第56話 小城舞の苦手科目は教育学である(10)
なんだか妙な空気になっていたな。
まあ、カラオケって防犯カメラあるところはあるし、そもそもカラオケって歌を歌う場所だからな。
何か始まる前に何もなくてよかったな。
きっと、小城もそう考えているんだろう。
なんとか変な空気にならないように話題を絞り出す。
「せ、先輩ってカラオケうまいですよね? 男の人なのに高い声でますし」
「ああ、まあ、練習したからね。腹式呼吸ができるようになれば高い声でるよ。喉から声出していたら、喉痛める可能性あるし、すぐに声ガラガラになるから、腹式呼吸はマスターした方がいいと思うな」
実際に歌を歌い過ぎて声帯を傷つけて、病院に行った先輩を知っている。
バンドの練習をやり過ぎたらしい。
単位もろくにとらずに、ひたすらバンドばかりやっていた。
将来の夢はメジャーデビューすることだから、就活もまったくしていなかった。
結局は中退したんだけど、あの人どうなったのかな。
元気にやっているのかな。
「ふ、腹式呼吸ですか……。練習ってもしかして家でやったりしたことありますか?」
「やっているよ、今でもたまに。お風呂で正座しながら腹式呼吸をやると、しっかりお腹に負担がかかるし、半身浴もついでにできるから一石二鳥だよ」
「女子ですか!? 半分冗談で言ったんですけど!! へー、先輩って凝り性ですか?」
「…………そうかもな。好きなことは結構やるタイプかも」
勉強とか、料理とか、カラオケとか。
自分の好きなことには一生懸命やるタイプかも。
逆に興味がないことには全く興味がないから困るんだけどな。
「うーん、すごいですねー。私には難しいかもしれないですね。腹式呼吸っていまいちやり方がわからないですし」
「寝転がればいいよ」
「え?」
「だから、仰向けになって力抜いて、そして歌ってみたらいいよ。そうしたら自然と腹式呼吸になるから」
その状態で歌うと腹筋に力が入るから、まあまあしんどいんだけどね。
学校の音楽の先生に、喉から歌うんじゃなくて、腹から声を出せってよく言うけど、それを無理やり体感できる。
「ほんとうですか?」
「うん、やってみたら?」
家でやってみれば?
というニュアンスで訊いてみたんだが、ころんと、ソファに可愛く転がる。
えっ、と、まさかここでやるのかな?
しっかし、仰向けになると胸元のボリュームが強調されて見えるな。胸元がはだけている服を着ているせいで、下着が微妙に見えているような、見えていないような。どちらにしてもチラチラ見てしまっていることには違いない。
後ろめたさに視線を漂わせていると、バッチリ目線が合ってしまう。
「いや、見てないから、見てないから」
「見てくださいよ!」
「えっ、見ていいの!?」
痴女なの!?
そういう趣味あるの?
「ちゃんと見ていてください。これでいいんですか? どういう体勢で腹式呼吸をすればいいのか分からないんですよ。ちゃんと見てくれなきゃどうやればいいか分からないじゃないですか」
「あっ、そういうことね。うん、それでいいよ」
びっくりしたけど、そういうことか。
変な雰囲気に流されて思考が乱れていたかな?
小城が普通にしているんだ。
こちらもしっかりしないと。
「あっ、本当ですね。歌えています!」
「うん、それでやっていったら慣れて、普通の状態でもしっかり歌えるようになると思うよ」
腹式呼吸だけでなく、どんな事柄でも耳にしただけで物にできるのは天才だけだ。
実際にやってみて初めて身に付くものだ。
だから教える時はなるべく、教えたことをやらせたい。
宿題として出すのもありだけど、それだとやらないことがあるから、なるべく自分がいる時に実践させるのがいい。
学習することに関して嫌がる人が多いけれど、食わず嫌いと同じようにやらず嫌いだったりする。
やらせみたら、意外に楽しかったりするのだ。
教育学を専攻している小城には、身を持って感じ取ってほしいな。
「先輩はやっぱりすごいです。物知りだし、教え方もうまいし。私にとっては最高の教師です」
「あ、ありがとう」
そんな大したこと教えたつもりないから、照れるな。
「あの、もう少しだけ教えてもらっていいですか?」
「うん、もちろん」
「腹式呼吸ってお腹をへこまさないといけないですよね? そのタイミングが分からないんですけど」
「それは息を吐く時に――」
「言葉だけじゃ分からないので、触りながら教えてもらっていいですか?」
あれ?
なんか空気が変わったような気が……。
「え? 触るって、もしかして?」
「はい、お腹を。ダメ……ですか?」
「いや、それは、ちょっと……」
「お願いします」
うん。
俺の意志とか無関係に手を握られちゃったなあ。
なんでわざわざ訊いたんだろう。
だが、まあ、それはいい。
百歩譲ってその点に関しては目を瞑っていい。
だけど、なんで上着をめくるのかな?
触るなら別に服の上からでもいいんじゃないの?
へそが見えてしまう。
すごく……綺麗だ。
めくった服からチラリとへそが見えているのに、なんだかエロい。
胸を観てしまうのと同じぐらいに。
なんでだろう。
……って浸っている暇なんてない。
さ、流石にこれはまずいって。
「あっ!」
「ご、ごめん!!」
触るつもりなんてなかったのに、無理に俺が動かしたせいで強めに触ってしまった。
小指が、小城のへそにひっかかってしまったのだ。
痛かったかな?
そこまで強くは触れていないと思うけど?
「いいです。……ちょっと気持ち良かったから」
「え?」
「あっ! すいません! 言い間違えました!!」
なにと、言い間違えたら気持ち良かったになるの!?
教えて欲しいんだけど!?
さっきまで小城の先生ぶって色々と講釈を垂れていたけど、今はこっちが生徒になって細かく教えて欲しいんだけど!?
「先輩、もっと私の知らないこといっぱい教えてくだしゃい」
ヘソどころか、腰まで見えるぐらいに上着をたくしあげている。
その上で顔を真っ赤にしながらそんな懇願されたら、俺の頭もショートしそうだ。
これって、そういうことでいいんだよな?
教えて欲しいって、深読みすると、そういうことでいいんだよな?
ここで俺が読み間違えると大変恥ずかしい想いをするというか、ただの犯罪者になり果てるんだけど……。
誰か正解を教えて欲しい。
なんでテストの答案のように答えがないのか。
どっちなのか、分からない。
ゴクッ、と生唾を呑み込んでから、俺はお腹に手を当てる。
「あっ!」
「えっ、ごめん」
「いいえ、大丈夫です。そのまま感じてくれませんか? 私のお腹の動きを?」
「あ、ああ、うん……」
小城が歌って、そしてそのお腹のへこみ具合を手で直接確認する。……いや、なんだこの高度なプレイは。これって、誰かに観られたら完全に変態カップルに観られるんじゃ――
ドガッ!! ドンドンドン!! と、カラオケのドアを殴ったり蹴ったりするような音が聴こえてくる。
「きゃあ!」
「くそっ!」
服をなおさなければならない小城と違って、俺は半ば予想していたので反射的に身体が動いた。
さっきよりも素早くドアを開ける。
「いないな……。なんだったんだ……」
あちらも俺が早く廊下に出ることを予測していたのだろう。
どこにもいない。
隣の部屋のドアがまたもやガチャガチャ慌てて閉めたような音がしたけどな。
流石に、隣の部屋をのぞいてみると、そこには素知らぬ顔で歌っている中学生か高校生ぐらいの女の子たちがいた。
微妙にその一人の視線がドアの下にいっていた。俺から死角になるところに誰かがそこにしゃがみこんで隠れているように見えたけど、中に入って確認するのはマナー違反だ。
女子の方々がみんな陸上競技の服を着ていたけれど、さっぱり誰か分からないな。
結局、誰だったんだろうか。
ことあるごとに邪魔してきたのは。
皆目見当もつかない。
俺はしかたなく自分の部屋に戻ると、もう小城は乱れていた服装を戻していた。
「…………むぅ。いいです。今度は誰の邪魔も入らない先輩のおうちにお邪魔します!」
「えっ? なんで!?」
「先輩に勉強を教えてもらうんですよ!! もっと先生になるための勉強です!! まだ途中だったじゃないですか!? だめでしょうか!?」
「いいけど……」
「やったー!! 私、勝った!! 勝ちました!!」
「何に!?」
一番邪魔しそうな妹様が俺の家にいるのは、なんとなくだけど黙っておこう……。
すんごい喜んでいるし。
「お暇な日はありますか!?」
「暇って、まあ、明日ぐらいから暇になるからな。ちょっとの時間だったらいつでもいいけど」
「ああ、そうですね。もう夏休みですもんね……」
大学生の夏休みは長い。
俺の大学は二ヶ月ほど休みがある。
だけど、あっという間に過ぎていくだろう。
楽しい時間というものは一瞬で終わるものだ。
俺の大学生活最後の短くて長い夏休みが始まる。
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