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兄の帰宅が遅いとわかっていたので、嵐は早く帰る気になれなかったのだ。
兄は半年に一度くらい、鳴瀬のところへ出向いている。本当はもっと行きたいだろうが、自制しているらしい。
嵐は、兄が自分と違って、したいことを我慢しがちな性質であることを不思議におもう。一卵性の双子なのに、嵐はこらえ性がなく、兄は無駄に忍耐力があった。他人では顔の見分けがつかない程度にはそっくりなのに、性格はまるで違うのである。
といっても、嵐は右目、晴は左目の下に、よく見なければわからないほどちいさなほくろがある。無駄に左右対称だ。ほくろは生まれたあとに出てくるというから、一卵性でも関係ないのだろう。
とにかく兄は、嵐とはかなり性格がちがう。まじめだし、努力家だ。鳴瀬のところへ行くのは、師として慕っており、今も何か教えてもらっているせいもあるだろうが、やや体が不自由な彼がひとりきりで過ごしているのが心配でもあるらしい。とはいえ、鳴瀬のそばには、このあたりではかなり強い、――神威さえ感じさせる式神が家の筋に憑いているそうなので、兄は、自分の心配が余計なお世話であることもちゃんとわかっているようだ。
母と離れて暮らすようになってから、母を案じる必要がなくなったので、兄は少しばかり、自分のことにかまけるようになった。そのせいか、母といたときはやさしい物言いをしたものだが、嵐だけに見せるややぶっきらぼうな態度が、通常のそれになりつつある。そのほうがいいと嵐は思う。兄に限っていえば、人当たりがいいと、ろくなものに寄りつかれないからだ。
とはいえ兄のぶっきらぼうさは内気の裏返しで、実は根がとてもやさしい。やさしい……そんなことを考えながら歩いていた嵐は思わず唸ってしまった。
やさしいのだろうか、あれは。すぐ、他人に同情する。憑坐としての性質を持つため、兄は他人の魂を受け容れざるを得ないときがある。魂というとあやふやだが、要するに、意識や記憶だ。混ざり合うことは決してないものの、相手の記憶や意識を感じ取れてしまうため、兄は、他人の痛みを自分のもののように感じることが多いようだ。体の痛みではなく、心の痛みである。
心というと、魂とはまたことなったあやふやさだ。兄はコンピュータにたとえたら、記憶はデータで、脳はCPU、意識は内蔵メモリだと言った。CPUに書き込まれているプログラムを内蔵メモリ上に読み出し、電源を切ると読み出されたプログラムは消えるから、頭と意識の関係に等しいはずだと兄は主張した。
兄の主張にあてはめると、心や魂はCPUと内蔵メモリが活動しているときの状態をさすのではないだろうか。兄は誰かに憑依されているとき、意識を失っているわけではない。だから、死んだことに納得できていない者の悲しみに同調しがちである。甘ったるいにもほどがあると嵐は思う。
だが、それを兄らしいとも思う。自分が弱くて、誰かに助けてほしいと願っていたことを忘れられないのだろう。だから、助けを求められると助けずにはいられないのだ。
自分たちが双子でよかったと嵐は思う。少なくとも年の離れた兄弟よりは対等だ。だいたい一緒にいられる。兄がそんな性格で、嵐と歳が離れていたら、どんな危ない目に遭っていたか。想像するだけでげんなりしてしまう。さすがに盗人に追銭するほどのお人好しではないはずだが、どうだろうか。やさしいのだとしても、我が身を削るような真似はやめてほしい。
嵐はそんなことを考えながら、家のある商店街に入った。家といっても祖父の持っている雑居ビルで、堅牢だが、もうかなり古い。一階は喫茶店だが、店主が病気がちで、最近は休業中だ。もしかしたら祖父は地代を請求していないかもしれない。二階は祖父の友人が酒場をやっていたが、今は閉店して、ただのがらんとしたフロアになっている。次の店舗が入る気配はまったくなかった。ここは横浜で、駅向こうは再開発も終わって、その余波でこちら側もそこそこ賑わっているはずなのに借り手がつかないのは、ビルがふるいせいかもしれないし、単に祖父のお眼鏡にかなう店子がいないだけかもしれない。
嵐は階段を三階までさっさとのぼった。三階はほかの階と違って、階段をのぼり切った目の前が壁だ。そこで振り向くと、唯一の扉が見える。嵐がそちらに向かうと、ポケットに入れた鍵を取り出すより早く、扉があいた。
「……遅かったな」
嵐とほぼ同じ顔が、不機嫌そうな表情を浮かべている。嵐はひやっとした。兄は不機嫌そうな顔をしていても、ほんとうに不機嫌だったりすることは滅多にないのだが、今日はそうではないようだった。といっても、怒っているわけでもないのかもしれないが。
「ハルくん、早かったね」
返す声がうわずりかけた。兄はじろりと嵐を見た。
「鳴瀬さんのところに電話がかかってきて、話が長引きそうなので、早めに引き揚げてきた」
「へえ。仕事の電話?」
「違うようだった。それよりおまえはどうしてこんなに遅くなった?」
やや詰問口調なので、嵐は素早く考えをめぐらせた。正直に話すほど愚かでもない。
「友だちがバイト手伝ってくれっていうから。ほら、いつも賄い食べさせてくれるとこ」
「……おまえはそんなに自炊がいやか」
兄は呆れたような顔をすると、玄関の中で一歩ひいた。嵐はホッとして、扉の隙間から中に入る。
「だって僕、料理はうまくないでしょ?」
「うまくなる気がないだけだろう」
そう言う兄はもうさっさと廊下を進んでいる。嵐は後ろ手に扉の鍵をかけるとチェーンもかけた。
「ハルくんはごはん食べてないの」
「駅の立ち食い蕎麦で済ませた」
「それだけで足りる?」
自分がお茶をごちそうになったあげく食事も奢ってもらったのが後ろめたくて、嵐は尋ねた。
「腹が減ったら牛乳でものむさ」
兄は振り返りもせず、広間へ入っていった。嵐もそれにつづく。
祖父の住んでいたこの家は、雑居ビルの三階にあって、いわゆる家、という感じはしない。廊下の先には広間があって、左側の壁に扉が二枚、右側に厨房へつづく出入り口がある。扉のうち手前は祖父の部屋につづき、窓に近いほうは双子が寝室として使う部屋につづいている。祖父が使っている部屋は書斎と寝室の兼用で、穴蔵のようになっているが、双子の部屋も似たようなものだ。詰め込んだ二段ベッドと古びた衣装棚と箪笥があるきりで、机はない。学校の宿題などは広間の大きなテーブルでやる。ここでは食事もするし、居間としてくつろぎの場でもあった。
床は堅く、もともとは靴のまま上がる部屋としてつくられていたのではないだろうか。しかし祖父は気にせず靴下で歩く。だからこの家にスリッパはない。双子ももといた家はスリッパを使うような生活はしていなかったので特に気にしていないが、冬になると冷たくて寒いから、分厚い靴下は手放せなかった。
「はがき、きてたぞ」
嵐が上着を脱いで椅子の背にかけると、兄は言った。机の上から取り上げたはがきを嵐に渡すと、そのまま厨房に入っていく。
嵐は受け取ったはがきを眺めた。
きれいな流れるような字で書かれているのは、母の近況だ。書いているのは母の、現在の夫だ。彼は月に一度は母の近況を綴ったはがきを送ってくる。はがきなのは、封書だと目に入れることなく捨てられると考えているかららしい。どうやら彼は双子が彼を母親を奪った相手として恨んでいると考えているようだが、実のところそうでもないので、嵐としては失笑しかなかった。むしろ彼は母を助けてくれたのだと、嵐は考えている。兄も、そうだろう。
「へえ。子どもが生まれるんだ」
はがきの文面を読み進めるうちに、嵐は目を瞠った。
「よかったな」
厨房から出てきた兄は、マグカップを両手に持っていた。ひとつを嵐の前に置くと、自分の席に座る。テーブルの上は乱雑にいろいろなものが置かれている。ペン立てや、朝ごはんに食べた食パンの袋、メモ用紙、電気スタンド、写真立て。箱のような抽斗つきのちいさな本棚もある。
「よかったの?」
嵐は首をかしげて兄を見た。兄は嵐を見返しもせず、席に着いた。いつものように、兄の場所にはノートが広げられている。放り出されたペンはお気に入りの三色ボールペンだ。
「よかったんじゃないのか。母さんもまだ子どもが産める歳だし」
「母さんはね。僕たち、異母兄弟と異父兄弟がいることになるのかと思ったら、複雑じゃない?」
「おまえ、複雑なのか?」
兄は意外そうな顔をした。
「うーん、どうだろう」
嵐は会話を終わらせたくなくて、そう答えた。正直なところ、嵐にとってきょうだいは兄だけだ。父がよそでつくった弟妹のことなど、他人も同然だった。
「生まれたらお祝いで何か贈ろうと思っていたんだが」
「それはいいね」
嵐は心からうなずいた。「何がいいかな」
「ただ……」
そこで兄が、暗い顔をした。「母さんは、驚くだろうな」
「……そうだね」
兄を慮って、嵐はうなずいた。
母は、双子の息子がいることを忘れてしまった。心神喪失だと、母の夫は説明してくれた。当時はまだ夫ではなかったが……とにかく、母にとっては、父との結婚生活は忘れたいほどの汚点となったのだろう。嵐は女ではないが、結婚相手がほかにも家庭を、しかも複数もっていたと知ったら、何もかも忘れたくなってもしかたがないだろうとは考える。
父は、一年に三か月しか家に帰ってこなかった。仕事の都合だときいていたが、三か月ごとに滞在する家をかえていたのだ。双子の家もあわせて三つの家庭に三か月ずつ滞在し、あいだはひと月あけていたという。そうすると一年のうちひと月ずつ滞在期間がずれるのだと、父は弁解していた。
三家族がいっせいに揃ったことが一度だけあって、ほかのふた家族のうちひとつの家の妻は完全に父に愛想を尽かしたと言っていたが、もうひとつの、まだ若い奥さんは子どもが生まれたばかりだと泣いていた。双子を含めて、父は五人の子持ちだった。どうかしていると嵐は今でも思うが、そんな父に自分が似ていることも否定できない。
「笹原さんと相談すればいいよ」
笹原とは今の母の夫だ。もともと中学のときの同級生で、彼が最初に、父の不義を嗅ぎつけたのである。彼の尽力がなければ、今でも双子は母と一緒に、父がいつ帰ってくるか待っていただろう。
「バイトももう少し増やしてもらうか……」
「いいけど、なんかスッキリするやつがいいなあ。それに、悪者退治とかでないと、僕の出番がまるでないから。ハルくんが憑かれて疲れるばっかりじゃ、申しわけないよ」
嵐が少しおどけていうと、兄は苦笑した。嵐は少しホッとした。兄が笑うと、嵐は安心する。苦しそうな顔はもう見たくない。自分が尋常な情緒の持ち主でないことを嵐は自覚していたが、そのぶん、兄が繊細で傷つきやすいような気がしているのだ。繊細でもなく傷つきやすくなくても、バイトで回ってくる案件に降霊が多いと、死者の無念を味わわされるのは兄ばかりなのだ。相当にぶくなければ、たてつづけに死者と向き合うことなどできない。嵐でさえ、死者の無念を感じ取るのはひどく疲れるのだ。
「おまえがスッキリするっていうと、要するにあれだろう? よくない憑物を吹っ飛ばすとかそういう」
「うん。そういうわかりやすいほうが、僕は好きだし、楽だね。楽しくはないけど」
「楽しくないのに楽、か」
兄はそう呟くと、ノートに「楽」と書いた。それをボールペンの先で、とんとん突いている。
「同じ字なのに、意味が違うな」
「そうだね」
また、くだらぬことを考えている。兄は些細なことでもすぐに考え込むのだ。
「楽でなくても、楽しいほうがいいな」
兄は何がおかしかったのか、そう呟くと、くすくす笑った。
あやかし双子は高校生 椎名蓮月 @Seana_Renget
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