第2話 加奈の場合。
8月も終わりを迎え、うだるような暑さも日中だけになってきた。道路の街灯には、夜の光に誘われてセミたちがジジッと鳴きながら、光へ向かって飛び交っている。原田の街の喧騒も夜12時を過ぎると閑散としてくる。
原田川沿いにある雑居ビルの1階で『鬱憤館(うっぷんかん)』の店主・北川洋太郎は、今日も定刻の深夜12時にシャッターをボロロロロとあげて開店の準備をする。準備とは言っても明かりを点けて、カウンターをひと拭きすれば以上、終りである。洋太郎は3席ほどのカウンターに真っ赤なバラを一本ざしで飾ると、BGMにフランク・シナトラをかけた。
*
「オーダーお願いしまーす」斎藤加奈(さいとうかな)は右手を上にあげて、ジッポのふたを開け閉めする。
「ほんとにいーのー? あたし初めてです、こんなオーダー」嘘である。
黒服の店員がやってきた。
「えーと、フルーツの盛り合わせ、メロン、マシマシでお願いしまーす」加奈は弾んだ声で言った。
客の上田は、上客である。加奈の父親ぐらいの年で先月から数えて4回目の来店だ。やっと加奈にも指名客がついて嬉しいのは嘘ではなかった。なにせ最近のキャバクラは新宿のぼったくり店の横行や、違法客引きの取り締まりで、イメージが低下して空前の苦戦を強いられているのだ。加えてマイナンバー制度の導入で、個人の収入が一括してわかるようになったせいで、いわゆる秘密の副業ができなくなったから、女の子も次々とやめていった。加奈のようなアイドルっぽいルックスと愛嬌は貴重な人材だ
「今日は、学校どうだったの、麗奈(れな)?」上田は訊いた。加奈は店では麗奈なのである。
「うん、メールしたとおり。午前中は眠くて行けなかった」加奈は、毎日昼のメールを欠かさない。
「だめだなあ、それじゃ本末転倒だぞ。学校には行きなさい」(あなたには言われたくない)加奈はそう思いながら「はーい、明日は頑張って起きる」と言った。(毎日、ちゃんと行ってるよ、バーカ。だらしない振りしているだけ)
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斎藤ゆかりは、生協の配達・営業をフルタイムで行っている。そして土日にはパチンコ屋でアルバイトだ。休日はない。それでも月の月収は母子家庭手当をもらっても30万がやっとであった。
夫はアルコール依存からおかしくなって、暴力をふるった。警察沙汰やら救急車を呼んだりと散々な目にあって10年前に離婚した。養育費は1年で途絶えた。それからは娘の加奈を連れて、ここ原田市のUR団地に移り住んだ。団地は高齢化を迎え、古くはなっていたが、内装はきれいだし家賃も安く環境もよかった。以来、いわゆる女手ひとつで、加奈を育ててきた。加奈はそんな母の苦労も見てきていたので、優等生を目指した。公立高校には推薦で合格した。
今年になって加奈は推薦で大学を決めた。高校と大きく違うのは学費であった。文系私立で年間90万、入学費用を入れると120万かかった。単純に月10万円はかかる。奨学金など借りようものなら、加奈が40歳をこえるまで月3万弱を払っていかなくてはならない。利子をつけて約700万を返すのだ。
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ゆかりは、加奈の水商売に反対した。奨学金でいい、と言い張るのだ。しかし加奈にしてみれば大きな負担だ。就職したってもらえる給与は高が知れている。ゆかりの兄や妹の家庭にも大学生がいるので、援助を乞うわけにはいかなかった。
加奈は、4月から勝手に働き始めた。友人とともに「体験入店」をしてみたが、想像していたより怖いものではなかった。イメージクラブというもので、高校の制服やナース姿で働くのも苦ではなかった。週4回、5時間で30万近くにはなる計算だ。それに出来高も加わると簡単に母を超えて儲けることができる。とにかく母を楽にさせたかった。こうして入店して5カ月が経とうとしている。
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高島学(たかしまがく)が店に現れたのは加奈が夏休みに入ったころだった。店で一番若い子、と指名してきた。
「えーありがとうございますー」加奈はとりあえずブレザーとタータンチェックのミニスカートで高島の席に着く。
「あーん、意外と可愛いじゃん。名前は?」
「麗奈です、よろしくお願いします」
「おれ、ガク。とりあえずなんかシャンパン入れてよ」
加奈は固まった。こんなすぐに指名されシャンパンを入れてくれるのは初めてだ。
歳は40過ぎ、格好はポロシャツにスラックス。時計をよく見るとパテックフィリップだ。「なんてお呼びしたらいいですか?」加奈は訊いた。
「ガク。麗奈、本名は何?」ガクは当然のように訊いた。
「・・・加奈です」
「じゃ、加奈でいいな」そう言っている間にシャンパンが来た。サービスワゴンで。
乾杯の後、肩を組まれた。店ではご法度だ。でも言えない。
「学生?OL?」
「学生です。ガクはお仕事何?」
「ふどーさん」
「すごーい、羽ぶりいいんですね」
「あとつぎ、跡継ぎ」
「今日はお仕事?」
「仕事っちゃ、仕事。遊びっちゃ遊び」ガクは言った。(うざい)加奈は思った。
「遊びはなんですか?」加奈は話をつなげた。
「ん、まあ、セミナーとか。俺にとっちゃセミナーは遊びだよ」ガクはセミナーの話題から土地活用、人脈、資産運用まで、語りはじめた。
一応勉強のつもりで聞いてやった。
「ガク、すごいんだね。ためになる」加奈はタメ口を利いてやった。その方が喜びそうだ。
「趣味は?」
「仕事だよ、ははは、うそ。スィーツ食べ歩きかな」
そして原田近辺の洋菓子店の話が始まる。
*
「うしゃ、帰ろかな、カードでね」アメックスのブラックカードだ。
ガクは3時間いて、8万払っていった。さすがに加奈もかなり酔った。店長には誉められた。こんな客が毎日来たらいいのに、加奈はその時はそう思った。LINEはつながった。
*
ガクが本性を現したのは3回目の時だ。
「俺の夢、言おうかな」
「独立?」
「ちゃうよ、仕事は勘弁。加奈と鎌倉に行きたいな、車で」ガクは手を肩にまわし耳元で言った。
「えーそんなんでいいの?」加奈はそう言いながらも断るマニュアルを思い出した。
「車でさ、いい店、何件か知ってるからさ、連れていきてえな」
「まだ子供だから鎌倉とかわかんなーい、店長に聞いてみる」加奈は必至だ。
「そう、子供を俺が育てていい女にしてやるのさ」ガクはシャンパンを片手に、もう片方の手を加奈の太ももの上に置く。完全、ご法度だ。助けを呼ぶ時はジッポの蓋を2回開け閉めするよう言われている。でもできなかった。ガクの機嫌を損ねたらアウトだ。
「3回目でアフター、いいだろ」
*
閉店時間に店を2人で抜け出して遊ぶのがアフターだ。食事をしたり、カラオケに行ったりする。加奈はカラオケがいいといった。店長は気をつけろと言って許可した。
カラオケの部屋に入るや否や、ガクがトートバッグの中から何かを取り出した。
「はい、これ今日の加奈へのプレゼント」
紺のハイソックス・・・
「ありがとー、今度使うね」加奈はたいして嬉しくない。
「ちゃうよ。どういう意味かわかるだろ?」
「え?」
「今この場で履きかえてよ」ガクは言い出しにくそうに言った。
「いいけど、あとでもよくない?」
「今履いてる靴下、俺にちょうだいってこと!」ガクは言った。
(き・も・い・・・・)加奈はどん引きした。カラオケが失敗だ。
「お前の成長を匂いとして残しておきたいんだ」
(げー―――――逃げたい)加奈は後悔した。
「ま、まずは曲入れよ」
加奈は必死に太ももや胸に触るガクの手を追っ払いながら歌った。早く店に帰りたかった。
抵抗すること1時間、携帯を取り出し「あ、店から帰るよう命令です」といって小走りにその場を逃げ去った。
*
加奈は店に帰って店長に報告した。次からは入店拒否にしてもらおうとした。しかし答えはノーであった。カラオケに行ったのがよくない、店の中でうまくあしらえ、とけんもほろろであった。なにしろこの日だって10万を落としていったのだ。キャバクラの沙汰も金次第ということか。加奈は店の酒をがぶ飲みした。店長はおもむろに加奈に名刺を渡した。
『鬱憤館』北川洋太郎。名刺の裏にはマップが書いてある。
「行ってみ」店長は言った。
*
加奈は駅の南口を降り、原田川沿いの店に向かった。
ドタッ、加奈は上の看板を見て探しているうちに、、ヒールが看板の支柱にぶつかって転倒した。
「んもー、こんなとこに邪魔な看板、今日は、サ・イ・ア・ク!」と天を仰いだ。
そして看板を見ると
『鬱憤館』
ほの白く、薄汚れた看板はプラスチックでできていて、ヒビが入っている。
加奈は酔っていて漢字がぼやけてよく見えない。
「鬱・憤・館、ここ?」加奈は目を凝らした。
木製の大きなドアが1枚あるほかは、窓もなくコンクリートで塗られているだけだった。
(あやしい・・・)そう思った。
しかし同時にこの店は何屋か知りたくなった。一見すると会員制のバーか?いや、それほど高級感は無い。スナックか? いやそれにしては目立たない。
「店長が勧めたんだからまあ、安心か」加奈は入る決心をした。
重たそうな真鍮製のノブを引いてみる。
カランッコロンッ、小さなカウベルがノスタルジックな音を立てた。
「いらっしゃーい」初老の男性の声が奥から聞こえる。
加奈はまた眼を凝らし店の中を見回した。ここちよくジャズが流れている。
幅3メートル、奥行きは10メートルほどだろうか、薄暗い店内の天井からは電球をちりばめたようなシャンデリアが垂れさがっている。
カウンターは3席。しかも誰もいない。赤いレザーでできたスツールが3つカウンターの前に並んでいる。カウンターの中には背が高くスラリとした老人がバーテンダーの格好で立っている。ゆたかな白髪(はくはつ)は七三分けになっていてカーネルおじさんのように黒縁メガネで微笑んでいる。
「あ、あの」
「初めてでいらっしゃいますね」北川はゆっくりと落ち着いた声で言った。
「バイト先の店長に勧められてきました、なに屋さんですか」加奈は訊いた。
「看板の通りです。バーでも飲み屋でもありません」北川はにこやかに言った。
「うっぷんかん、と申します。私は店主・北川です。どうぞお見知りおきを」
「だから、なに屋さんですか、って聞いているんです」
「まあ、まあ、まずはおかけになって、メニューをどうぞ」
加奈はスツールに腰掛けた。
北川はフレンチの料理屋にあるような黒いメニューを加奈の前に広げた。
●シェフ北川の気まぐれ鬱憤プラン(1万円~時価)
●有機で育てた北川さん家(ち)の鬱憤プラン(2万円~時価)
●アニバーサリー・鬱憤とのマリアージュ(50万~)
「あのう、意味がわかりません。説明していただけますか」
「まあ、メニューはあってないようなもんです。まずはお名前、仮名でも結構です。教えてください」
「ええ、じゃ、麗奈」
「それは、それは麗奈様、よくおこしになられました。なにかお仕事でお困りの様子。かならずやお役にたてると思います」
「店長から聞いているんですか?」
「いえいえ。お顔を拝見すれば、大体わかります」
「胡散臭っ。占い師ですか?」
「いえいえ。あなたが男性の馬鹿らしさ、お金のため頑張っていることは、わたくしにもわかります」
「なんでー」加奈は少し怖くなった。
「わかるからあなたはここにいる。天を仰いだわけですから」
「おじいさん、天から見ていたんだ」
「いえ、ここであなたをお待ちしておりました」
*
加奈は、どうせ夢だと思い、洗いざらい話した。父のこと、母の苦労、自分の頑張り、そして大学費用の高さ、キャバクラの出来事・・・
北川は「ええ」「おや」「そうですか」を繰り返し、熱心に、そして穏やかに聞いているだけだった。ひと通り話し終えると
「麗奈様、いままで本当にご苦労されましたね」と言ってカクテルグラスにソルティードッグを注ぎ、加奈に差し出した。
「店主からのささやかなプレゼントでございます、どうぞ召し上がってください。麗奈様はまだお若い。シェフ北川の気まぐれ鬱憤プランでよろしいかと思いますよ、麗奈様は初めてですから1万円でご奉仕させていただきます」
「え?話を聞いてもらうだけじゃないんですか?」加奈は訊いた。
「とんでもございません、サービスはこれからでございます」
「い、いったい何をしてくれるんですか?」
「では、気まぐれプランですのでいまからわたくしがご提案さしていただきます」
北川は、やっと自分から語り始めた。
*
鬱憤館の屋上は、パイプラインやら浄化槽やらで雑然としていたが、地上10階からみえる原田の街並み、朝日が出て明るくなった西の方角には青く丹沢・大山連峰が美しく山の稜線を浮かび上がらせていた。
そんな屋上の片隅に10畳ほどのスペースがあって、赤く見たことのある物体が10数本並べておいてあった。消火器だ。
「それでは、麗奈様。お話したとおりこの消火器をご自由に撒いていただいて結構です。期限切れの消火器をある筋から譲ってもらったものです。お好きなだけ叫んで鬱憤を晴らして下されませ」北川は1本の消火器のピンを抜いて加奈に手渡した。
「は、はい。では、遠慮なく」加奈はトリガーノズルを握って、ホースを空中に向けた。
プシュー! 白い粉上の煙が勢いよく飛び出した。
「あたしゃ、つかれたわよ――――――、普通の家に生まれたかった――!」
「やる気もなくただ学校に来てるバカ大学生、やめちまえ――――――――」
「ガクのヘンタイ――――――」
「あたしゃ、これからも負けないぞ――――――――!!」
加奈は次々消火器のピンを抜いていく。
街へ向けて、天に向けて、噴射していく。
(快感・・・)
*
「いかがですか? お約束の時間がやってまいりました。鬱憤後は当店は一切関知しません。最初に書いた契約書どおりです」北川は洋平と加奈と握手をした。
「また来てもいいですか、北川さん」
「もちろん」
朝日はまぶしく夏の太陽を感じさせたが、風はひんやり秋の到来を告げていた。
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