今宵の鬱憤館

青鷺たくや

第1話 洋平君、来客。

東京都であっても、ここ原田市は、新宿から40分、横浜から40分、という少し遠い立地もあってか、さながら地方中核都市の様相をなしている。なにしろデパートやファッションブランドの店、たくさんの飲食店などが集まって、あらかたの買い物はここ原田の街で済ませられるからである。夜は夜で、飲み屋街は賑わって、不景気とはいえ人がたくさん集まってくるのだ。一方で駅を少し離れればまだ多摩丘陵の自然が色濃く残っており

田園風景なども広がっている。

そんな原田の街も駅の南側に行くと様相はがらりとかわる。駅前を流れる原田川を境に隣の市になるのだが、通称あかせん、といわれる地域があり、、昭和30年代までは公認で売春が行われていたのである。売春防止法によってあかせんは消滅したが、その後もラブホテル街が林立し、雑居ビルでは風俗店が今でも残っている。その後、行政もイメージアップを図りたいためか、緑の多い公園が整備されたり、都会的な住居用マンションがあかせんを取り巻くように、次々と建設されたため少し異様な光景が広がっている。

 そんなあかせんのはずれにある雑居ビルの1階で『鬱憤館(うっぷんかん)』の店主・北川(きたがわ)洋太郎は、今日も定刻の深夜12時にシャッターをボロロロロとあげて開店の準備をする。準備とは言っても明かりを点けて、カウンターをひと拭きすれば以上、終りである。洋太郎は3席ほどのカウンターに真っ赤なバラを一本ざしで飾ると、BGMにエディット・ピアフのレコードに針を落とした。


    *


 小牧(こまき)洋平(ようへい)は6月の締め切りに追いつめられていた。大手文学新人賞などのコンクールが意地悪をするように各社とも締め切り日が同じなのである。コンクールの投稿にはルールがあって各原稿は1社に絞らなくてはいけない。それもまったく新しい作品でなくてはならない。洋平は一社ずつに違う作品を投稿するため、掛け持ちで4冊の本を書きすすめていたがどれもクライマックスが未完成で構想すらできていなかった。

 今年で執筆活動は5年になる。20歳のときに始めて、大学の学内小説コンテストで佳作をとったのがきっかけで、就職もぜず、さまざまなアルバイトで糊口を凌ぎながら、毎回応募するものの、返事は梨の礫(つぶて)だった。

 舞(まい)葉(は)とも交際して5年になる。25歳、洋平と同い年である。大学の軽音楽サークルで知り合って、ハードロックの話題で意気投合し、交際し始めた。舞葉は洋平ひとすじに愛を深めていった。

「ヨウちゃんの耳の後ろのにおいが好き」「あたし、ヨウちゃんが気持ちよくなれるなら何だってしちゃう」「ヨウちゃんがいつもあたしのポケットの中に小さくなっていてくれたらな」舞葉は、たくさん愛の言葉を囁いた。洋平も舞葉の愛に応えるべく、真剣に彼女を愛した。心も肉体も2人は愛に満ち溢れていた。

 舞葉は人材派遣会社に無事就職が決まった。洋平は執筆で生きていくことを決めていた。

このころからであろうか。2人の間はボタンをかけ違えたようにギクシャクした。というのも、洋平は作家志望とはいえフリーターであり、どこか引け目を感じていたからだ。

「なあ、舞葉。このまま二人で愛し合っても、俺には君を幸せにする自信がないよ」

「なにそれ? 別れようってこと?」舞葉は早口で訊いた。

「まあ、な。俺はしばらく本を書いて生きていくって決めたんだ。いろんなものを削ぎ落として、捨てていって自分を追い詰めないと、究極のものが書けない気がしてさ」洋平は酒の勢いを借りて言葉を振り絞った。

「ひどい、捨てられるってこと? あたしは今まで通りヨウちゃんを支えていくつもりだよ、一生愛し合おうって誓ったじゃん!」舞葉は泣きそうな声で言った。

「とにかく、俺には舞葉を愛する権利がないんだ」

「あたしにはあるわ。お金? そんなのあたしが何とかする」

「いや、そういうことじゃなく・・・1人になりたいんだ」洋平は言った。

    

    *


 舞葉はあきらめなかった。週末の休日には洋平のアパートに来て、家事を手伝った。洋平も舞葉をあきらめることができなかった。週末くらいは筆を休めて舞葉と愛を交わしたかった。ただやはり、経済的な面や社会的地位を考えると洋平の中に羞恥心が芽生え、プライドも交際の邪魔をした。(やはり、生温い自分が許せない・・・)洋平はいつもそう思いずるずると5年が過ぎようとしていた。


    *


「ヨウちゃん、話があるの」

そう切り出したのは今度は舞葉だった。

「いつもお世話してる派遣さんのエンジニアで、私を気にいってくれる人がいて・・・」

「好きな人ができた?」洋平は訊いた。

「まだわかんない」

「良かったじゃん。これからは婚活も含めて考えないと」洋平は強がった。

「ばか!ヨウちゃんは何とも思わないの」

「前に言ったはずだよ、俺には権利がないって」

「もう、知らない」舞葉は泣きながら洋平のもとを去っていった。


    *


 洋平は別れた最初は執筆とアルバイトに没頭した。時間があればなるべく図書館で本を読み漁った。しかし、いざとなると男は弱い。だんだんと夜に、決まって酒を飲み始めた。アパートで1人、寂しさを紛らわせたり、思い出に浸ったりした。酔うと思うのは舞葉のことばかりだった。いまごろ他の男に抱かれていると思うと胸が張り裂けそうになる。

「もしもし」

「・・・ヨウちゃん?」舞葉の声がいとおしい。

「おれ、やっぱり間違っていたのかな、舞葉が忘れられない」

「・・・ゴメン、いまはヨウちゃんのことは考えられない」

「どうして?」洋平は訊いた。

「別れようっていったのはヨウちゃんよ」

「そうだな。電話してゴメン、」

「いま、幸せかい?」洋平は訊いた。

「・・・相手には奥さんも子供もいた。しかもまだ赤ちゃん」舞葉はため息をつきながら言った。

「おれが殴りに行ってやろうか?」

「やめてよ。そっとしてほしい・・・あの人の赤ちゃんが欲しいの」舞葉は言った。

洋平は気が狂いそうになった。

「もう、これ以上話すと、まずいな、お互い」

洋平はそう言って電話を切った。脳みそが無性にアルコールを欲した。

(俺はなにやってんだろう? 職にもつかず、好きなことだけやって、文学賞も取れない。それでも舞葉を必要としている・・・)洋平はたまらなく自分が嫌になった。

 ウィスキーのニッカ黒を瓶ごと呷った。

「自分で退路を断ったのは、誰だ、ああおれだよ」洋平はひとりごちた。


    *

 

その日から、洋平は家に引きこもった。アルバイトは体調が悪い、としばらく休ませてもらった。原稿には全く手がつけられなくなった。何を考えても舞葉のことに行きついた。そして自分の不甲斐なさを恨めしく思った。夜には酒を飲みながらひたすらCDを聴いた。

酒が止まらなくなった。朝からコンビニに行っては、1日分のアルコールを買い込んだ。食事はほとんど何も取らず、トイレで吐いてばかりいた。吐くものが無くなると、血反吐や胃液が便器を汚した。1日中飲んでは、寝るを繰り返す。そのうちにトイレに行くのも面倒くさくなった。仕方なくトイレに立ち上がるために焼酎を呷った。


    *


 何日続いただろうか、洋平の携帯が久しぶりに音を立てて鳴った。舞葉からの着信だ。

「もしもし」洋平はうつぶせのまま電話に出た。

「・・・ヨウちゃん」

「ん?」

「・・・あのさ、」舞葉は泣きながら言い出しにくそうに言葉をつなげた。

「・・・できちゃったみたい」

「・・・ふーん、よかったじゃん」洋平は布団で寝ながら力を振り絞って答えた。

「ちがうよ」舞葉は返す。

「あなたの子か彼の子かわかんないの」

洋平は仰向けになって天に叫んだ。

「オーマイガッ」


    *

 

洋平は久しぶりに原田の街に出た。家にいるとそのまま眠って死んでしまうと思ったからだ。行きつけのソウルバーで、つぎつぎにグラスを重ねていった。シーバスリーガル12年。スコッチの苦みと甘みが舌の上で混ざり合い、喉元を刺激して流れていった。五臓六腑にしみわたるなんともいえない落ち着く感覚。頭上ではMarvin Gaye(マービン・ゲイ)の What’s Going On のライブ盤がここちよく耳に入ってくる。

(締め切りにさえ出せない無冠の物書き・・・)洋平は自分でおかしくなって笑ってしまった。

何杯飲んだだろう? 外の空気が吸いたくなった。


    *


原田川は夜のネオンを反射して黒い流れの中に、オレンジや黄色、赤、青と様々な色を光らせていた。

 洋平は千鳥足で、川沿いを歩いた。「オニイサン、ニマンエン」というお姉さんを無視して二重橋を渡る。

(誰の子かわかんないの)その言葉が頭から離れない。

これから自分が取るべき行動を考えるたびに、アルコールがほしくなった。

ドタッ、洋平は店か何かの看板の支柱に足をとられ転倒した。

起き上がれない。それほどに酔っている。頭の中が遊園地のティーカップに乗っているようにぐるぐる回る。

「ボクチン、ツカレハテマシタ」洋平はつぶやいた。

 ふと、目を凝らして上を見上げると

『鬱憤館』

ほの白く、薄汚れた看板はプラスチックでできていて、ヒビが入っている。

しかも酔っていて漢字がぼやけてよく見えない。

「んったく、」洋平はようやっと起き上がって、改めて看板の店を見た。

木製の大きなドアが1枚あるほかは、窓もなくコンクリートで塗られているだけだった。

(あやしい・・・)そう思った。

しかし同時にこの店は何屋か知りたくなった。一見すると会員制のバーか?いや、それほど高級感は無い。スナックか? いやそれにしては目立たない。宗教道場にしてはこんな時間にやっているわけがない。無性に中が知りたくなった。

 重たそうな真鍮製のノブを引いてみる。

カランッコロンッ、小さなカウベルがノスタルジックな音を立てた。

「いらっしゃい」初老の男性の声が奥から聞こえる。

 洋平はまた眼を凝らし店の中を見回した。ここちよくシャンソンが流れている。

 幅3メートル、奥行きは10メートルほどだろうか、薄暗い店内の天井からは電球をちりばめたようなシャンデリアが垂れさがっている。

 カウンターは3席。しかも誰もいない。赤いレザーでできたスツールが3つカウンターの前に並んでいる。カウンターの中には背が高くスラリとした老人がバーテンダーの格好で立っている。ゆたかな白髪(はくはつ)は七三分けになっていてカーネルおじさんのように黒縁メガネで微笑んでいる。

「あ、あの」

「初めてでいらっしゃいますね」北川はゆっくりと落ち着いた声で言った。

「ここは、バーですか、なんですか?」洋平は訊いた。

「看板の通りです。バーでも飲み屋でもありません」北川はにこやかに言った。

「はあ? んじゃなに屋さんですか?」

「うっぷんかん、と申します。私は店主・北川です。どうぞお見知りおきを」

「だから、なに屋さんですか、って聞いているんです」

「まあ、まあ、まずはおかけになって、メニューをどうぞ」

洋平はスツールに腰掛けた。

北川はフレンチの料理屋にあるような黒いメニューを洋平の前に広げた。

    

    ●シェフ北川の気まぐれ鬱憤プラン(1万円~時価)


    ●有機で育てた北川さん家(ち)の鬱憤プラン(2万円~時価)


    ●アニバーサリー・鬱憤とのマリアージュ(50万~)


「はあ?ぼく酔いすぎですかね、訳がわかりません」洋平は本当に飲みすぎたと反省した。

「お飲み物は、いかがいたしましょう、無料サービスです」北川は棚の酒類を指さした。

「つか、お金がありません。ぼくには。帰ります」

「ははは、ご心配なさらずに。お客様と丁寧にプランを練っていきますので。お見かけしたところ人生の岐路に立っているご様子。ぜひわたくし北川がお役に立てたら幸いです」

「なんで人の人生なんてわかるんですか?」

「わかるからあなたはここにいる。天を仰いだわけですから」

洋平は怖くなった。ついにアルコールで脳がやられたと思った。

「んじゃ、あのブランデー。バカラで出来てんですよね、あれもタダ?ですか」

「どうぞ、どうぞ。グラスを用意します」


    *


 洋平は、どうせ夢だと思い、洗いざらい話した。舞葉のこと、作家の芽が出ないこと、妊娠のこと、これからどうすればいいか悩んでいること。北川は「ええ」「おや」「そうですか」を繰り返し、熱心に、そして穏やかに聞いているだけだった。ひと通り話し終えると、

「小牧様、それは大変な時期でございますね。シェフ北川の気まぐれ鬱憤プランでよろしいかと思いますよ、小牧様は初めてですから1万円でご奉仕させていただきます」

「え?話を聞いてもらうだけじゃないんですか?」洋平は訊いた。

「とんでもございません、サービスはこれからでございます」

「い、いったい何をしてくれるんですか?」

「では、気まぐれプランですのでいまからわたくしがご提案さしていただきます」

 北川は、やっと自分から語り始めた。


    *


 洋平は鬱憤館のある雑居ビルの8階にある部屋に案内された。

「それでは小牧様、今日から3日間、この部屋で頑張ってくださいませ。お話しした通りです。外からカギがかかっていますので事実上の監禁です。お食事はこちらから定期的にお運びします。くれぐれも誓約書のサインをお守りください、では」北川はガチャリと扉を閉めた。渡された紙にはさっき話した提案が書いてあった。



     今日から3日間のあいだ、貴殿と舞葉さんのこれからの

ラブストーリーを40000字(原稿用紙100枚)

以上で2つ書きあげること。


1つ、舞葉さんが子供を産む場合

2つ、舞葉さんが子供を産まないといった場合


ただしどちらも貴殿が舞葉さんは不倫をやめてあなた

のもとに戻ってくるという想定にすること。

そして舞葉さんを必ず幸せにするストーリーであること。



部屋はバス・トイレ付きで、簡単なホテルのような部屋だった。携帯・財布は没収された。洋平は、必死で部屋にあったパソコンを打ち始めた。舞葉への思いを正直に書き、自分がどうするのかを具体的に書きあげていった。3日以内に書けなければ違約金10万円が科せられる。


    *


「いかがですか? お約束の時間がやってまいりました。窮すれば通ず、ですね。あとはできた原稿を舞葉さんに渡すだけです。そのあとはどうなるか、に関しましては当店では一切関知しません。最初に書いた誓約書どおりです」北川は洋平と握手をした。

「なんかわからないけど、ストーリーどおりに生きてみます、北川さん」

「ご幸運を祈ります」2人は硬く握手を交わした。

 外へ出ると雲の間から青い空がのぞいていた。洋平は駈け出した。

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