第46話 愛沢林檎の苦手科目は数学である(11)

「……終わったようですね」

 愛沢のお母さんに声をかけられて、ビクゥと驚いてしまう。

 いきなり死角から声を掛けないでほしい。

「はい。それじゃあ、失礼します」

「まあ、待ちなさい。少しだけお話しませんか? その分のお金は出しますから」

「いやいや、いいですよ。お金なんていりませんから」

 廊下から部屋に入る。

 話ぐらいだったらいくらでもするが、一体どんな要件だろう。

「どうしましたか?」

「うちの娘は大丈夫でしょうか? 先生にわがまま言っていませんか?」

「い、いいえ。そんなことはないですよ。愛沢は真面目ですから」

 他の生徒の方が我が儘言う子が多い気がするな。

 例えば、三島とかね。

「むしろ、俺の方が言い過ぎている時があるかもしれません。こんなことを雇い主に言うのも違う気がしますが、まだ学生の分際で教える側になるっていうのはちょっとまだ抵抗があるんですよ」

「……うちの娘は、家でいつもあなたの話ばかりです」

「え?」

「今日は先生にこんなことを習ったとか、分からないことが分かって楽しいとか、そういういい話ばかりです。だから先生は自信を持ってください」

「そう、なんですか……。あの愛沢が?」

 そんな話していたんだ。

 知らなかったな。

 勉強ができなくて苦しんでいる姿ばかり見ているから、嫌われても仕方ないと思っていた。

「私が小学生の頃、中学生が大人に見えました。中学生の時は高校生が、高校生の時は大学生が、大学生の時は社会人が。ですが、大人になって分かることがありました」

「それは?」

「子どもも大人も何も変わらないということです。自分が大人になってあまりにも成長していないので、不安になったものです。……ですが、それでも大人は大人ぶらなければなりません。たとえ子どもの頃のままでも、大人にならなければならない。それが大人の責任というやつです。分かりますか?」

「はい」

 なんとなく、分かる気がする。

 大人は自分が大人だと言う自覚があるから大人なんだ。

 家庭教師も、自分が家庭教師であるという自覚がなくてはいけない。

 愛沢の前じゃ、先生として振る舞わなければならない。

 そうじゃなきゃ、愛沢もついてきてくれないよな。

「あなたはよくやっています。そうでなければ、すぐにクビにしていますよ。こっちはお金を払っているんです。慈善事業ではありません。あくまであなたの能力を判断し雇っているのです。……もちろん、娘があなたを気に入っているのもありますがね」

「あ、ありがとうございます」

 そう言ってもらえるとありがたい。

 生徒と先生は信頼関係がなくてはやっていけない。

 もちろん親御さんの理解とサポートも必要不可欠だ。

 それができていると知ってほっとする。

「私にとって娘は眼に入れても痛くない。だから、厳しく指導するのは難しいものです。学校で問題が起きた時はモンスターペアレントになってでも、子どもの味方になるつもりです」

「いや、それは自重してください」

「それぐらい大切だということです。だから、多少厳しく言う方があの娘のためになると思っています。だから、迷わずに今のままの指導でいいと思いますよ」

「はい!」

「……最初は家庭教師なんてどうかと思っていましたが、学校と違って、娘が勉強している姿を盗み見することができるのはいいものですね。成長している姿を直に見ることはいいことです」

「まあ、授業参観みたいなものなんですかね」

 そのまま流そうとしていたが、待て待て!

「盗み見しないでください! 見ていたんですか!?」

「なにせ、ロリコンとして名高い先生ですから。密室で二人きりにしていたら一体どんな間違いが起こるか分かったものじゃありませんからね」

「違いますから! というか、どんだけロリコンの噂で回ってるの!?」

「先生が自分の教え子を、自分好みに躾けているとかなんとか」

「どこの光源氏ぃいいい!!」

 ビシィと、愛沢のお母さんは背筋を伸ばして頭を下げる。

「娘をどうかよろしくお願いします。どうか厳しく躾けてやってください」

「なんで今の流れでそんな不穏な言い方なさるんですか!? 家庭教師としてですよねえ!? そうですよねえ!?」

「…………そうです、よ?」

「なんで疑問形いいいい!?」

 調教するとかそういうことじゃないんですよね!?

 おかあ――

「お母さん!!」

 心の中と同じ言葉で、愛沢が乱入してきた。

 着替えようとしている途中だったのか、服がはだけている。

 胸のあたりが見えそうになっているのを凝視してしまう。

「大声を出すなんてはしたないですよ」

「大声も出るよ! また先生と変な話ばかりして! 恥ずかしいんだけど!」

「娘が盗み見している事実の方が恥ずかしいです。いい加減その癖おやめなさい」

「お母さんに言われたくない!!」

 どっちも盗み見しているとか、親子だよ、この人たち完全に似た者親子だよ。

 というか、厳しくできないとか言いつつ、結構注意できていますよね?

 ますますヒートアップする親子喧嘩に巻き込まれないために、俺はひっそりとその場を後にした。

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