずいたのだ。

「チキショー、こんなとこに邪魔な看板置くなっつの」と天にむかって叫んだ。

 ふと、つまづいた看板を見ると

『鬱憤館』

ほの白く、薄汚れた看板はプラスチックでできていて、ヒビが入っている。

雄一は酔っていて漢字がぼやけてよく見えない。

「鬱・憤・館、?よめねえや」雄一は目を凝らした。

木製の大きなドアが1枚あるほかは、窓もなくコンクリートで塗られているだけだった。

(あやしい・・・)そう思った。

しかし同時にこの店は何屋か知りたくなった。一見すると会員制のバーか?いや、それほど高級感は無い。スナックか? いやそれにしては目立たない。

 「何だこの店? 話のネタに入ってみるか」雄一は立ち上がった。

 重たそうな真鍮製のノブを引いてみる。

カランッコロンッ、小さなカウベルがノスタルジックな音を立てた。

「いらっしゃーい」初老の男性の声が奥から聞こえる。

 雄一はまた眼を凝らし店の中を見回した。ここちよくブルースが流れている。

 幅3メートル、奥行きは10メートルほどだろうか、薄暗い店内の天井からは電球をちりばめたようなシャンデリアが垂れさがっている。

 カウンターは3席。しかも誰もいない。赤いレザーでできたスツールが3つカウンターの前に並んでいる。カウンターの中には背が高くスラリとした老人がバーテンダーの格好で立っている。ゆたかな白髪(はくはつ)は七三分けになっていてカーネルおじさんのように黒縁メガネで微笑んでいる。

「なんじゃ、この店?」

「初めてでいらっしゃいますね」北川はゆっくりと落ち着いた声で言った。

「だから、なに屋さん?」雄一は訊いた。

「看板の通りです。バーでも飲み屋でもありません」北川はにこやかに言った。

「うっぷんかん、と申します。私は店主・北川です。どうぞお見知りおきを」

「だから、なに屋さんですか、って聞いているんです」

「まあ、まあ、まずはおかけになって、メニューをどうぞ」

雄一はスツールに腰掛けた。

北川はフレンチの料理屋にあるような黒いメニューを雄一の前に広げた。

    

    ●シェフ北川の気まぐれ鬱憤プラン(1万円~時価)


    ●有機で育てた北川さん家(ち)の鬱憤プラン(2万円~時価)


    ●アニバーサリー・鬱憤とのマリアージュ(50万~)


「あのう、意味がわからん。説明してちょうだいよ」

「まあ、メニューはあってないようなもんです。まずはお名前、仮名でも結構です。教えてください」

「雄一」

「それは、それは雄一様、よくおこしになられました。なにか家庭内でお困りの様子。かならずやお役にたてると思います」

「ほう、じいさん、よくわかるね」

「お顔を拝見すれば、大体わかります。仕事ですから」

「そう、お互い仕事は大変だよね、じつはおれも・・・」と雄一は愚痴と自慢を交互に語り始めた。

 「車は男のロマンでさ、」「年収1千万よ、部長で」「妻の傲慢さときたら」雄一はひたすらに話している。

 北川は「ええ」「おや」「そうですか」を繰り返し、熱心に、そして穏やかに聞いているだけだった。ひと通り話し終えると

「雄一様、男はつらいでございますよね」と言ってブランデーをグラスに注いだ。

「店主からのささやかなプレゼントでございます、どうぞ召し上がってください」

「怖いな、いくら請求されんの?」

「今日はシェフ北川の気まぐれ鬱憤プランでいかがでしょう、お代の1万円はもうある方から頂いております」

「だれ?」

「秘匿義務です、言えません」

「まあ、いいや。話聞いてもらってタダなら文句ねえや」

「では、雄一様、今日の鬱憤晴らしは終了です。当店は鬱憤サービス後、どうなるか、については一切、関知いたしません。ここにサインをお願いします」

    

    *


「ギャー!」男の悲鳴は意外と甲高い。

松永家のガレージから朝6時だというのに悲鳴があがった。近所の人もぞろぞろ出てきた。

松永家に鎮座する真っ赤な1965年式のヴィンテージはピンクのスプレーで染まっていた。フロントウインドーには茶色いスプレーで『うんこ』と書かれている。タイヤは4つパンクしていて車はぺシャンと沈んでいる。『うんこ』の『こ』の下にはワイパーで紙片が挟まっている。

雄一は紙片を恐る恐る広げてみた。

「離婚届」

「ギャー!」繰り返す。男の悲鳴は意外と甲高い。

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