第53話 小城舞の苦手科目は教育学である(7)
「……その人は?」
「こっちは俺の大学の後輩の小城だよ」
「……呼び捨てなんですね」
「えっ、うん……」
あれ?
なんか、ピリピリした空気になっているんだけど、なんで?
美鈴ちゃんはいつも天真爛漫で運動大好き少女! って感じなんだけど。
瞳孔開いていません?
「先輩、そちらの方は?」
「こっちは美鈴ちゃん。えっーと、説明が難しいんだけど、俺がバイトでやっている家庭教師の――」
「生徒?」
「いや、その生徒のお姉さんですね、はい」
「へえ。生徒だけじゃなくて、その家族にも関係を持っているんですね。流石先輩、隙あらば女の子と仲良くしようとしますね!」
棘あり過ぎじゃないかな?
家庭教師は家で教えるから、自然と生徒だけじゃなくてその家族とも関わるようになるんだよなあ。
誰だって家が一番安心する場所だ。
どうしても素が出てしまう。
素が出たところを観られたら、心を開いてしまう。
そういうものだ。
学校の教師や塾の講師では決して見られないものが見られるのが、家庭教師のいいところだな。
「……それにしてもちゃん付け。ちょっと子どもっぽいけど、先輩に言われるのならいいかもおお……」
自分の柔らかい頬を粘土みたいにこねこねしながら何か言っているけど、小声だし後ろを振り向いたせいでなにをいっているのか聴こえない。
このカオスな空間を打破してくれたのは、第三者である店員さんだった。
「お客様、大丈夫ですか!?」
「あっ」
頭からぽっかりと抜けていたが、そういえばグラスを落としたんだった。
しかも、中身が入っていた。
氷とそれから炭酸ジュースが床にこぼれていた。
「あの、拭くものとか、箒とかありますか?」
「はい! 持ってきます!」
店員がいなくなっている間に、持参していたタオルを持ち出す。
グラスの中身が、美鈴ちゃんのスカートにもかかっていたのだ。
「はい、これで拭いて。ちょっとジュースがかかっちゃったね」
「いっ、いいですよ。今持ってないですけど、部屋にあるタオル持ってきますから」
「いいから。早く拭かないと風邪引いちゃうでしょ?」
「ご、ごめんなさい……」
申し訳なさそうに受け取ると、スカートを拭いていく。
「美鈴ちゃんはどうしてここに?」
「私は部活のみんなとここに」
「あー、それでカラオケに。部活ってなんだったけ?」
「陸上部です。――あっ」
何かに気がついたように下を観る。
俺もつられて下を見ると、ぺろりんとスカートがめくれていた。
拭くためにスカートを持ち上げていたのだが、まるで見てくださいとばかりのポーズの痴女だ。もしくは三島だ。
だが、その中身は陸上で使うスパッツだった。
だから何の背徳感もないはず――なのに、どうしてだ。
目が離せない。
「い、いつもは! もっと可愛い下着つけるんだけど! きょ、今日は部活があったからそのまま着ちゃっていて!」
「わ、分かったから。落ち着いて、見えているから」
「あ、あうあう」
それにしても、スパッツっていいなあ。
普通、スカートがめくれて、そこにスパッツのような下着じゃないものがあったらがっかりするだろう。なんで? 神様が本当にこの世界にいるのなら、どうしてスカートがめくれたという奇跡があったのに、俺にパンツを見せてくれないのかと絶望するだろう。
だけど、陸上競技のスパッツであることが、もしかしたら希望の光になっているのかもしれない。
メイドやウェイトレスの制服に興奮するのと同じように、特殊な服……。普段はお目にかかることのないものに人は惹かれるのではないだろうか。
普通にグラウンドで美鈴ちゃんがスパッツを着て走っていたとしても何も思わないだろう。頑張っているな、ぐらいの普通の感想しか思い浮かばないだろう。
だが、隠していたのだ。
スカートの中にスパッツを隠していて、そして今御開帳したのだ。
自分自身の手で。
カラオケ店という特殊な環境。
特殊な状況。
それらも興奮するための一つの要因なのではないだろうか。
そして、だ。
まだ終わらない。
そもそもスパッツの魅力というものがある。
所詮は下着に劣るものだと決めつけられている節がある。
だが、スパッツには密着感というものがある。
どうして男はニーソが好きなのか。
起源を探ると途方もない時間渡航になるので止めておくが、ニーソは太ももが食いこんでいてそれがはみ出すからこそエロく感じるのだ。女子は細い方がいいという考えだろうが、男子的には多少なりともぽちゃっている時にニーソ履かれた時には吐血するぐらい興奮するものなのだ。
まあ、ニーソは有名で俺が言うまではない。
だが。
スパッツは、それと同様の効果を得られる可能性を秘めていることを俺は胸を張って論じたい。
あれ?
陸上競技のスパッツを着ているってことは、下着は?
やばい。
陸上部に所属したことがないから分からないけど、スパッツの下に下着は穿くのか? 穿かない気がするんだけど。ということは、つまり、ノーパンっていうことか?
そもそも、どうして今、この瞬間スパッツを? 思い出せ。美鈴ちゃんの発言を。
今日は部活があったからそのまま着ていた? つまり、素直に考えれば部活の時から着ていることになって、着替えるのを忘れたということになるが、それが本当にありえるのだろうか。みんなが着替えている時に、美鈴ちゃんは何をしていたという話になる。
もしかしたら、最初から?
登校する前からスパッツをしていたとしたら? それならば全ての疑問が解消する。だとしたら、その時からずっと着ていたということか? ということはその時からノーパ――
「ごめんなさい、ありがとうございます。これ、洗って返しますね!」
おっと、何か変な方向に考えがいっていたけれど、美鈴ちゃんのおかげで意識を取り戻すことができた。
「いや、別にいいけど」
「いえ、洗って返します! べ、べつにこれを使って変なことをするつもりじゃないからね!」
「あ、うん」
変なことって何なのか想像もつかないんだけど。
雑巾みたいに床掃除とかするのかな?
「……そういえば、先輩たちはどうしてここに?」
「ああ、それは――」
「デートです!!」
「えっ?」
「えええっ!?」
小城の言い出した言葉に俺が一番驚いている。
デートってなんだ、デートって!!
「そういうことなんで、それじゃあ、後は頑張ってください!!」
小城はそういうと俺を連れて行く。
角を曲がってもぐんぐん歩いていく。
しかも部屋番号と全然違うところいっているじゃん。
どこで歌うか分かっていないだろ。
グラスの後始末もちゃんと終わっていないのに。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 何とんでもない嘘をブチ込んでんだ!! 美鈴ちゃんは交友関係広いから噂広まるのが早いんだけど! これで家庭教師やりづらくなったらどうするんだよ!!」
怒鳴るように俺が言うと、小城がその場にペタンと座り込む。
「しゅ、しゅいましぇええん。つ、つい……」
「いや、土下座なんてしなくていいから! そこまでショック受けなくてもいいって!!」
ははー、とふざけたようにも見える土下座を披露しているのだが、やりなれていないせいかスカートめくれていますけど。
ピンク色のパンツが見えちゃっていますけど。
ガバッ、と小城が上体だけ起き上がる。
「だ、だって、せっかく先輩と二人きりで遊べると思ったのに、ずっとあの子の相手ばかりして私のことを無視するから、つ、つい」
「な、なるほど」
無視されて腹が立ったから、俺に意地悪したくなったと。
それから冷静になったら自分のしでかしてしまったことを反省していると。
そういうことか。
もっと怒ってやろうと思ったけど、どうやら反省しているみたいだからいいか。
つい言葉がでることは誰にでもあることだしな。
「こっちも悪かったな。小城のことを無視したわけじゃないんだ」
「い、いえ、先輩は悪くないです!!」
「ううん、ごめん。小城のこと忘れてしゃべりすぎた。気遣いできなくてごめんな」
もし将来先生になるなら、もっと視野を広げられるようにならないとな。
家庭教師は一人の生徒をずっと見続けなきゃいけない。
だから視点が一点に集中しやすいのかもしれない。
お世辞にも友達が多い方じゃないしな、俺は。
喋る相手が複数人いる時は、もっと気を付けるべきかもしれない。
「それじゃあ、一緒に誤解を解きに行ってくれるか?」
「は、はい!」
もう気にしないですよアピールでわざとらしく明るく言ってやると小城はついてきてくれた。
そう。
俺と手を繋ぎながら。
「――って、なんで手を繋いでいるの!! これじゃあ誤解解くどころか、深めることになるだろ!!」
「す、すいません。つ、つい、な、なんとなく……」
「なんとなくがさっきから多すぎない!?」
確かに違和感なかったけれど。
小城が土下座していた時に、身体を起こしてあげる時に腕をつかんで起こしてあげた。
そのノリで繋いでしまったのかな。
危なかった。
見られていたらもう反証できないところだった。
あとは会うだけ。
美鈴ちゃんに会って誤解を解くだけ。
そう思っていたのに。
カウンターに戻ると、そこには店員さんだけ。
美鈴ちゃんは割れたグラスを片づけ、自分のカラオケ部屋に戻ったようだ。
美鈴ちゃんの連絡先は知らない。
カウンターの人に部屋番号を聴いても守秘義務のせいで教えてくれないだろう。
無数にある部屋を一つずつ覗いていったら、不審者として通報されるだろう。
あっ、これ詰んだな。
「最悪だ……」
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