第5話
フラフラと立ち上がり、カーテンを開けると、夜の空にうっすらと青白い空が覆い被さっていた。虚ろな目で一言呟いた。
「夜明けだ」
……何かの音が徐々に近付き大きくなっていく。
それはインターホンが鳴る音と、ドアを叩く音だった。
私はいつの間にか泥のように眠っていたようだ。
カーテンを開け、夜明けを観たのが意識のあった最後だった。
時計をチラッとみると7時だったがそれが午前7時なのか午後7時なのかは分からない。
目をしっかりと開けて部屋の暗さから午後だと確認する。
しかしだからどうしたというのだ。
今の私には今が何時かなど、どうでも良かった。腹が減れば食い、眠くなれば寝る。
本能のままに生きているが、やっていることは誰よりも知的で芸術の極致をいく崇高なことだと自信を持って言える。
それにしても騒々しい音が鳴りやまない。
良く聴くとインターホンの音とドアを叩く音の合間に女の声が聴こえる。
「優輝さん!いるの?」
直美だ。何故ここが分かったのだろう。
彼女がどうして私の居場所を突き詰めたかは分からないが、考えれば方法はいくらでもあることだ。
どうやら彼女は私が今、家に居ることを察しているらしい。今出なければ通いつめてドアを叩き続けるだろう。
私はゆっくりと起き上がり、ゆらゆらと玄関まで行き、鍵を開け、ドアをゆっくりと開け、上半身半分だけ、にゅうっと外に突き出す。
そこには白いブラウスに黒いタイトスカートの直美がいた。
直美は私の変わり果てた姿を観た瞬間、大きい目をさらに大きくし、手で口元を抑えて小さく悲鳴をあげた。その次に涙を流しながら言った。
「どうしちゃったの。優輝さん」
私は顔色一つ変えずに答える。
「私はどうもしていないよ。ただ全てを捨ててまでやりたいことを見つけたんだ。今私は幸せだよ」
直美は少し声を荒げて言う。
「全てを捨てて、そんな姿になってまで手に入れるものが本当の幸せだなんて思えないわ」
私は冷静に答える。
「目で見えるところに幸せは無いさ。いくら社会的地位を確立し地位と名誉を築き上げ、素晴らしい家庭を築いているかのように見える人間でも、その人が幸せかどうかなんて本人以外には決して分からないようにね。」
直美は顔を伏せて静かに言う。
「あなたが何をしているのかは知らないし、知りたくもないけれど、婚約前のあたしを捨てて、全ての人の期待を裏切って、責任を全部捨ててまで手に入れたものに本当の幸せなんて無いわ。何故なら本当の幸せって……」
そこまで言うと直美は声を詰まらせて再び涙を流し始めた。直美の涙が玄関を濡らす。
私はボソボソとつぶやきながら語る。
「すまない。しかし私はこの国に、この資本主義の虚しい社会には、否、人の人生そのものが絶望的にかりそめに見える。空の空なのだよ。親父はそれに気付いたからこそ、会社が軌道に乗り順風満帆な時に自殺をしたんだ」
そういうと直美は顔を上げ真っ赤な目で腐った魚のような目をした私をしっかりと見つめながら言った。
「違う。あなたのお父さんは、大事なものが欠けていた。それはあなたにも欠けていたものよ。しかし今のあなたにはそれを言っても分からない」
直美はそこまで言うと後ろを振り向き、静かに立ち去っていった。
私と父に欠けていたもの。そんなこと知る由も無いし知ろうとも思わない。
おそらくはったりか何かだろう。私には私の世界がある。私は神だ。
直美が見えなくなるまでの間、無心に、うつろな目で直美の姿を追い、姿が消えると再び私の世界の前に座り、私の世界に帰る。
キーボートを叩くパチパチという音だけが私の部屋に虚しく鳴り響く。
――私の世界では10年が経過した。
かりそめの現実世界では半年ほどだろうか。最近時間の感覚が分からない。
今日が何日か何曜日かなんてことは全く分からないし時計もあまり見なくなった。
ちなみに私の世界では再び問題が起こり始めた。
最近、アーサーがまた不穏な動きを始めていた。
というのも、昔滅ぼした悪魔崇拝的な邪教を行っていた輩の資料が遺跡の中から発掘され、好奇心旺盛なアーサーの目に留まり、その文化を研究するという名目でその資料を読み耽り始めたのである。
私は再び預言者を通して、アーサーに警告を与えたが、アーサーは、
「将来、登場するかもしれない悪しき文化を聖絶するためなのです。あなたの言葉に『敵を知り、己を知れば、百戦危うからず』とあります」の一点張りだった。
しかし私はアーサーが物珍しいものが好きで、奇妙で得体の知れないものに魅かれるという性格を良く知っている。
アーサーは何やら、羊と人間を組み合わせた奇妙な像を彫刻家に造らせていた。
それはどうやらオブジェとしてではなく、その像を拝むためだと発覚した。
アーサーはその人間と羊の合いの子の像の前に捧げものをし、香を焚き、平伏して祈っていた。私は偶像を拝む行為を強く禁止にしていた。
何故ならそれは私以外に神々を造って拝む行為だからだ。
私以外の神々を拝むとは、例えて言うなら、息子が全く知らない人間を父と呼び慕うようなものだ。
今まで丹精込めて育ててきた父を父と呼ばずに、他の全く無関係な人間を父と呼び慕うなんてことは明らかにおかしいではないか。
しかもその神々はただの造形物であって中身はすっからかんなのだ。
なんの意思も持たないただの物質を拝むなんて、滑稽にもほどがある。
アーサーはそういった物を拝み出し、私との関係をまたもや忘れるようになっていった。
そしてその風習は民達にも蔓延していった。
街のあらゆるところに偶像が建ち、様々な神々が街を支配していく。
中には淫婦の神なるものがいて、その神を拝む者たちは地下室で夜な夜な不特定多数との大乱交、同性同士の性行為、挙句の果てに近親相姦にまで及び耽っていた。
秩序、倫理の崩壊は、性の乱れから蔓延るといっても過言ではない。
性病が増え広がり、その影響で様々な二次災害的な感染病等が発症し、奇形児や精神病が増え広がっていった。
私は預言者を街や王宮に遣わし、そして災いを預言させ、預言者が預言した通りの自然災害を下し、悔い改めさせようとしたが死傷者が出ただけで彼らは全く悔い改めずに無駄に終わった。
彼らは心を頑なにしてしまった。彼らの狂った行為は更にエスカレートしていく。
ヤギの顔をした人間の体を持つ気味の悪い巨大な偶像の前で、自分の赤ん坊をその偶像に捧げるために、巨大な釜に煮え立った湯をなみなみに入れ、そこに赤ん坊を沈めて煮込み、その赤ん坊のシチューを回し飲みし偶像の前に置き、その後で淫行に耽るという陰惨、猛悪、惨たらしい儀式が始まったのだ。
「やめろ!」
私は思わず叫んだ。しかし次元が違うので聴こえるはずがない。
私は自然の法則が乱れてしまうのを覚悟のうち、怒り心頭で、その邪教徒達に向かって天から真っ赤なマグマのような液状の炎を降り注いだ。
ドロドロの炎はまるで生き物のように彼らにまとわりつき、彼らは泣き叫びながらその偶像とともに跡形も無く溶け去った。
私が彼らに幸せな道を歩ませるための掟を作り、彼らが道を踏み外しそうになった時は警告を与えて彼らの道を正しても、しばらくすると彼らは同じ過ちを繰り返す。
塔を崩壊させた事件からの10年間の間にも様々な過ちがあった。
その都度私は、被害が甚大に及ばないように預言者を通して警告を与え、それでも悔い改めない場合は遣わした使徒達の力によりなんとか食い止めることが出来ていたが、今回は食い止めることが出来ずにまた大事件を引き起こしてしまった。
というのも今回は預言者や使徒達も偶像を拝み、悪に染まってしまったのだ。
もはやこの世界に義人はいない。一人も、いない。
まるでかの有名なソドムのような街に成り果てた。
既に街中には民達によってあらゆる偶像が建てられ、あらゆる奇行、悪魔的な儀式が繰り広げられている。あろうことか私の聖なる宮にまで偶像が建てられている。
――もう駄目だ。
私は布団に潜り、うずくまって頭を抱え、呻き悲しみ続けた。
どうして彼らは同じ過ちを繰り返すのか。否、何故かということは理解をしている。
それは彼らの自己中心さと一時の快楽に負けてしまう弱さが根底にあるからだ。
要するに彼らには罪の性質があるからだ。
人間を創造するにはそれがどうしても必要だった。
小説を書く上で人間の弱さ、悪しき部分を書くのは至極当然だろう。それが無ければ物語なんてあって無いようなものだ。起承転結も何も無い。
それは重々承知していた。もしも、ただの「死んだ小説」を書くのならひたすら客観的になれるので登場人物が死のうが、絶望しようが、過ちを犯そうが、悩み葛藤することなどない。
しかしこの小説は私の創った愛すべき子供達の意識によって成り立っている。
私は彼らが間違いを犯し、人生が崩壊し、更に私に反抗し、そればかりでなく私の存在を忘れてしまうことが見るに堪えない。
もしも、彼らを悲惨な罪から救うことが出来るのなら、私は自ら私の世界に行き彼らの罪を背負い、彼らの身代わりとなることだって惜しまない。
しかしそれは出来ない。何故ならそれをするには、今私が生きているこの世界の法則を歪めるしかないのだから。
そしてそれは私には出来ない。私の世界の中の彼らがそれを出来ないのと同じ原理だ。
私の弱い精神力ではもう、この世界を続けることは出来なかった。
そう、それは私自身も、弱くて儚い惨めな人間なのだから。
私は神にはなれない。
――だから私はこの世界を滅ぼすことにした。
私は涙を腕で拭き、意を決し凛とした表情でモニターの前に座った。
そしてキーボードを打ち始める。
まず、世界全体に神々しい光を急に照らし始めた。
それと同時に耳鳴りのような音が世界に優しく響く。
全ての民達は突然の出来事に驚き、戸惑いながら天を見上げる。
地下で偶像崇拝を行っていたもの達さえもその異変に気付き、地上に姿を現し始めた。
アーサーと家来達は城の屋上からその光景を眺める。
私は優しく、かつ威厳に満ちた声で喋り始める。
「私の愛する息子達よ。私はお前たちを救うことが出来なかった。私はお前たちを愛するが故に、愛深き故に、悩み、苦しみ、気が狂ってしまうほどに胸が痛んだ。
私はお前たちが憎いのではない。ただ悲しいのだ。だからこそ聖なる怒りを持ってしてお前たちを懲らしめた。それはお前たちが幸せに生きて欲しいがためなのだ。
しかしお前たちは私の言うことに聞き従わず、忠告も受け入れず、聖なる怒りを持って分からせててもまた同じ過ちを繰り返す。私はお前たちが悲惨な自滅の道を進む姿をもう見たくはない。だからこの世界を滅ぼすことにした」
民達はざわめき、動揺する。叫びながら何処かへ逃げようとする者もいる。
それが無駄だということが分かっているのにも関わらず、ここではない何処かへ逃げようとする。
混乱状態の中語り続ける。
「これだけは分かって欲しい。私はお前たちが憎いのではない。お前たちを愛しているからこそ、滅ぼすのだ。私にはお前たちを救う力も術も無い。全ては私の心が弱く、お前たちに忍耐出来なかったせいなのだ。私は世界を創造する神になりたかった。しかし私は神になれなかった。何故なら私はお前たちと同じ、弱くて儚い、罪の性質を持つ人間なのだから。赦しておくれ……全て、私の責任なのだ。赦しておくれ……」
モニター画面が滲み、私の涙がキーボードを濡らす。
アーサー王は立派だった。彼は涙を流しながら、地にひれ伏し、悔い改めながら最期の時を待っているかのようだった。
私は世界を目が眩むほどの光で満たした。世界は光で真っ白になり何も見えなくなった。
次に耳鳴りのような音が大きく響き渡る。そしてそれは激しい洪水の音のようになり、世界全体が大きく揺れ動く。
世界が、崩れていく。私の世界が。
音が止み、静かになる。光が消え、後には闇だけになった。
終わった。私の世界は今、幕を閉じた。
ノートパソコンを静かに閉じる。
私はスローモーションのように立ち上がり、前のめりで、一歩一歩、フラツキながら部屋のドアを開け、そのまま歩き続けた。素足のままひたすら、歩き続けた。
私の目には何も見えていなかった。視覚は正常だが目の前に広がっている景色を何一つとして脳にインプットすることが出来ない。
クラクションの音が聴こえる。ふと意識が戻った。嗚呼、ここは交差点。
どうやら赤信号のまま――
刹那、私は鈍痛とともに宙に舞った。
地面に叩きつけられ、二度目の鈍痛を感じたところまでは意識があった。
――次に私が見たのはミイラのように包帯でぐるぐる巻きの私と、病室のベッドと、直美だった。
どうやら、体が動かない。首から下が微動だにしない。それに声も出ない。
直美は私が目覚めたのをとても喜び、泣いている。
初めに変わり果てた姿の私を見て、失望したと思いきや、こうして次に見た私は更に変わり果てているというのに、それでも尚、傍に居てくれ涙を流してくれるということは、ここまで堕ちてしまった私を未だに愛してくれているということだ。
どうやら私は脳挫傷の重症で生死の境をさ迷い、辛うじて息を吹き返したが、全身不随で声も出なくなり、嚥下障害、他あらゆる障害が残ったようだ。
そして回復する見込みは0とのこと。
つまり私は一生このままなのだ。死ねなかったのは残念だが、もはや自分がどうなろうとどうでも良いことだった。
「空の空。全ては空」といったソロモンの崇高な絶望から逃れるために全てを捨て、世界を創造したのにも関わらず、その世界さえも自分で滅ぼしてしまい、今となっては真の意味で全てを失った。私はソロモン以上に空の空というのを極めたのではなかろうか。
空の空を避けるために動いた結果が空の空を極める結果となったとはなんたる皮肉であろうか。
これは喜劇だ。ベートーベンの気持ちが分かる。
――諸君、喜劇は終わった。喝采を。
などと思っていると直美が私の頭を優しく撫でながら言った。
「優輝さん、私はあなたがどうなろうと愛しているわ。あなたの世話が出来る今、私はとても幸せよ。例え体が動かなくても、あなたの意識は動いているわ。こんなことを言うと、ストーカーのホラーな女に聴こえるかもしれないけど、あなたの体が動かなくなったから私から逃れることが出来なくなって良かったと思うの。こんな考え方はひとりよがりの狂った愛かもしれない。でもあなたがこうして生きている限り、私はあなたを愛することが出来る。私も鈍感な女じゃない。あなたは私を愛していなかった。いや、あなたは誰も愛してことが無かった。あなたのお父さんがたくさんの女性と関係を持っても、誰も愛していなかったように……」
そう、私の父は誰も愛していなかった。この私さえも。いや、愛し方を知らなかったのだ。それは父が誰からも愛されていなかったからだ。
否、違う。父は誰からも愛されていないと思っていたからだ
そして私も同じように誰からも愛されていないと勘違いをしていたようだ。
愛されるとその愛に裏切られるのが怖かったからこそ、私はわざと勘違いをしていた。
他人から誰よりも賢く強く見えていた私は、その実、誰よりも傷付くのに恐れた愚かで弱い人間だったということだ。
それは私自信さえも知らなかったことだが、直美だけはそれを知っていた。
直美は言う。
「あなたのゴミに埋もれた部屋から膨大な数のあなたが書いたと思われる小説が出てきたわ。あなたはそれがしたかったのね。でもまだ出来るじゃない。最近は目の動きだけで操作できるパソコンもあるのよ」
直美は俯いて、唇を噛み、躊躇いがちに続けて話した。
「ひとりよがりの狂った愛にならないために、私が嫌いなら私はあなたから離れるわ。でももし、あなたが良いと言うなら、一緒に生きてください」
私の目はどうやらまだ涙が出るようだ。その流した涙がOKの合図だ。
どうやら直美にはその意思表示が伝わったらしい。
全ての生き物は愛に反応する。
私は色々なことに勘違いをしていた。
ソロモンは1000人の妻を持っていた。
彼が空の空だったのは無償の愛を知らなかったからだ。
そしてそれを捜し求めていた。
愛があるのならば、例え全てを持っていても、或いは例え全てが無くても、環境に左右されることなく幸せなのだ。
それは男女間の愛や家族の愛などを超えたもっと究極的な完全な愛だ。
この世で本当に必要なのは愛だけであり、それ以外は付録のようはものではないだろうか。
私はその愛を知らなかったからこそ虚無であり、そしてそれを捜すために必死だったのかもしれない。
なんという皮肉だろうか。
私は世界を創造し、全てを得て、そしてその全てを失ったと同時に、真の幸せを得た。
鈍感な私は全てを得てから全てを失わないとそれに気付かなかったようだ
全ての生き物は愛に反応する。
それにしても、人が世界を創造するなんて、おこがましいにも程があった。
そういえば昔、静岡の浜名湖にある温泉に夜入っている時に、夜空に浮いたおぼろ月を観ていた。
分厚い雲のところどころに亀裂が入り、その亀裂の合間から星がたまにちらりと見えるのがロマンチックだった。
私は今と同じ姿勢でそのおぼろ月を観ていた。
ただ、その自然の造り出す創造美に圧倒されていた。
何処かの団体客が五月蝿く騒いでいたが、その声は近くにあるが、まるで遠くの別次元から聴こえるようで全く気にも留めず、ただ何時間もその感動を眺めていた。
それは自然の中で神が創造された感動であり、それも愛だ。
全ての生き物は、愛に反応する。
次は小説ではなくてアンソロジーでも創作しよう。
病室の天井にはあの圧倒的に美しい景色は見えないが、私の心はあの時以上の感動と喜びで満たされていた。
諸君、今度こそ喜劇は終わった。もう一度、喝采を。
「完」
小さな神 @gtoryota1
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